会津若松市河東町大字倉橋字藤倉に残る「国指定重要文化財:延命寺地蔵堂(藤倉二階堂)」。
「大同2年(807)徳一大師の草創と伝えられ、延命地蔵が祀ってある。屋根が重層になっている為、俗に二階堂と呼ぶ。往古は慧日寺の本寺で、現建造物は室町初期より中期にかけての建立。棟梁は飛騨工水口八右エ門と言われている。別当延命地は寛文年中・及び慶応四年九月戊辰の乱の際、堂一宇の他は本堂・客殿・庫裏等消失し、旧記類は全て烏有に帰した。」現地案内より
三間四面に、裳こしは5間四方で吹き抜け。元は萱葺きの堂宇でしたが、磐越西線の開通により機関車の影響で火災の恐れがあることから、大正2年に瓦葺きに改装。
この堂の余材を、北を流れる大工川に流し、下流に位置する会津若松市高野町平塚の薬師堂が一夜にして建てられたという伝説があり、大工が木を流したことから、その川は大工川と呼ばれています。
句碑【明日知れぬ いのち野菊に しづ〇〇る】
水の張られた田んぼは遥か彼方まで続き、空との境にかすんで見える磐梯山・・ぽつんと白く見えるものは・・・あれは確か、会津村の会津慈母大観音像。
会津若松市河東町倉橋藤倉、おだやかな田園風景の中に建立された「市有形文化財:皆鶴姫の碑」。平家打倒を願う義経は、鬼一法眼の兵法書を学ぶために、法眼の義理の娘である皆鶴姫に近づいて恋仲となり、兵法書をひそかに写し取ることに成功します。しかし平清盛に気づかれ奥州へ。姫は義経の後を慕って藤倉まで来ますが追いつけないと知り、難波池に身を投げてしまいます。
義経は、磐梯町の大寺でこれを知り、姫を池のほとりに葬って墓を築いたとされます。皆鶴姫の碑は、寛政5年(1793)に会津藩によって建立されました。
同じく市指定文化財の「暦応(りゃくおう)の碑」。中央の石碑は、高さ、幅とも60cm、正面上部には観音菩薩を意味する梵字と、「暦応五年十二月敬白」の銘。右側の石碑は高さ140cm、幅40cm、正面上部には阿弥陀如来を意味する梵字。左側の石碑は、高さ70cm、幅69cm、正面には阿弥陀如来と勢至菩薩、観音菩薩を意味する3字の梵字が刻まれています。また、碑の左側には『源義経』が奥州平泉に下向する際、鏡山を通過する時に愛馬を繋いだと伝わる「駒繋石」が移転奉納されています。「暦応の碑」は、年号が明確で貴重な事から昭和45年(1970)に会津若松市指定有形文化財に指定されています。
会津若松市河東町広田中島戊にある「磐越西線:広田駅」。鉄骨平屋建ての駅舎は会津らしさを意識した和風の外観。何でもない景色ですが、思い出に残った一コマです。
訪問日:2015年6月27日
コメントありがとうございます。
朝から雪ですか。
本格的に冬の始まりですね
こちらも本格的に寒いという事で
ついに暖房のお世話になりました。
こんにちは!
寒いですねぇ。
ついに札幌は朝から雪であたり一面白くなりましたよ!