江戸日本橋から京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ中山道、その距離132里(約530km)。太平洋沿岸経由の東海道に比べて距離は10里以上も長く、また和田峠越えや「木曽のかけはし」など、命に係わるような難所があったにもかかわらず、この山岳を突っ切る街道は、別名「木曽街道」「木曽路」とも呼ばれ、旅人の重要な道となっていました。
日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て近江・草津まで六十七次。「馬籠宿(まごめじゅく)」は四十三次、木曽十一宿では一番南に位置した宿場町です。
石畳の敷かれた坂に沿う町並みは、馬籠峠を越えた妻籠宿と共に、観光客に人気のスポット。かく言う私も、随分と長い事「馬籠&妻籠」の地名に憧れを抱いて来ました。
語呂の加減からか「馬籠・妻籠」と対で呼ばれる宿場町ですが、妻籠は「国重要伝統建造物保存地区」。対して馬籠にはそうした歴史的建造物は存在していないのです。明治28年(1895)と大正4年(1915)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失。この事実を知ったのは実際に馬籠行を計画したときで、それゆえ過度の期待を持つのは止めておこうと思っていたのですが・・
けれど、馬籠宿に足を踏み入れた時点で、歴史的がどうこうなんてどうでも良いと思えるほど、心が震えるような感動に目を見張りました。そこに在るのは確かに夢見ていた馬籠宿の佇まい。
坂道に敷き詰められた石畳、いつの時代のものなのか、辻に祀られる阿弥陀堂下の三体の地蔵板碑。
見上げた先に見える佇まいは、馬籠宿に辿りついた旅人たちが目にしたものと、きっと、とても良く似た光景。
宿場を流れる清らかな水路、水路に似合うのは静かに回る水車の音。
いま、私の前に広がる馬籠宿の町並みは、観光資源としての史蹟の保全と、今の生活を共存させる試みの中で、現在の形に復元されたと言います。初めて馬籠・妻籠を訪れたのは2010年の秋、それから4年後の2014年の初夏にJ🐣さんが同行で再訪。行きたい場所で埋め尽くされている私の地図。なのに同じ景色を又見たくなる・・それほどに馬籠宿は心を鷲掴みにしたスポットだったのです。
「清水屋資料館」は、代々馬籠宿役人を勤め、島崎家と親交が深かった『清水屋:原一平』宅。藤村の作品「嵐」の作中で「森さん」の家として登場します。館内には『島崎藤村』直筆の書簡や資料が保管展示されているそうですが・・きっとすごく時間を食うと思うのでパス😓。
四季を通して多くの観光客が訪れる馬籠宿、石畳の両側に並ぶ土産物屋はいかにもな雰囲気。商いをしていない一般の家も当時の屋号を架けたりするなどの工夫が凝らされており、それがまた一段と好奇心を掻き立てます。
だらだらと歩くだけでは心折れそうな坂道ですが、両側に並ぶ土産物の暖簾を見ているだけでも十分に興味深く、 もちろん、全部が全部食べられるわけでも買える訳でもありませんが、のぞき見するのも楽しく、先へ先へと歩が進み・・
知らず知らずのうちにご亭主殿を置いてけぼりにして、勝手に先に進む私😐 ふと気が付いて振り返れば、付かず離れずの位置にいてくれるご亭主殿。何というか・・・いつもより男前度がアップして見える💕
馬籠宿の郵便局。最近はメールばかりだけど、大好きな義姉にハガキを出してみようかな。
独特の木の香りに誘われて近寄れば、木曽五木で作られた「曲げわっぱ弁当箱 」が、使う当てのない私を誘惑します。使う当ての有るJ🐣さん、しこたま悩んでお買い上げ😆
坂道の途中に作られた防火水槽、時ならぬ水音に覗き込めば大きな鯉がゆらりと背びれをゆらし、のったりと顔を持ち上げる。
かと思えば、壁に藤村童話「歌の好きな石臼」の話が貼られていて、でもその下にある臼は木製😅。
坂道の横に延びる細い路地。何気なく立ち入ったその瞬間に目に入るこの景色、遥かにかすむのは恵那の山並みか。
と・・・こんな具合にまだまだ続く馬籠の宿場歩き、長くなるので明日に続きます🌸
訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日