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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

木曽路を行く・馬籠宿~其の二 in 岐阜県中津川市(旧山口村)

2022年04月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続いての馬籠宿場歩き、まずは「明治天皇御小憩紀念」の碑から。明治13年(1880)、山梨・信 州・三重・京都方面に御巡幸された明治天皇が、この地で御小休されたのを記念して建てられたものです。

碑の後方、黒板壁と冠木門の建物は「藤村記念館(島崎藤村生家跡)」。藤村の生家は馬籠宿の本陣でしたが明治28年の大火で焼失。昭和22年、「この地に地元出身の文豪を記念するものを」と考えた地元住民の勤労奉仕により「藤村記念堂」が建築。昭和30年には「島崎藤村宅跡」として県の史跡に指定されました。

記念館の近くに建つ「大黒屋」。かっては造り酒屋だったそうで杉玉が下げられています。この大黒屋の十代目が書いた「大黒屋日記」が、藤村の「夜明け前」執筆のきっかけになったとか。

【木曾路はすべて山の中である】で始まる「夜明け前」は、馬籠宿を舞台にした歴史小説。幕末・明治維新の激動期を背景に、主人公・青山半蔵を巡る人間群像が描かれています。この作品を文庫本で読んだのは、はるか昔の中学生の頃だった筈。木曽路は山の中・・の序文が心に残っています。

馬籠宿の脇本陣は屋号を「八幡屋」といい、馬籠宿の年寄役も兼ねていたといいます。その建物も明治28年の大火で消失。当時の脇本陣の上段の間を復元した「馬籠脇本陣史料館」の前に建立された『山口誓子』の句碑。

【街道の  坂に熟柿  灯を点す】

長い長い石畳の坂道を登り続けると、唐突に平坦な道路に出ます。道路を挟んだ向い、北口距離標が立つ坂道が陣馬展望台への登り口。近くには木曽代官からの布達そのままに高札が復元されています。

石畳が敷き詰められた細い坂道を登りながら見た景色は、私には全くの非日常。山深いイメージの馬籠宿なのに、はるか彼方まで見渡せる展望所。広い平面に耕された畑・・しばらく立ち止まってこの景色を堪能。

展望所入口、満開のコスモスに包まれるように、ひっそりと置かれた「双体同祖神」。

ところが、このつましい道祖神様、2014年の再訪では整備された上陣場跡展望台の入口近くに新たな場所を得て移設されていました。日差しをさえぎるものなど何も無い広々とした特等席で、静に佇む「双体同祖神」。あのコスモスの中の姿があまりにも慎ましく印象的だっただけに、何とも微妙・・・。

この上陣場跡は、小牧・長久手の合戦の際、徳川勢の武将が馬籠城攻めの陣を敷いた場所。当時の城主は島崎藤村の先祖に当たる木曽氏家臣『島崎重通』。展望広場には、藤村の父『島崎正樹』自筆の掛物を刻んだ碑が建てられています。

【 みすず刈る 信濃の国の 眞木立つ 木曽の谷の外 名に負へる 神坂の邑は 山並の 宜しき里 川の瀬の 清やけき里ぞ 春去れば 霞たなびき 開く花に 鳥は数鳴き 秋立てば 霧たちわたる 往く水を 月こそ照らせ 四つの時 環り來へつつ 山河の 眺めは絶えず 尽き せざるらし  恵那の山 高く聳えて 溪川の 清く流るる 里しよろしも 】

もう一つの碑は、島崎藤村の筆で【心を起さうとおもはば  先づ身を起せ ニィチェの言葉より】

青い空の向こう、重なる雲間の間に、中央アルプスの最南端に位置する恵那山が見えます。その昔、恵那は胞衣(えな-胎児を包んだ膜と胎盤)とも呼ばれていました。「天照大神がここで降誕され、その胞衣がこの山に埋められた」と言うのが山名の由来とか。日本百名山にも選ばれた標高2191メートルの美しい山は、古よりの信仰の山でもありました。

どれほど見ても見飽きる事の無い美しい自然の中にいると、本当に時間はゆっくり流れます。時々、展望台の上に続く道を登るハイカーさんの、腰に下げた鈴の音が聞こえるだけで・・私たちの声以外は、耳障りな嬌声も、街の雑多な騒音も・・・何も聞こえません。

