奇妙な自衛権論議
最近の政治家の話を聞いていると、私のような、普通の人間の普通の常識しか持っていないものにはどうにも解らないことが多すぎるような気がします。
積極的平和主義という言葉もよく解りません。単なる平和主義と何かが違うから「積極的」という言葉を付けたのでしょうが、どうすることが「積極的」なのか、我々に解るような説明はありません。
政権党の発言や、「有識者」の意見、マスコミの解説などを聞いていると、何か集団的自衛権などを強化して有事に備えることが「積極的」の中身のようにも聞こえます。
憲法9条も、解釈を緩めていくか、見直さないとならないような説明もあります。
積極的平和主義実現のためには、平和憲法が邪魔になるというのでは、これはますます解らなくなります。
憲法9条には
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
と書いていあります。
恐らく平和を希求するためには、いろいろな方法があって、その中の1つと考えられてきた「武力による」平和実現という手段は、平和を希求するという考え方とは基本的に矛盾するものだから、日本はそれを「やめよう」ということなのでしょう。
こう考えると、今、安倍総理をはじめ、政権党の一部の人が一生懸命説明している「こんなことが起こったら大変だからという説明は何か危機感だけ煽るようで、本当に平和を希求しているものとは違うような気がします。
本当に平和を希求するのであれば、もっとその前にやるべき手段がいくらでもあるように思えて仕方がありません。
危機感を感じるような相手国とは、普段からできるだけ仲良くし、いろいろと役に立ってあげて、「日本は我が国にとって大切な国だ」「仲良くしなければいけない国だ」という関係を作ることが大事でしょう。
それこそが積極的平和主義の本当の在り方ではないでうか。
これまでの経緯を見ていると、相手の国の気に障るようなことをなるべくやって、関係をわざわざギクシャクさせ、その中で、「こんな危険も起こりうる」と主張しているように思われてなりません。
私のような「平和のための戦争」だと徹底して教え込まれ、後からそれが実はウソだったということを経験した世代には、行き着く先がよく解るような気がします。
最近の政治家の話を聞いていると、私のような、普通の人間の普通の常識しか持っていないものにはどうにも解らないことが多すぎるような気がします。
積極的平和主義という言葉もよく解りません。単なる平和主義と何かが違うから「積極的」という言葉を付けたのでしょうが、どうすることが「積極的」なのか、我々に解るような説明はありません。
政権党の発言や、「有識者」の意見、マスコミの解説などを聞いていると、何か集団的自衛権などを強化して有事に備えることが「積極的」の中身のようにも聞こえます。
憲法9条も、解釈を緩めていくか、見直さないとならないような説明もあります。
積極的平和主義実現のためには、平和憲法が邪魔になるというのでは、これはますます解らなくなります。
憲法9条には
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
と書いていあります。
恐らく平和を希求するためには、いろいろな方法があって、その中の1つと考えられてきた「武力による」平和実現という手段は、平和を希求するという考え方とは基本的に矛盾するものだから、日本はそれを「やめよう」ということなのでしょう。
こう考えると、今、安倍総理をはじめ、政権党の一部の人が一生懸命説明している「こんなことが起こったら大変だからという説明は何か危機感だけ煽るようで、本当に平和を希求しているものとは違うような気がします。
本当に平和を希求するのであれば、もっとその前にやるべき手段がいくらでもあるように思えて仕方がありません。
危機感を感じるような相手国とは、普段からできるだけ仲良くし、いろいろと役に立ってあげて、「日本は我が国にとって大切な国だ」「仲良くしなければいけない国だ」という関係を作ることが大事でしょう。
それこそが積極的平和主義の本当の在り方ではないでうか。
これまでの経緯を見ていると、相手の国の気に障るようなことをなるべくやって、関係をわざわざギクシャクさせ、その中で、「こんな危険も起こりうる」と主張しているように思われてなりません。
私のような「平和のための戦争」だと徹底して教え込まれ、後からそれが実はウソだったということを経験した世代には、行き着く先がよく解るような気がします。