本洗馬歴史の里で存在感を示す「釜井庵(かまいあん)」。「戦国時代、妙義山城主としてこの地方を支配していた三村氏が、山麓に設けた居館跡に建つ庵で、建築年代は十八世紀の中頃と推定されています。江戸時代の文人・紀行家の菅江真澄が天明三年(1783)この地を訪れ、一年余を釜井庵を拠点として過ごしたことでも知られています。また、寺子屋として、丹波花逕・大脇正蔵・小林源吾等の手習い師匠がこの庵で村童を教え、この地方を指導した多くの人材を育てました。」公式ホームページより
寺子屋時代のこの場所には、きっと沢山の子供たちの賑やかな声で溢れていたのでしょう。目を閉じれば墨のにおい、そろばんの珠をはじく音・・・
市の史跡に指定された「釜井庵」の庭には「洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く」という「夜泣石」があります。
天文二十四年(1555)、塩尻峠の戦いによって功を上げた『三村駿河守長親』は、『武田信玄』に戦功を与えると云われ甲府の一蓮寺に出向きます。しかし信玄は、主を裏切る者はまた裏切るという理由を付けて兵をさし向け、寺を焼き、三村氏の一族郎党を皆殺しに・・・戦国の世の習いとは言え・・無念であったと思います。
夜泣き石の近くに「九月一三夜の碑」 天明三年(1783) 菅江真澄は本洗馬の文人と名月を眺めて歌を詠み合いました。【 待ちわびし 木々の紅葉の梢より もりてさやけき 長月のかげ 直堅】【 雲晴れて 後の月こそさし出れ しなとの風の 神のめぐみに 永通】【 しらぎくの しらぬくまさへあらはるゝ 世に長月の けふのこよひは 秀雄(真澄)】
「熊谷祐碩の狂歌」【 いざゝ良ば筆をの故して 古の石にものいは寿るも月下の事 末廣】熊谷祐碩は末廣、または夕夕と号し狂歌を詠みました。本洗馬で代々医者を営み、先代は菅江真澄を世話した可児永通であり、5代後が長野県初の文化勲章受章者である熊谷岱蔵博士です。
「丹羽花径先生の碑」江戸で山形藩に士官していた丹羽花径は長興寺洞月上人の元に身を寄せたのち、釜井庵寺子屋師匠を40年近く勤め、文政三年、この地で没しました。碑文は同じ文政期に2度に渡り洗馬郷小曽部に逗留した江戸の漢学者・兵学者、加藤環斎によるものです
「釜井庵」の庭には、県特別指定希少野生植物の「クマガイソウ」が慎ましやかな蕾を付けて私たちを出迎えてくれました。
ラン科アツモリソウ属に分類される「クマガイソウ」。こんなにひっそりと優しい姿ですが、花言葉は「みかけだおし」「気まぐれな美人」「闘志」。
下の画像は資料館の表にあった写真をお借りしましたが、どうやら花が開いたときの状態が、大きな葉を開かせて周囲の植物を威嚇しているように見える・・という事らしいです(^^;)
本洗馬歴史の里資料館には、菅江真澄や、医学者で当時蔓延していた結核の治療・予防に貢献した文化勲章受章者熊谷岱蔵博士、釜井庵・洗馬の歴史文化の資料、また「洗馬焼」をはじめとした塩尻の焼き物等が展示されています。
訪問日:2016年4月23日
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