雇用の危機からの早期脱出を:企業の視点
企業収益の改善に伴って、失業率は下がり有効求人倍率は上昇、新卒者の採用状況も好転しつつあります。
しかしそうした中で、最近の雇用情勢について、何か本来の日本的でない異質なものが十分に咀嚼されずに入り込み、問題を起こしているように感じられるのです。
今回は企業の視点から見てみましょう。日本的経営は「人間中心の経営」といわれ、企業が人を育て、人が企業を発展させるという「長期的な関係」が主流でした。アベグレンは、これを象徴的にLifetime Commitmentと表現し、それは「終身雇用」と訳されました。
何処の国でも国民は自らの生まれ育った国に愛着を持つように、日本の産業人は押しなべて自分の企業に愛着を持ちます。それは強いられたものではなく、「この企業で自分は育ってきた」という気持ちからでしょう。
戦後日本企業はごく自然に、従業員の身分は「社員」一本、労働組合も労職一緒、経営者は従業員からの内部昇進制といた形で、人間集団としての企業の在り方を重視してきました。
然し、失われた20年の中で、こうしたウェットなあり方は前近代的で、もっとドライなコストの安い、曖昧でなくクリアカットな制度の方が合理的だ、という見方が次第に強くなったような気がします。
単純作業は非正規従業員で身分も組合組織も別、正規従業員でも能力主義・成果主義を重視し差を明確にする、即戦力を雇用し教育訓練の手間を削減、長期勤続がいいとは限らない、当面コストの安い途上国に事業所移転、国内雇用重視は合理性がない、などなどといった考え方は、現時点でもかなり強く存在するようです。
日本経済が立ち直れば、こうした合理主義を標榜する行き方は次第に見直され、日本的に咀嚼されたものになっていくと基本的には私は考えています。
何故なら、こうした考え方は押しなべて「短期的な利益極大」を狙ったもので、本来の日本的経営、人間中心・だからこそ長期的視点の経営とは相容れないものだからです。
しかし、私が「危機」と感じるのは、アメリカが世界経済を一律にマネー資本主義で塗りつぶそうとしている中で、「短期的利益極大主義」、その実現のためには手段は択ばない(たとえば、額に汗した金もあぶく銭も懐に入れば「同じカネ」)といった考え方とともに、人間とカネの接点「仕事・雇用」においてもアメリカ流のマネー経営学が入り込んでいないか、という点です。
アメリカ企業トップの報酬が日本のそれと雲泥の差があることはよく知られています。日本人はそれでいいと思っているのです。日本の職場では、仕事が2倍出来て給料は2割増し、3倍出来て3割増しなどといわれ、それが人間集団の凝集力を支えていたのです。
「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」では言い過ぎかもしれませんが、マネー中心主義と人間中心主義では物差しが違います。そして両者が競争すると、結局は人間中心主義が勝つのです。これは、経済・経営の主役は人間ですから当然です。
そして、今、経営者や従業員の中にも、マネー(利益)中心の合理性思想に汚染された人が増えているのではないでしょうか。その意味では、雇用の危機は日本だけでなく世界に広がっています。
これを率先して正すことの出来るのは、もしかしたら、日本だけかもしれません。(次回は働く人間に視点から)