POCO  A  POCO  協働舎

住まいは人権! 一般社団法人協働舎
暮らしを高めるのは福祉制度の充実。
福祉制度の充実には私たち一人ひとりの声

CODAを見て手話通訳を考える (広通研 通信2022年3月号)

2022-03-17 | まいにち


以下は 広島県手話通訳問題研究会の「通信」2002,3号に私が書いたものです。


映画 CODAを見て手話通訳を考える
 大海原で揺れる小さな古い漁船のシーンから始まる映画{CODA}は、2014年に制作されたフランス映画「エール!」をリメイクしたのがものだそうだがもっと前1996年につくられたドイツ映画「ビヨンドサイレンス」そのものだと思った。
 両親と兄は聞こえない(実際に聞こえない俳優がえんじている。母親役は「愛は静けさの中に」のマリーマトリン。監督は3人の俳優と話すためにASLを学んだとか)。4人家族の中で聞こえるのは高校生のルビーだけ。船に乗っているときも魚を売る時も病院への連絡も周りとの連絡役はいつもルビーの仕事。
 スラング手話を音声語に変えて「父が言っています」とすぐに付け加える(私が言ったんじゃない、父親だ)。こうでないと自分自身がしんどくなってしまうのではないかと僕は思う。こんなやり取りの中で僕は50年余り前に手話を学び始めたころ京都府の手話通訳者向野さん(今考えると彼もCODAだった。)が「猥談を通訳できて一人前の手話通訳」と言われていたことを思い出した。また僕自身も妻の通訳はできるだけやらないようにしてきた。「手話通訳者なのになんで妻の通訳せんの?」と思われていたかもしれない)これは自分を守ることでもあった。
 ビヨンドサイレンスでも。小学校の担任の先生の「宿題をよく忘れます」との言葉を「よく勉強しています」と都合よく『通訳』する場面があった。
行政への手話通訳の設置や派遣制度がなかったころ、日本でもほとんど聞こえる子どもが「通訳」を担わされてきた。いや、必要の中からそれが普通のことだった。よいとか悪いとかいうことではない。
でもルビーは映画の中で言っている「家族抜きで生活したことがない」「生まれてからずっと通訳の役割」「家族の中で3人がいつも一緒で私だけが別だった」(話は全く違うがこの日本で暮らしている外国人家族の子どもたちもこのような役割を担わされている)
 娘ののどに手を当てて彼女の歌を聴こうとする父親、これは彼自身が音声語を身に付けるために実際に子どものころにやらされていたことではないのだろうかとも思った。
Codaは音楽では楽曲の終わりを表す。彼女が最後に友人の車で家族と離れボストンへ向かう場面はこの家族の新しい始まりを伝えているのだろう。
 今度広通研の事務所で「愛はしずけさのなかに」や「ビヨンドサイレンス」をみんなで一緒に観ましょう。


「コーダ あいのうた」本予告
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

基町を思いだしながら歩きました15000歩

2022-03-17 | まいにち

私が松江へ行った理由

子どもの家族は皆して出かけたし・・・さあ。14日は、高速バスで松江へ。元福井地方裁判所長・福井英明さんのお話「私が原発を止めた理由」を聞きに松江へ行ってきました。も......

ちょうど一年前に立ち寄った松江のビストロ庵タンドールは今改修中とのこと。
また一度立ち寄ってみたいなあ。
この時面会した青年はすでに広島でまた働いておられる。

昨日は 久しぶりに歩きました。
2019年の1日の歩行数を見ていたら最近はちょうど半分以下になってるんで、これはやばいなと思って昨日は歩きました。
日銀跡で開かれている「写真展1976-1978基町」
この写真の1976年の数年前、僕は朝鮮人被爆者の体験談を聴きに基町を歩いていたんです。もちろん一人ではないんやけど。
 「イルボンサラムに話すことはないよ」と言われたんが強く印象に残ってます。
そう言われたおばさんのところへも何回か通ううちに食事まで厚かましくよばれるようになって・・・・
ずうと前に書いたけど、この頃朝鮮語を学びたいと総連や民団の事務所へも伺いました。
そんなことを思い出しながらの短い時間でした。

街中をぐるぐるぐるぐる歩き回って、無印で綿シャツを買い、紀伊國屋へ行き・・・丁度15000歩。
夜は 手話サークルあすなろへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする