熊取町五門西、熊取歴史公園から水路を隔てた先に、平安時代より続く豪農の「中家住宅」が一般公開されています。熊取町の公式HPによれば「中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮とした由緒ある泉南地方の旧家であり、「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まる。室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、その勢力を背景にこの地方における政治・経済の担い手として活躍。江戸時代には岸和田藩の郷士代官や七人庄屋の筆頭を勤め、谷内には四百石を越える持高を有し、三十軒前後の「家中」と四十軒余りの「内衆」を抱えていたと言う。」公式HPより
中家住宅に南面する「三間薬医門」を入ると、正面に主屋が建っているのですが・・残念ながら時間切れ(^^;)
関係者らしき方から、外観のみの見学なら出来ると言っていただき、二度とない機会かもしれないと有難く拝見させて頂くことにしました。
表門を背にして見上げれば、入母屋造り・茅葺き・妻入りで、周囲に本瓦葺きの庇をめぐらせた主屋が妻面をみせて建っています。錆び朱色の漆喰壁が独特の風情を見せる主屋。
住宅正面の家紋は、後白河法皇が熊野山行幸の折、当家にて作った甘瓜を献上し、それを喜ばれてこれを家紋とするようにお言葉があったことにちなみ、「三つ巴」と定めたもの・・と、これも公式HPに記載されています。
西面し組物をもつ向唐門(重文)や、独特の構造を持ち、近畿地方でも最大規模のものと言われる土間など・・見たい場所は一杯あるのに・・重要文化財指定の建築物を目の前にして、すごすごと引き返す無念さは・・・後を引きます(笑)
屋根の上から、しょげ返る私を見て苦笑いの鬼瓦さん(^^;)。絶対に再訪すると言いながら、結局マンホールカード収集の折さえ時間に追われて果たせなかったと・・積み重ねた小さな後悔がまた一つ増えていくのです。
訪問日:2010年10月8日
同じ時期に登場する人名を見つけると
名前だけしか知らなかった御祭神が
とても身近に感じられます。
神話と歴史が繋がる瞬間
ワクワク、時にはゾクゾクしながら、
どう展開されるのか、凄く楽しみで。
マンホールは・・(笑)
これはもう、現代人に生まれた特権ですね。
貴方の古寺参り(マンホール探索)のブログを読みながら、渡部氏の『日本史の真髄』を読みますと、歴史の重なりを発見します。
人名、寺の名前、祀られている神様などが一致する時、過去の歴史が輝きます。もうすぐご白河法皇の話になりますので、これも楽しみにしています。
ただし古代の人々には、マンホールの楽しみは分かりませんね。これは貴方とご主人様の特権ですね。
う~~~~~ん、
では来世は是非、まかろんさんも同じ時間軸で
一緒に日本の文化を訪ねて旅しましょう!!
今日は半日、主人の病院付き添い
明日はほぼ一日・・自分の通院でつぶれます(-"-)
いまだに元の病院にかえして貰えてないの。
明日、担当医師に直談判します!
いや・・しようと思ってるのだけど・・
ああ、私の根性無し!!
ごめんなさい、ちょっと壊れてます
(ーー゛);
時間切れ、残念でしたね〜〜😭
でもtibinekoさんのようにあれもこれも
深い興味をもっておいでだと、
・・全部は無理ですね!!
一つの一生では回り切れません。
ここは開き直って、来世で続きをなさってください😊
たぶん、これほど日本を深く愛しておいでなら、
来世も日本人で生まれられるのではないでしょうか🌸
丁寧な返信をほんとうにありがとうございます。
みんなが主役、へのお答えも、
またウクライナでの略奪への衝撃に対するお答えも、
深い知性と知識でお答えくださり、
同志がここにいると、
動揺していた心が温まる思いがしました。
そんなtibinekoさんが今日もなごやかに過ごされたことを、
明日も良い日であることを、願っています😊