守田です。(20111127 23:30)
矢ケ崎さん講演録連載最終回をお届けします。僕自身、あらためてこう
して文字起こししながら矢ケ崎さんの見解をじっくり堪能して、感慨深
いものがありました。今回掲載分についてもコメントしたいことがたく
さんあるのですが、あえて1点だけ触れます。
何よりも僕が感じるのは矢ケ崎さんの英知と勇気、そして優しさです。
今回は最後に、私たちが今度どうしていくべきか、非汚染地での食料増
産の提言などがなされていますが、矢ケ崎さんは、脱原発を唱える多く
の方たちの中でも、最も内部被曝に対して厳しい評価を与え、その危険
性を訴えながら、けしてそれで恐怖の確認で終わってしまうのでなく、
そこからどうするのかを、常に、絞り出すように発信してくださってい
ます。僕は何よりその姿勢、科学者としての誠実さと、人間的な温かさ
に共感します。
そんな矢ケ崎さんと二人でお話したときに出たのは、ICRPの考え方
は「ようするに冷たいですね!」ということでした。人間を血の通った
ものとしてみていない、そのどうしようもない冷たさがそこにある。
そしてそこに内部被曝の危険性を平気で隠してしまう根拠があるように
思えます。
・・・こうした感想は、情緒的で、論理的ではないかもしれません。し
かし連載を結ぶにあたって、あえてこのことを書いておきたいと思いまし
た。あらためて矢ケ崎さんに感謝しつつ、今回の連載を締めくくります。
みなさん、どうか、明日に向けての矢ケ崎さんの提言をお読みください!
**************
矢ケ崎克馬講演録(4)
子どもたちを放射能から守るために
-知られなかった内部被曝の実相-
2011年11月19日
【1ミリシーベルトの脅威】
時間がそろそろ迫っていて、あまり具体的な話ができませんが、ここで
ICRPが決めている、平常自体の、市民の許容地である1ミリシーベルトに
ついてみていきたいのですが、国が20ミリシーベルトまで許容するなど
といったので、1ミリシーベルトだとうんと少ないように思えますが、
1ミリシーベルトという量は、毎秒1万本の放射線が体に突き刺さる。こ
れが1年間ずっと続いて、やっと1ミリシーベルトになる。
やっとというのは実に恐ろしい被曝量が、1ミリシーベルトだということ
です。外部被曝しか語らない人たちは、内部被曝の恐ろしさを知らない
というか、切り捨ててばかりきたものですから、それを国民をごまかす
上での数字にしてしまっています。これが非常に深刻な問題です。
それからよくタバコによるがんと、放射線によるがんを単純比較すること
などが行われていますが、これは基本的に間違いです。さきほどアメリカ
の例で出したようにストレスがある人が放射線を浴びると、完璧に寿命が
縮められてしまう。それが実態で、放射能の害というのは、相乗効果を
持ってあらわれてくるので、単純比較をして、どちらが軽いかという問題
ではけしてありません。
もう一つ、今、説明したように、放射能の埃には相当たくさんの原子が含
まれています。自然界にある放射性物質の場合は、だいたい放射性原子が
1種類だけ孤立してあって、それが放射線を出しても、他のものと一緒に
たくさん出していくということはないのです。それで単純に線量だけ測って、
たいしたことはないという見方がされていますが、やはりそうした見方は
すべきではないと思います。
【枕崎台風と内部被曝隠し】
こうした内部被曝が隠された理由は、先ほどもお話しましたが、核兵器は
残虐兵器ではないという虚像を作るためです。さらに1950年代から、核の
平和利用ということを理由にして、ウランの濃縮工場を経常的に運転させ
ることが試みられましたが、そのために原発から常時漏れる放射能の埃の
危険性を隠すことが大きな戦略的な目的でした。
どうやって放射能の埃はなかったという作り話を作ったのかというと、
原爆を受けてからの広島の放射線量を現したグラフがあります。それを見
るとちょうど6週間目に枕崎台風が来ています。この台風は広島のデルタ
地帯の一番上で堤防を決壊させて、床上1メートルの濁流が被爆地を洗い流
しました。大田川の橋が20本も流されています。そのあとアメリカが大挙し
て科学者に測定をさせました。それでかろうじて土壌の中に残っていたもの
を、はじめからこれしかなかったことにしたのが、最初の内部被曝のごまか
しのための科学的操作の第一歩でした。
【ICRPの内部被曝隠しのメカニズム】
さらにICRP(国際放射線防護委員会)のメカニズムをお話して、私の
お話を一段落したいと思いますが、ICRPの基準というのは、実は大き