美しい自然に触れると何故かお腹がすくというご亭主殿。空腹感をあまり感じない私には理解できない事ですが😔❓、今回は同行のJ🐣さんを味方につけての希望とあって無下に却下もできません。そんなこんなで二人は「道中おやき本舗・馬籠宿店」で美味しいお漬物をアテに二種類ずつのおやきを堪能。

「おやき」が苦手な私は、内装が素敵な「槌馬屋」さんで、くるみ味噌の五平餅を頂きました。これが想定外の美味しさで、すっかりくるみ味噌の虜に・・と話したら、J🐣さん、さっそく五平餅を注文😅

名残は尽きない馬籠宿散策、どこもかしこも記憶に留めておきたい美しい景色。木の色も空の色も、この時からひと昔以上の歳月が流れて過ぎたというのに、今も目を閉じれば鮮やかに浮かんでくる坂道の石畳。

水路の傍らに祀られる「水神」の碑

稲刈りが終わった後の爽やかな田んぼの風景

名も知らぬ紅の花に羽を休める、名も知らぬ蝶。

中央自動車道恵那峡SA記念スタンプ「馬籠峠」

天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人と記されています。

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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木曽路を行く・馬籠宿~其の一 in 岐阜県中津川市(旧山口村)

2022年04月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

江戸日本橋から京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ中山道、その距離132里(約530km)。太平洋沿岸経由の東海道に比べて距離は10里以上も長く、また和田峠越えや「木曽のかけはし」など、命に係わるような難所があったにもかかわらず、この山岳を突っ切る街道は、別名「木曽街道」「木曽路」とも呼ばれ、旅人の重要な道となっていました。

日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て近江・草津まで六十七次。「馬籠宿(まごめじゅく)」は四十三次、木曽十一宿では一番南に位置した宿場町です。

石畳の敷かれた坂に沿う町並みは、馬籠峠を越えた妻籠宿と共に、観光客に人気のスポット。かく言う私も、随分と長い事「馬籠&妻籠」の地名に憧れを抱いて来ました。

語呂の加減からか「馬籠・妻籠」と対で呼ばれる宿場町ですが、妻籠は「国重要伝統建造物保存地区」。対して馬籠にはそうした歴史的建造物は存在していないのです。明治28年(1895)と大正4年(1915)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失。この事実を知ったのは実際に馬籠行を計画したときで、それゆえ過度の期待を持つのは止めておこうと思っていたのですが・・

けれど、馬籠宿に足を踏み入れた時点で、歴史的がどうこうなんてどうでも良いと思えるほど、心が震えるような感動に目を見張りました。そこに在るのは確かに夢見ていた馬籠宿の佇まい。

坂道に敷き詰められた石畳、いつの時代のものなのか、辻に祀られる阿弥陀堂下の三体の地蔵板碑。

見上げた先に見える佇まいは、馬籠宿に辿りついた旅人たちが目にしたものと、きっと、とても良く似た光景。

宿場を流れる清らかな水路、水路に似合うのは静かに回る水車の音。

いま、私の前に広がる馬籠宿の町並みは、観光資源としての史蹟の保全と、今の生活を共存させる試みの中で、現在の形に復元されたと言います。初めて馬籠・妻籠を訪れたのは2010年の秋、それから4年後の2014年の初夏にJ🐣さんが同行で再訪。行きたい場所で埋め尽くされている私の地図。なのに同じ景色を又見たくなる・・それほどに馬籠宿は心を鷲掴みにしたスポットだったのです。

「清水屋資料館」は、代々馬籠宿役人を勤め、島崎家と親交が深かった『清水屋:原一平』宅。藤村の作品「嵐」の作中で「森さん」の家として登場します。館内には『島崎藤村』直筆の書簡や資料が保管展示されているそうですが・・きっとすごく時間を食うと思うのでパス😓。

四季を通して多くの観光客が訪れる馬籠宿、石畳の両側に並ぶ土産物屋はいかにもな雰囲気。商いをしていない一般の家も当時の屋号を架けたりするなどの工夫が凝らされており、それがまた一段と好奇心を掻き立てます。

