年間50万人以上の観光客が訪れる「重要伝統的建造物群保存地区・倉吉市打吹玉川」。黒板塀に白い土蔵造りの建物が並ぶ町並みは、パンフレット等でもすっかりお馴染み。
江戸初期から大正時代まで商業都市として栄えた打吹地区。本町通りや玉川沿いには、江戸時代末期から昭和前期までの伝統的建造物約100棟が現存し往時の面影を偲ばせています。
有名な建物やお店が目当てでない町歩きは、ある意味とっても自由で気まま。そうして一足ごとに出会う各々の佇まいに魅了されます。紫の暖簾に染め抜かれた「餅一筋 清水庵」。餅一途に商ってきた餅屋ならではの名物「餅しゃぶ」が有名だそうです。
魚町通りの「倉吉大店会」。明治41年(1908)に第三国立銀行倉吉支店として建設された擬洋風建築の建物は、複数の金融機関を経て、現在はカフェ、事務所として使用されています。
歴史のある町並みには歴史のある寺社も多く存在し、慶長十年(1605)に開創された曹洞宗の名刹「大岳院」もその一つ。
もと駿河沼津城主 中村彦左衛門一栄公の菩提寺で慶久寺と称していましたが、一栄公の移封とともに伯耆八橋に移転。 一栄公の没後、嫡子の倉吉城主 中村伊豆守が一栄公を開基とし、その法名から「萬祥山大岳院」と名づけ、父の実兄で慶久寺十世 孝山智順禅師をむかえて開創しました。
境内には、江戸幕府によって伯耆国に配流され、元和8年(1622)にその地で没した安房国(千葉県)館山城最後の城主『里見安房守忠義』と主君への忠義に殉じた8人の家臣が葬られています。家臣につけられた戒名には、共通して「賢」の字が入る事から八賢士と称され、この「八賢士」を『南総里見八犬伝』に登場する「八犬士」のモデルに求める説もあるそうです。
また同じ境内には、『明治天皇』の高祖母にあたられる『大江磐代』の母君『お林の方』の墓所もあります。
参詣を済ませたら再び町歩き。こちらの建物は江戸時代の嘉永年間から酒造りを続ける「元帥酒造」。石州瓦の赤と白壁のコントラストが美しく町並みに溶け込んで、思わずウットリ。
御幣の巻かれた杉玉。心惹かれるラベルの名前・・ご亭主殿、町歩きは始まったばかり!帰りに寄りましょうね!
まだまだ続く打吹玉川の町歩き、続きは明日の町並み散策~Ⅱ~で
訪問日:2012年4月19日
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