昨日に続いての宿場歩き、最初は妻籠宿では珍しい洋風建築の建物。玄関入口には「観光案内書」「妻籠を愛する会事務所」の看板。玄関前には「御下賜金紀念日毎年七月二十五日」と刻まれた碑が建立されています。
建物は明治29年(1896)年に飯田警察署吾妻分署として建築。その後は吾妻村役場、南木曽町役場吾妻支所として使用された後、観光案内書として活用。木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺、平入、外壁は下見板張に薄墨色のペンキ仕上げ。玄関庇が何とも良い雰囲気ですが、気になるのは「御下賜金・・」の碑。
江戸が東京になり、幕府がなくなって大名の参勤交代がなくなり・・・さらに明治以後の目覚しい交通改革によって、妻籠宿は宿場としての機能を失いました。尾張藩の厳しい規制下にあった木曽の山は、明治維新を迎えても生活(たつき)とならず、官営をへて皇室の御料林となりました。妻籠宿本陣最後の当主であった島崎広助は新政府とかけあい、御下賜金を受けるという形で解決をみましたが、村民の元に山は返って来ませんでした。人々の暮らしを支えるめぼしい産業も無く、町は衰退の一途を辿る事となります。そのままでいけば、この美しい光景は時代の波の中に飲み込まれ、消えうせていたでしょう。そんな中、この妻籠に暮らす人たちは、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組みました。この古く寂れてしまった宿場町を再生する事が、過疎に歯止めをかける唯一の手段であるとして「売らない・貸さない・壊さない」を信条に「妻籠を愛する会」を結成。妻籠を愛する心が、この素晴らしい宿場町を存続させたのです。
観光案内所の脇道の上段に建立された「忠魂碑」。この村から出征され、戦没された方々の忠魂を偲び、一時の縁を感謝して拝礼🙏🙏。
観光案内所の斜め向いには、幕府により防塞を目的として造られた「枡形」。敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた「桝形」。馬籠宿にもありましたが、今も各地の宿場などで目にすることができます。
坂道を登った先に見えるのは、青々と葉を茂らせる樹高8mの「長野県指定天然記念物:妻籠のギンモクセイ」。妻籠宿の神官:矢崎家の庭木として植えられたもので、栽培樹で巨木として知られる銀木犀としては最も東に位置しています。
馬籠宿で見た郵便局は赤い丸ポストでしたが、妻籠郵便局は「書状集箱」。
昭和53年に郵政本省の指導で復元された妻籠郵便局内には「妻籠郵便資料館」を併設。昔の「郵便マーク」や、年代を追ってのポストなど珍しい郵便資料が展示され、無料で公開されています。
石置き屋根の建物は、妻籠宿で旅籠を生業とした「下嵯峨屋」。現在の建物は木造平屋建、切妻、平入、板葺石置、桁行3間、梁間5間、江戸時代中期の旅籠建築の遺構として貴重な事から南木曽町指定有形文化財に指定されています。
こちらは同じく南木曽町指定有形文化財の「上嵯峨屋」。説明版によると「この建造物は昭和44年の解体復元によって江戸時代中期(18世紀中期)の建物と推定される。建造当初の形式をよくとどめ庶民の旅籠(本賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる。」とあります。
上記の「上嵯峨屋」、建物はこの暖簾の掛ったお店の左にちらっと見えている部分 😅
お店の方では「木曽蘭桧笠(きそあららぎひのきがさ)」の製作実演の最中とあり、その手さばきの華麗さについ見惚れ。
道は更に続き、その土地ならではの品物を並べるお店が続きます。「永楽屋」さんは「ねずこの下駄」が主力のようで、男・女、大・小の下駄が並んでいます。
夫婦共に和服に携わっていた関係で、こうした履物にはついつい目が行き、ついつい手が伸び、その軽さと手触りの良さにについついお財布を取り出し・・・😅
「旅人宿・坂本屋」と染め抜かれた暖簾が掛かるお宅。宿場だった頃は旅籠を営まれていたのか・・・京へ下る人、江戸に向う人、見知らぬ同士が囲炉裏を囲み一期一会の出会いをした・・そんな事を想像するのも、又楽しい。
気が付けばいつの間にか宿場の外れまで来たようで、かすかに水音が聞こえてきます。ここから再び元来た道をたどって、見損ねたあれこれをちゃんと見なくては!
という事で、宿場歩きの紹介は更に明日へと続きます🌸
訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日