松本市蟻ケ崎の「塩竈神社」境内入り口に、「握手双体道祖神」と「歌碑」各一基。
「文政六年癸未五月十□」の刻。更に「天保十二 辛丑年(1823)正月吉日 蟻崎邑 白板村」の刻。この二つの刻は、 道祖神盗みで白板村から運んだものと言う意味。松本市の道祖神に見る歴史的風致の一文に「江戸時代には、ムラが繁栄するとそのムラの道祖神が盗まれるということがあり、これを「道祖神の嫁入り」といいます。横行する道祖神盗みを拒むため、この道祖神を盗むと十両の結納金をいただくという意味の「帯代十両」と刻まれている道祖神もあります。このことは、道祖神がムラの繁栄と大きく関わる神であると認識されていたことを示しています。」の記載が有ります。
道祖神の右横の歌碑、作者は大正~昭和時代前期の歌人『川崎杜外(とがい)』書は『窪田空穂』で【 野の草の いろつき枯るゝさまみれは 土に朽つる物は みな静なり 】
大名町大手門井戸の一区画にある「握手抱擁双体道祖神」。「女鳥羽 名匠宮下近太郎刻 昭和 五十八年(1983)癸亥年 贈:七月吉日 松本拓本研究会」の刻。寄り添う二人の間には何物も踏み込むことのできない世界が広がっています。
深志神社境内に「酒器:祝言双体道祖神」。南参道鳥居近くに「文字碑道祖神」。詳細不明。
松本市島内に鎮座される小宮神社境内には御嶽山大権現碑や文字道祖神碑、庚申塔などが一か所に仲良く祀られています。一見して道祖神と読める物もあれば、すでに風化し始めて何が書かれているのか判読できない文字碑等々、種類も様々。
その中で向かって左端、絵香炉を持った幼い少年の像。この姿に心当たりがあるとすれば「聖徳太子・孝養像」のようですが、もしもそうであるなら。何故ここに聖徳太子が??疑問のまま次へ 😅
松本市島内小宮中手、「文字碑道祖神」二基。左、「小宮村中手中 文久二壬戌(1862)二月吉日」の刻。右、「小宮邑 上手中 安政四丁巳(1857)正月 」の刻。
更に境内に「仏塔」「文字碑」各一基。
「有明開山有明教祖 木喰天明霊神」碑。明治6年(1873)、有明山の麓に住んでいた木喰天明行者は黒井沢からの修験道を開設しますが、この時、強大な力を持った化け物を退治するようにと、天からお告げを受けます。この化け物、何とあの『八面大王』の化身!・・・まぁ・・なにはともあれ、化け物は退治され有明山の修験道は無事開設されました。
松本市島立に鎮座される「沙田(いさごだ)神社」境内の「文字碑道祖神」。
松本市里山辺に鎮座される「須々岐水神社」一の鳥居横に「文字碑道祖神」「仏塔」各一基。
松本市出川町に鎮座される「多賀神社」社務所の前に「文字碑・道祖神」二基。左には「木澤七郎書 文政二年己卯(1819)十二月 吉日 出川」の刻。右には「文政二年己卯(1819)十一月吉日 出川町 村上之丁」の刻。
薄川に架かる歩行者&自転車専用の「見晴橋」。その親柱に1991年12月生まれの「握手肩抱き双体道祖神」二基。
一見同じもの?と早とちりしてしまいそうですが、実は男女神のお顔が全く別なのです。念のために確認して良かった😊
松本市大手、信濃毎日新聞松本専売所前に仲良く新聞を読む「双体道祖神一基」。石工は松本型狛犬ですっかりお馴染みの「田近石材さん」。
男女神とも、ちょっと難しいお顔なのは、書かれている記事の内容の所為でしょうか?世界は決して美しいお花畑ではないのです。
松本市内田、馬場家住宅近くの交差点角に「文字碑道祖神」一基
常楽寺近く「恵比寿・大黒天像」「繭玉大王碑」、他五基。
「恵比寿・大黒天像」
松本市寿小池に「跪坐酒器祝言双体道祖神」一基
「小池講中 昭和五拾参年(1978)四月吉日 世話人田中親人 」の刻。想像以上に新しい時代の道祖神であったことに驚きました。男神の顔はふっくらとしたいわゆる福相。女神は緊張しながらもしっかりと男神の顔を見上げています。
近くにあった道標 「南 ←片丘村北内田邑御ヲ経テ〇湯ニ至ル →牛臥寺道」「西 ←松本市に至る →塩尻に至る」
撮影日:2010年10月17日&2016年4月22日~24日
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『道祖神(さえのかみ)=道俣神(ちまたのかみ)=岐の神』、伊邪那美命の死後の姿に恐れ、黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が禊祓をした折、脱いだ袴から生まれた。道の分岐点を守り邪霊の侵入を阻止する神。旅人の安全を守護する神。
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