くは二つの大欠陥、欠陥というよりごまかし手段を持っています。一つは
内部被曝が見えないようにしていることです。これは1990年のICRP勧告
に出てくる「吸収線量の定義」に現れています。要するに実際の被曝をみ
るためには、それぞれの臓器について細かく見ていくことが必要なのです
けれども、ICRPは一つの組織の臓器内の平均線量をとっています。
これは、被曝による分子切断がどんなに密度が高く起こっていようとも、
全部、臓器という大きな容器で平均化させてしまうため、被曝の実態が分
からなくされているのですね。この定義で、具体性が単純化、平均化され
てしまっている。これが今、全世界でまかり通っている基準になってしまっ
ているのです。
二つ目は原子力発電との関係ですけれども、やはり同じ勧告の第4章に、
「経済的・社会的要因を考慮して合理的に達成できる限り、放射能を防護
する」というくだりがあります。これは具体的に言うと、原子力発電の都
合を優先して、あまり厳しくすると商売がやっていけなくなる。だからあ
まり厳しくしないで、商売がやれる範囲でできるだけ「厳しく」していく
という意味です。それが先ほど述べた年間1ミリシーベルトという巨大な
被曝量の容認になっているわけです。
【汚染ゼロの食べ物の要求と食料大増産こそが安全のかなめ】
現実の問題で、今、われわれの周囲で何が起こっているかというと、例えば
福島などの汚染の激しいところから、どこに移り住んだらいいだろうかとい
う発想が必ず出てきます。ところが今、放射能の埃という、空中に舞ってい
るものは、当初に比べればけして多くはないです。しかし食べ物を通じて、
日本中が内部汚染されてしまっているという状況です。
それで例えば主食のおコメに、1キログラムあたり500ベクレルなどという
巨大な値が許容されてしまっている。これは健康を守る値ではまるっきり
ありません。原発会社の責任をいかに軽くするかの数字です。今、われわれ
の社会として、汚染ゼロの食べ物をきちっと供給しなさいということを、
東電や政府にきちっと言うということが、国民的な被曝を免れる一番の基本
になります。
これをある程度までいいということを、消費者や生産者がはじめから言って
しまうと、では500ベクレルではどうかという数字遊びになってしまいます。
汚染ゼロの食品をきちんと調達する。生産者の補償を、消費者も一緒になっ
て、同じ被害者ですから、政府に要請する。
もう一つ大事なのは、汚染は今年で終わるわけではありません。われわれの
国には休耕地がたくさんあります。それを利用して食料の大増産をしていか
ないと、国民的な被曝を脱することはできません。
【避難と移住を進め、可能なところの除染を】
それでもう一つ判断の基準で大事なのは、汚染の程度が、どの程度であるのか
という判断基準の定義がまるっきりなされていません。具体的には年間1ミリ
シーベルトを超える土地が凄いスペースを占めているにもかかわらず、今は
除染すれば人が住めるかのようなキャンペーンが大々的に行われています。
やはり落ち着いて、今の汚染が、除染をすれば住める程度か、それを行っても
安全基準に達しない、移住をしなければいけないところなのかということを、
あらためて判断しなければならない。それで除染などに取り組んでいかなけれ
ばならないと思います。
郡山市で、子どもたちの疎開を求める裁判が行われていますけれども、その
中身そのものも、除染することで子どもたちの命を守ることができないという
ことを出発点としています。
もちろん、除染ということも大事なことなのですけれども、やはり100年の規模
を見込んで、長期的に判断する。あるいはとにかく今どうするかという二段構え
で考えなければいけないと思います。その意味で、汚染の激しいところは、除染
をしたら人を呼び寄せて、そこに住んでもいいという状況ではないことをしっか
り念頭において、われわれが土地の上で健康に生きていけるかということと、
食べ物を、きちっと汚染がないものを確保していくという体制を取らないと、国
民みんなが被曝してしまいます。
【先々の脱原発ではなく、放射線防護の促進を!】
今、政府だけでなく、政党レベルでも、今の今、ここにいる国民の被曝を回避す
るという政策がなかなか出てきてない状況です。これはやはり市民の力で変えな
ければいけないことです。命を守るためには、将来、原子力発電をやめたらいい
よという、そういう問題ではありませんので、きちっと要求していくことが貴重
になっていると思います。ひとまずこれで私の話を終えます。