だらだらと歩くだけでは心折れそうな坂道ですが、両側に並ぶ土産物の暖簾を見ているだけでも十分に興味深く、 もちろん、全部が全部食べられるわけでも買える訳でもありませんが、のぞき見するのも楽しく、先へ先へと歩が進み・・

知らず知らずのうちにご亭主殿を置いてけぼりにして、勝手に先に進む私😐 ふと気が付いて振り返れば、付かず離れずの位置にいてくれるご亭主殿。何というか・・・いつもより男前度がアップして見える💕

馬籠宿の郵便局。最近はメールばかりだけど、大好きな義姉にハガキを出してみようかな。

独特の木の香りに誘われて近寄れば、木曽五木で作られた「曲げわっぱ弁当箱 」が、使う当てのない私を誘惑します。使う当ての有るJ🐣さん、しこたま悩んでお買い上げ😆

坂道の途中に作られた防火水槽、時ならぬ水音に覗き込めば大きな鯉がゆらりと背びれをゆらし、のったりと顔を持ち上げる。

かと思えば、壁に藤村童話「歌の好きな石臼」の話が貼られていて、でもその下にある臼は木製😅。

坂道の横に延びる細い路地。何気なく立ち入ったその瞬間に目に入るこの景色、遥かにかすむのは恵那の山並みか。

と・・・こんな具合にまだまだ続く馬籠の宿場歩き、長くなるので明日に続きます🌸

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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ご当地マンホール in 長野県旧山口村(中津川市)

2022年04月18日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧木曽郡山口村(やまぐちむら)は長野県の南西部に位置した村です。長野県南木曽町。また県を跨いで岐阜県中津川市、恵那郡坂下町に隣接。村の東部には標高1,000m以上の山々が連なり、西部には木曽川の河岸段丘が広がり集落が点在。南部にある旧中山道:馬籠宿は文豪島崎藤村の出身地として知られ、隣接する長野県の妻籠宿と共に観光客に人気のスポットです。「村の木:ツバキ」「村の花:ムラサキツツジ」を制定。する。

明治22年(1889)、町村制の施行により、長野県西筑摩郡山口村、神坂村が発足。

1958年、山口村が、神坂村馬籠・峠・荒町の三集落を編入。

1968年、西筑摩郡が名称を変更し木曽郡と改称、木曽郡山口村となる。

2005年、岐阜県坂下町・川上村・加子母村・付知町・福岡町・蛭川村と共に中津川市に編入、中津川市馬籠となりました。地勢的に山口村は長野県よりも岐阜県との繋がりが昔から深く、それが越境合併に至る最大の要因になりました。県を越えた合併は昭和34年(1959)に栃木県菱村が群馬県桐生市へ編入されて以来46年ぶりの事です。

マンホールには、「村の木:ツバキ」と「村の花・ムラサキツツジ」が交互に描かれています。

昭和50年(1975)11月1日制定の村章は「「山口」の2文字を合体させて村名を簡明に図案化。全体で平和で豊かな栄光へと限りなく躍進発展する山口村のたくましい姿をあらわし、さらに円形で、村民の親和を端的に象徴したもの。」合併協議会資料より

撮影日:2010年10月2日&2014年6月19日

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ご当地マンホール in 岐阜県旧坂下町(中津川市)

2022年04月17日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧恵那郡坂下町(さかしたちょう)は岐阜県の南東部、長野県との県境に位置した町です。中津川市、恵那郡福岡町・川上村。また県を跨いで長野県木曽郡南木曽町・山口村に隣接。木曽川沿いの山間に開けた町で、川上川が町域を北から南へ貫流し、木曽川に注ぎます。町の中心部は河岸段丘上にあり、段丘面上を横切って阿寺(あてら)断層が通過。阿寺断層による断層崖と木曽川・川上川の河岸段丘が交差した坂の多い町です。また木曾義仲ゆかりの「坂下神社」で開催される「花馬」が有名で、「花馬祭りの里」として知られています。「町の木:ハナノキ」「町の花:ツツジ」を制定。

上記は2010年、こちらは2014年に同じ場所で見た花馬ですが、一段と華やかになって、しかも仔花馬まで一緒。花馬祭りのラストは勇壮で豪快な「花取り(奪い)」となり、見事奪い取った😅花串は、持ち帰って田んぼや神棚に供えられるそうです。

敷地内の花馬の像

明治22年(1889)、町村制の施行により、恵那郡坂下村が発足。

1905年、坂下村から川上村が分立、恵那郡川上村が発足。

1911年、坂下村が町制を施行、恵那郡坂下町となる。

2005年、恵那郡川上村・加子母村・付知町・福岡町・蛭川村、長野県山口村と共に中津川市へ編入。中津川市坂下となりました。

マンホールには「真ん中に旧坂下町の町章が描かれ、上半分は桧の森、下には川を泳ぐ鮎を描いています。旧坂下町は、町の東側に木曽川が流れており、鮎釣りが盛んです。また町の面積の約7割が森林で、昔から桧や杉が植林されているため、このデザインに決まりました。」公式HPより

昭和36年(1961)1月制定の町章は「坂下町の頭文字「さ」を図案化したものです。町の融和団結を太い円で、又雄飛発展の町勢を飛鳥の姿を以って表現しています。」合併協議会資料より

撮影日:2010年10月2日&2014年6月19日

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ふらり寄り道:中津川宿 in 岐阜県中津川市

2022年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「左 苗木道」「右 中山道」と刻まれた道標。旧中津川市では唯一の立ち寄り先となった中津川市駒場。ここは中山道から苗木道(飛騨街道)への分岐点となる地です。

この一画に、通称「こでの木」といわれる「双頭一身道祖神」があるという情報を得てやって来たのですが・・・駐車スペースが無くてご亭主殿は車で待機。

津島神社の常夜灯・・これじゃない😓

有るらしいという情報だけを頼りに来たので、探し当てるのに少々の時間を擁しましたが、沢山の板碑や石塔がある中に、お目当ての道祖神を発見。

中津川市指定文化財 双頭一身同祖神

【石像の左上に「是より苗木道」と彫られたこの同祖神は、中山道の通称「こでの木坂」の頂きにあり、「道しるべ」にもなっていて、中山道から分かれる苗木道との分岐点に置かれている。文化13年(1816)に建立され、男女別々の頭部をもち、肩から足元にかけて一体となっている珍しい形態の石造物である。】現地案内より

見る時々によって、二人の姿は年若くも、年を重ねた夫婦のようにも見える・・その姿は・・とても優しくて穏やか。初めてこの同祖神を見てから既にひと昔以上の歳月が流れた今でも、こうありたいと思わせるような優しさと穏やかさに満ちています。

色を添える曼殊沙華の赤

さて、実は中津川は「栗きんとん発祥の地」の一つ。駅前には発祥の地碑があり、そしてあの甘い匂いがお店の外まで漂ってきます。

同じく駅前の一画には「木曽五木」が植えられており、ささやかな木陰を作っています。

「木曽五木」は、江戸時代に尾張藩により伐採が禁止された木曽谷の五種類の常緑針葉樹林木。「ヒノキ・アスナロ(アスヒ)・ネズコ(クロベ)・サワラ」、そして中津川市の木「コウヤマキ」を指します。自分たちの目と鼻の先にある木材を切る事が出来ない・・切り出して売れば糧が得られるのにできない・・随分と酷い制度です。

落合宿から馬籠に至る県道7号線の一画に広葉杉の大木があり、その根元に「法華塔」と彫った石塔があります。傍らの駒札には「道路下の河原は「賽の河原」と呼ばれ、「桧一本、首ひとつ」といわれた江戸時代の頃の刑場の跡と言われ、その刑場の露と消えた人々の供養のため建てられたともいわれている。」

🙏🙏

中央自動車道・恵那SAの壁画は、浮世絵師『歌川広重』により描かれた浮世絵木版画「木曽海道六十九次の内:中津川」

「木曽海道六拾九次之内:落合」

中津川市山口、美濃路と木曽路の国境にある「道の駅・賤母」。記念スタンプは、道の駅に併設された「東山魁夷・心の旅路館」に因んだ版画作品と「ごへーもち」

地元の特産品や手作りの「杵つき大福餅」、「地元産そば粉のそばまんじゅう井」・・・そして、思わず手に取ってしまう「ごへーもちのたれ」😅

亀さんの口からあふれる水は、かって木曽路を歩く旅人の喉を潤したものと同じでしょうか?水の美味しい土地は美味しいものの宝庫というのが私の持論。さてさて、何から買おうかな😊 

