我がChronicle.Ⅵ-episodeⅡ.背番号3-
生計を維持するためと、3人の父親としての子育てに追われた十数年の月日。自分を外と内の二面に分割できるとしたら、この期間は当に目まぐるしく変貌してゆく環境の変化と、否応なく巻き込まれてゆく由なしごとに翻弄され、その対応だけの明け暮れだけで100%のTOKIが消えてゆく時代であった。
町立の保育園に3人を預けている間に、自営業という立場も加味されてどうしても拒否できなく引き受けた“保護者会会長”の役職。更にその続きのように3人が在籍する小学校では長女が6年生になった春から、当然のようにお鉢が回ってきた、否応なしの”PTA会長”に就任して何れも心身ともに繫忙の日々を過ごしたのだった。
長男は二年生からその小学校を主体とする地元の少年野球部に入れてもらった。4年生になって試合に出るようになると女房と二人でその姿を愉しんだものだったが、創設者で20年余を監督として支えて来た恩人が高齢を理由に引退することになり、保護者の忘年会で僕に次期監督を!!との要請が有ったのだ。
息子は6年生になってキャプテンになった。いろいろ担った役柄と同じように、此の時にも断れる理由が無くて監督を引き受け、以後1999年1月から世紀を跨いで2005年7月までの6年弱の年月を、少年野球部の監督として殆どの土曜日曜祭日を提供する環境に存在した。
僕はもともと「背番号3.長嶋茂雄」の信奉者で、彼のお陰で以後今日までの半世紀をスポーツ好きで過ごせてきたように思える。就職した会社の食堂で”引退試合”を見てもらい泣きしたのを、今でも新鮮な感動で思い出すことが出来る幸せな巡り会い。僕の人生の一面を背番号3の鮮烈さが支えてくれたと言っても過言ではなかった。
当然のように息子は3年からキャプテンになって仕方なくの10番を付ける6年の春まで、前監督に懇願して3番を付けさせてもらった。それより以前の20年ばかり継続した草野球で僕はピッチャーとして存在したが、背に着けた番号はやはり選択の余地なく「3」だった。
毎年卒団式には子供たちから感謝の言葉が書かれた、永遠の記念品になる色紙を貰った。
それが、6年も監督を続けられた秘訣だったような気がする。軟式野球、少年野球、地域のソフトボールのリーグ戦でそれぞれに獲得したトロフィー。
書かずにはおれないこの間の内面とのバランスを辛うじて賄ってくれていたのが、日に数行を書き記す記録の部分の日記帳と、胸の哀楽を31文字に絞りぬいて記憶の一部として書き残す五七五七七の短歌の存在だった。