以上
矢ケ崎さん講演録連載最終回をお届けします。僕自身、あらためてこう
して文字起こししながら矢ケ崎さんの見解をじっくり堪能して、感慨深
いものがありました。今回掲載分についてもコメントしたいことがたく
さんあるのですが、あえて1点だけ触れます。
何よりも僕が感じるのは矢ケ崎さんの英知と勇気、そして優しさです。
今回は最後に、私たちが今度どうしていくべきか、非汚染地での食料増
産の提言などがなされていますが、矢ケ崎さんは、脱原発を唱える多く
の方たちの中でも、最も内部被曝に対して厳しい評価を与え、その危険
性を訴えながら、けしてそれで恐怖の確認で終わってしまうのでなく、
そこからどうするのかを、常に、絞り出すように発信してくださってい
ます。僕は何よりその姿勢、科学者としての誠実さと、人間的な温かさ
に共感します。
そんな矢ケ崎さんと二人でお話したときに出たのは、ICRPの考え方
は「ようするに冷たいですね!」ということでした。人間を血の通った
ものとしてみていない、そのどうしようもない冷たさがそこにある。
そしてそこに内部被曝の危険性を平気で隠してしまう根拠があるように
思えます。
・・・こうした感想は、情緒的で、論理的ではないかもしれません。し
かし連載を結ぶにあたって、あえてこのことを書いておきたいと思いまし
た。あらためて矢ケ崎さんに感謝しつつ、今回の連載を締めくくります。
みなさん、どうか、明日に向けての矢ケ崎さんの提言をお読みください!
**************
矢ケ崎克馬講演録(4)
子どもたちを放射能から守るために
-知られなかった内部被曝の実相-
2011年11月19日
【1ミリシーベルトの脅威】
時間がそろそろ迫っていて、あまり具体的な話ができませんが、ここで
ICRPが決めている、平常自体の、市民の許容地である1ミリシーベルトに
ついてみていきたいのですが、国が20ミリシーベルトまで許容するなど
といったので、1ミリシーベルトだとうんと少ないように思えますが、
1ミリシーベルトという量は、毎秒1万本の放射線が体に突き刺さる。こ
れが1年間ずっと続いて、やっと1ミリシーベルトになる。
やっとというのは実に恐ろしい被曝量が、1ミリシーベルトだということ
です。外部被曝しか語らない人たちは、内部被曝の恐ろしさを知らない
というか、切り捨ててばかりきたものですから、それを国民をごまかす
上での数字にしてしまっています。これが非常に深刻な問題です。
それからよくタバコによるがんと、放射線によるがんを単純比較すること
などが行われていますが、これは基本的に間違いです。さきほどアメリカ
の例で出したようにストレスがある人が放射線を浴びると、完璧に寿命が
縮められてしまう。それが実態で、放射能の害というのは、相乗効果を
持ってあらわれてくるので、単純比較をして、どちらが軽いかという問題
ではけしてありません。
もう一つ、今、説明したように、放射能の埃には相当たくさんの原子が含
まれています。自然界にある放射性物質の場合は、だいたい放射性原子が
1種類だけ孤立してあって、それが放射線を出しても、他のものと一緒に
たくさん出していくということはないのです。それで単純に線量だけ測って、
たいしたことはないという見方がされていますが、やはりそうした見方は
すべきではないと思います。
【枕崎台風と内部被曝隠し】
こうした内部被曝が隠された理由は、先ほどもお話しましたが、核兵器は
残虐兵器ではないという虚像を作るためです。さらに1950年代から、核の
平和利用ということを理由にして、ウランの濃縮工場を経常的に運転させ
ることが試みられましたが、そのために原発から常時漏れる放射能の埃の
危険性を隠すことが大きな戦略的な目的でした。
どうやって放射能の埃はなかったという作り話を作ったのかというと、
原爆を受けてからの広島の放射線量を現したグラフがあります。それを見
るとちょうど6週間目に枕崎台風が来ています。この台風は広島のデルタ
地帯の一番上で堤防を決壊させて、床上1メートルの濁流が被爆地を洗い流
しました。大田川の橋が20本も流されています。そのあとアメリカが大挙し
て科学者に測定をさせました。それでかろうじて土壌の中に残っていたもの
を、はじめからこれしかなかったことにしたのが、最初の内部被曝のごまか
しのための科学的操作の第一歩でした。
【ICRPの内部被曝隠しのメカニズム】
さらにICRP(国際放射線防護委員会)のメカニズムをお話して、私の
お話を一段落したいと思いますが、ICRPの基準というのは、実は大き
くは二つの大欠陥、欠陥というよりごまかし手段を持っています。一つは
内部被曝が見えないようにしていることです。これは1990年のICRP勧告
に出てくる「吸収線量の定義」に現れています。要するに実際の被曝をみ
るためには、それぞれの臓器について細かく見ていくことが必要なのです
けれども、ICRPは一つの組織の臓器内の平均線量をとっています。
これは、被曝による分子切断がどんなに密度が高く起こっていようとも、
全部、臓器という大きな容器で平均化させてしまうため、被曝の実態が分
からなくされているのですね。この定義で、具体性が単純化、平均化され
てしまっている。これが今、全世界でまかり通っている基準になってしまっ
ているのです。
二つ目は原子力発電との関係ですけれども、やはり同じ勧告の第4章に、
「経済的・社会的要因を考慮して合理的に達成できる限り、放射能を防護
する」というくだりがあります。これは具体的に言うと、原子力発電の都
合を優先して、あまり厳しくすると商売がやっていけなくなる。だからあ
まり厳しくしないで、商売がやれる範囲でできるだけ「厳しく」していく
という意味です。それが先ほど述べた年間1ミリシーベルトという巨大な
被曝量の容認になっているわけです。
【汚染ゼロの食べ物の要求と食料大増産こそが安全のかなめ】
現実の問題で、今、われわれの周囲で何が起こっているかというと、例えば
福島などの汚染の激しいところから、どこに移り住んだらいいだろうかとい
う発想が必ず出てきます。ところが今、放射能の埃という、空中に舞ってい
るものは、当初に比べればけして多くはないです。しかし食べ物を通じて、
日本中が内部汚染されてしまっているという状況です。
それで例えば主食のおコメに、1キログラムあたり500ベクレルなどという
巨大な値が許容されてしまっている。これは健康を守る値ではまるっきり
ありません。原発会社の責任をいかに軽くするかの数字です。今、われわれ
の社会として、汚染ゼロの食べ物をきちっと供給しなさいということを、
東電や政府にきちっと言うということが、国民的な被曝を免れる一番の基本
になります。
これをある程度までいいということを、消費者や生産者がはじめから言って
しまうと、では500ベクレルではどうかという数字遊びになってしまいます。
汚染ゼロの食品をきちんと調達する。生産者の補償を、消費者も一緒になっ
て、同じ被害者ですから、政府に要請する。
もう一つ大事なのは、汚染は今年で終わるわけではありません。われわれの
国には休耕地がたくさんあります。それを利用して食料の大増産をしていか
ないと、国民的な被曝を脱することはできません。
【避難と移住を進め、可能なところの除染を】
それでもう一つ判断の基準で大事なのは、汚染の程度が、どの程度であるのか
という判断基準の定義がまるっきりなされていません。具体的には年間1ミリ
シーベルトを超える土地が凄いスペースを占めているにもかかわらず、今は
除染すれば人が住めるかのようなキャンペーンが大々的に行われています。
やはり落ち着いて、今の汚染が、除染をすれば住める程度か、それを行っても
安全基準に達しない、移住をしなければいけないところなのかということを、
あらためて判断しなければならない。それで除染などに取り組んでいかなけれ
ばならないと思います。
郡山市で、子どもたちの疎開を求める裁判が行われていますけれども、その
中身そのものも、除染することで子どもたちの命を守ることができないという
ことを出発点としています。
もちろん、除染ということも大事なことなのですけれども、やはり100年の規模
を見込んで、長期的に判断する。あるいはとにかく今どうするかという二段構え
で考えなければいけないと思います。その意味で、汚染の激しいところは、除染
をしたら人を呼び寄せて、そこに住んでもいいという状況ではないことをしっか
り念頭において、われわれが土地の上で健康に生きていけるかということと、
食べ物を、きちっと汚染がないものを確保していくという体制を取らないと、国
民みんなが被曝してしまいます。
【先々の脱原発ではなく、放射線防護の促進を!】
今、政府だけでなく、政党レベルでも、今の今、ここにいる国民の被曝を回避す
るという政策がなかなか出てきてない状況です。これはやはり市民の力で変えな
ければいけないことです。命を守るためには、将来、原子力発電をやめたらいい
よという、そういう問題ではありませんので、きちっと要求していくことが貴重
になっていると思います。ひとまずこれで私の話を終えます。
以上