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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ご当地マンホール in 岐阜県中津川市

2022年04月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

中津川市(なかつがわし)は岐阜県の東南端に位置する市です。2005年2月13日、恵那郡坂下町・川上村・加子母村・付知町・福岡町・蛭川村、長野県木曽郡山口村を編入。現在の市域になりました。恵那市、下呂市、加茂郡白川町・東白川村に。また県を跨いで長野県木曽郡南木曽町・王滝村・大桑村、下伊那郡阿智村・平谷村に隣接。東は木曽山脈、南は三河高原に囲まれ、中央を木曽川が流れる自然豊かな町です。古くは、東山道、中山道、飛騨街道などの交通の要衝として栄え、近代においては中核工業団地の完成により企業も多数立地し、商工業都市として成長してきました。一方、豊かな自然環境のなかで、広大な森林から産出される東濃桧を代表として、優れた農産物などを産出する農林業地域でもあり、地場産業の盛んな都市です。「市の木:高野槇」「市の花:さらさどうだん」を制定。

キャッチフレーズは「自然ゆたかなまち  歴史と文化が薫るまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、恵那郡中津川村・駒場村・手賀野村・坂本村・落合村・阿木村が発足。

1890年、中津川村が町制を施行、恵那郡中津川町(初代)が発足。

1897年、中津川町と駒場村、手賀野村が合併、恵那郡中津町が発足。

1951年、中津町と苗木町が合併、恵那郡中津川町(2代目)が発足。

1952年、恵那郡中津川町が市制を施行、中津川市となる。

1954年、恵那郡坂本村を編入。

1956年、恵那郡落合村を編入。

1957年、恵那郡阿木村を編入。

マンホールには「旧苗木藩主遠山家で発見された絵図を基に再現された『風流おどり』がデザインされています。風流おどりは毎年8月13日に行われる「おいでん祭」で披露されます。」公式HPより(中津川駅付近の歩道に設置)

名古屋市下水道科学館:展示マンホール

マンホールには、中央に木曽山脈最南端の「恵那山」、周囲に「市の花:サラサドウダン」がデザインされています。

落合地区のマンホールは「中央に岐阜県の史跡に指定されている中山道:落合の石畳を配置し、周囲に自然を強調する生物や植物をアレンジしたデザインです。」公式HPより

ハンドホールには「市の花:さらさどうだん」がデザインされています。

昭和30年(1955)12月19日制定の市章は「近村合併で市域が輪のように拡がる姿を表すと共に、団結の和をも示し、これによって市勢が一段と躍進をみることを象徴したものです。」公式HPより

中津川どりとトマトの素材を活かした中津川市ご当地グルメ「とりトマ丼」キャラクター、『とりトマトちゃん』。頭のどんぶりはトレードマークの帽子です。

国産ちこりを栽培する中津川「ちこり村」に住む『ちっこりちこ蔵』。西洋野菜の「チコリ」がモチーフの忍者なのです。

撮影日:2010年10月2日

旧恵那郡川上村・加子母村・付知町・福岡町・蛭川村は未訪問の為、マンホール画像はありません。

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岐阜県中津川市のマンホールカード

2022年04月14日 10時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

2017年8月1日、第5弾として全国50自治体で52種類(計191自治体222種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「中津川市A」のマンホールカードは、「中津川市観光センター・にぎわい特産館」でいただけます。

1988年に設置開始されたマンホールには「おいでん祭り」で踊られる「風流おどり」と「市の花:サラサドウダン」がデザインされています。

「中津川市で毎年8月13日に行われる「おいでん祭」。 その祭で披露される「風流おどり」をモチーフに制作したデザイン蓋です。 風流おどりは、旧苗木城主遠山家の土蔵から見つかった約400年前の絵図に起源を持ちます。 この絵図には、当時行われていた雨ごいか、あるいは豊作祈願と思われる祭の様子が描かれており、お殿様の御前で領民が舞い踊る姿が勇壮なことから、その衣装や道具、振付を再現しようという動きが生まれました。 そうして誕生したのが、風流おどりです。市民の熱い想いに支えられた伝統の復活劇にあやかり、本デザイン蓋には、「街の発展が続くように」の願いが込められています。」

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故郷:岡山県各地のマンホールや名所旧跡の紹介も昨日で一通り終了。今日から暫く、五度目となった車中泊の忘れ難い思い出を、マンホールカードやご当地マンホールを交えて紹介します。

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ご当地マンホールとマンホールカード第16弾 in 岡山県倉敷市

2022年04月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

まるでイタチごっこのように増殖する新しいマンホール😅 出来るだけ同じ地域内で紹介していきたいと投稿日をやりくりしているのですが、過去に持っていくのもどうかと逡巡。義姉から送られてきたマンホールカードと、マンホール画像。とりあえず同じ県内の投稿に間に合ったので、二度目の岡山県最後の記事です。

全国最多の3つの日本遺産ストーリーを有し、市内全地区に構成文化財が存在する倉敷市。マンホールには中央に「日本遺産のまち 倉敷」の文字。上にはセーラー服と下津井タコ、下には桃太郎と鬼がデザインされています。

「日本遺産のまち 倉敷」別バージョンマンホールは「一輪の綿花から」。上には児島地域で作られ続けて来た学生服。下には綿花がデザインされています。

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倉敷市のマンホールカードも遂に5種類目になりました。

2022年1月15日、第16弾として全国41自治体で42種類(累計621自治体822種類 )のマンホールカードの配布が 開始されました。「倉敷市E」のマンホールカードは、「ホテル グラン・ココエ倉敷」でいただけます。

2021年に設置開始されたマンホールには「日本遺産のまち 倉敷」の文字と「桃太郎のお話」がデザインされています。

「全国最多の3つの日本遺産ストーリーを有し、市内全地区に構成文化財が存在する「日本遺産のまち 倉敷」。 繊維産業発展とまちづくりの歴史を物語る「一輪の綿花から始まる倉敷物語」、その綿花栽培や繊維産業に大きな関わりを持つ「北前船寄港地の繁栄の物語」、悠久のロマンが感じられる「古代吉備の遺産と桃太郎の物語」。特色あるこれらの物語は、歴史・文化に彩られた倉敷市の魅力を伝えています。 このマンホールは、倉敷芸術科学大学の学生が3つの日本遺産をイメージして制作し、倉敷を代表する繊維製品の一つである学生服、瀬戸内海名産のタコ、吉備津彦命と温羅が戦った桃太郎伝説をモチーフに描いています。」

配布先で頂いた「日本遺産のまち倉敷」のパンフレット

お義姉さん、いつも有難う!!🙏🙏

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ご当地マンホール:特別版 in 岡山県倉敷市&岡山市

2022年04月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

昨日で岡山県全自治体のマンホール・神社・名所旧跡の紹介が終了しました。ところが昨年の11月に義姉から「ポケモンマンホール」なる画像が送られてきました。時々耳にしていた「ポケふた」が、遂に岡山県にも進出したようです😅

マンホール撮影場所も添えての投稿蓋なので、岡山県ブログ記事の最後を飾って紹介します。

ポケモンマンホール「ルカリオ」。瀬戸大橋を背景にポーズを決める「ルカリオ」がデザインされています。ルカリオはイヌ科の獣人のような姿をしたポケモンです。

設置場所は「倉敷市下津井田之浦1-1」鷲羽山レストハウスの近く。撮影場所付近から見る瀬戸大橋・・雄大ですね。

ポケモンマンホール「サルノリ&ワタラシガ」。倉敷川をゆく小舟に乗った「こざるポケモンのサルノリ」と、「わたかざりポケモンのワタラシガ」です。

設置場所は「倉敷市中央1-18-1」倉敷芸文館の近く。折角なら倉敷川の船着き場周辺にすればと思うのですが、場所的に無理だったのかな?

ポケモンマンホール「ケンホロウ」。マメパトからハトーボーになり、 ケンホロウへと進化する・・一応「雉のポケモン」かな?

設置場所は「倉敷市阿知2-17」阿知神社参道の近く。この神社に咲く藤の花は「阿知の藤」と呼ばれて、とっても有名なのです。

ポケモンマンホール「アゲハント&ポチエナ」。アゲハチョウのポケモンと、犬のポケモンみたいですね。

設置場所は「倉敷市中央2-6-1」倉敷市立自然博物館の近く。

さて、今回のポケモンですが実はある物語のキャラクターとかぶさっているのに気が付かれたでしょうか? 「犬・猿・雉」・・そう、岡山が生んだ永遠のヒーロー!桃太郎さんのお供をした動物たちです。中々洒落のきいたキャスティングですね😊 

という事で、これも義姉が送ってくれた岡山市のマンホール二種。「桃太郎電鉄」とのコラボですが、ちゃんと「桃太郎のまち」のフレーズが入っています。

(画像提供:義姉)

ポケモンマンホール:撮影日:2021年7月28日

桃太郎電鉄マンホール:撮影日:2021年6月30日

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ご当地マンホールとマンホールカード第16弾 in 岡山県奈義町

2022年04月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

勝田郡奈義町(なぎちょう)は岡山県の北東部、中国山地に位置する町です。津山市、美作市、勝田郡勝央町に。また県を跨いで鳥取県八頭郡智頭町に隣接。町域の大半を山林が占めており、北部には町のシンボルであり、町名の由来となった那岐山(なぎさん)がそびえ、南部は日本原高原と呼ばれる高原で、陸上自衛隊日本原駐屯地と日本原演習場があります。町域全体が豪雪地帯であり、また台風シーズンなどには、広戸風と呼ばれる強風が山地から吹き下ろします。太古、この地は浅い海であったため、「ビカリア」と呼ばれる巻貝などの化石が多く出土しています。2013年、奈義町柿にある化石博物館「なぎビカリアミュージアム」で巻貝の新種化石が発見され、「ナギカワニナモドキ」と命名されました。「町の木:イチョウ」「町の花:ウメ」を制定。

キャッチフレーズは「優しさと思いやりの町づくり」

明治22年(1889)、町村制の施行により、勝北郡北吉野村・豊田村・豊並村が発足。

1900年、郡制の施行により、勝北郡と勝南郡が合併、勝田郡となる。

1955年、勝田郡北吉野村、豊田村、豊並村が合併、勝田郡奈義町が発足。

マンホールには、江戸時代から伝わる伝統芸能「横仙(おうせん)歌舞伎」を中心に、周囲に「町の花:ウメ」「町の木:イチョウ」がデザインされています。

「横仙」とは、奈義町の辺りを指す古い地名で「山の横」という意味。岡山県重要無形文化財でもある「横仙歌舞伎」は江戸時代から奈義町に伝わる伝統芸能で「地下芝居(じげしばい)」とも呼ばれ、農村の数少ない娯楽として大切に受け継がれてきました。

昭和34年5月制定の町章は「「ナ」を図案化し、中央部は那岐山を表したもの。」

撮影日:2012年4月23日

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マンホールカード、頂きました。

2022年1月15日、第16弾として全国自治体で種類(計自治体種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「奈義町」のマンホールカードは、「多世代交流広場ナギテラス」でいただけます。

2006年に設置開始されたマンホールには「横仙(おうせん)歌舞伎」を中心に、周囲に「町の花:ウメ」「町の木:イチョウ」がデザインされています。

「横仙とは、奈義町のあたりを指す古い地名で山の横という意味です。この地方では古くは山を仙と呼びました。ただの山でなく、人偏を付ける事で、厳しい自然環境の中で暮らしていく人々の自然への畏敬の念がうかがえます。その地名を持つ横仙歌舞伎は江戸時代から奈義町に伝わる伝統芸能です。地下芝居とも呼ばれ、農村の数少ない娯楽として、そして地域の絆を深める年中行事として、今も多くの人々によって大切に守られています。横仙歌舞伎は岡山県内で唯一自ら衣装、かつらを保有する団体として県内の他の保存団体への裏方支援など、岡山県の地下歌舞伎伝承の”要”として活躍しています。」

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