守田です。(20111114 23:30)
11月18日から21日まで東京で、台湾の旧日本軍性奴隷問題(いわゆる従軍慰安婦
問題)被害者の阿媽(台湾語でおばあさん)たちの写真展が行われ、その初日に、
3人の方が来日してくださることになりました。たぶんこれが最後の来日になる
のではと思います。僕もかけつけます。どうか東京近辺の方、ぜひご参加ください。
僕はこの問題に、2004年より関わってきましたが、この間の原発問題と非常に深い
つながりを感じています。なぜか。原発は、原爆と深い関わりがあり、アメリカが
行った歴史的な戦争犯罪の隠蔽の上に、その開発が進められてきたからです。その
ためにヒバクシャが切り捨てられた。放射線の影響を小さく見せるためです。
実はこうしたアメリカの一連の「核戦略」に、いち早くかかわったのは旧日本陸軍
でした。彼らは原爆投下後にすぐさま医療団を派遣して、綿密な調査を開始、終戦
後に自らそれを英文に翻訳して、アメリカ軍に差し出しました。アメリカはそれを
「革命的報告」として受け取った。原爆の威力が克明に分かったからです。
どうして旧日本陸軍はそんなことをしたのか。当時の大本営の生き残りの方は、端
的に「731部隊などがあったからだ」と述べています。731部隊とは、中国大陸で、
人体実験などを繰り返した日本軍の医療部隊のことですが、それに象徴される戦争
犯罪を裁かれることを彼らは最も恐れた。それをかわすために情報提供が行われた。
「原爆は最もいいカードだった」と元大本営幹部は述べています。自らの戦争犯罪
を隠すためにです。なぜ最もいいカードだったのか。当たり前ですが、原爆投下も
最もひどい戦争犯罪だからです。この点で戦争終結時点で、旧日本軍とアメリカ軍
の利害は見事に一致してしまった。それで陸軍は「鬼畜米英」に日本人を差し出した。
僕は「売国奴」とか「国辱的行為」とかの言葉は、・・・使うとすれば・・・こう
いうときに使うべきではないかと思うのですが、戦後一度も「右翼」とか「民族派」
とか名乗る人々から原爆への批判を聞いたことがありません。その意味で日本は本当
は民族派右翼などいない国なのだと思います。いて欲しいわけでもありませんが。
それはともあれ、このようにして旧日本軍幹部たちのうち、相当数が「戦犯」として
処罰されることを免れました。その代わりにこれらの人々は、アメリカの戦争犯罪も
けして告発しなかった。原爆投下も、数々の都市空襲も「戦争だから仕方がない」こ
ととされてしまった。多くの日本国民・住民の戦争被害が無視されてしまった。
こうした脈絡のもとに、日本軍の行った数々の戦争犯罪も隠されてしまいました。そ
の一つが、日本軍がアジアの各地に「慰安所」という名前の強姦施設を作り、何十万
もの女性たちを性奴隷にしたことです。これもまた旧日本軍関係者によって徹底的に
ふたをされ、それをアメリカも容認した。戦争犯罪の隠蔽をアメリカが助けた。
それで誰が被害を被ったのか。民衆です。アジアと日本とアメリカの民衆なのです。
アジアの民衆は、侵略戦争で被ったもの凄い被害の賠償を受けられませんでした。誠
実な謝罪すらなく、長く苦しい時を過ごした。同時に実は日本民衆も、日本政府によ
る戦中の迫害や、アメリカ軍の非人道的攻撃への謝罪も補償も受けていません。
日本軍兵士もそうなのです。僕はフィリピン戦線で地獄のような体験をしたおじいさ
んたちから、戦争体験を聞き取ったことがあります。またさまざまな戦史の研究もし
てきました。そこで分かるのは、いかに日本軍兵士が理不尽な戦闘、あまりに合理性
に欠けていて、勝てるわけのない戦闘に狩り出されたのかという実態です。
日本軍は兵士の命を極端に軽視していた。実際に兵士は、「お前たちは一銭五厘で
集められる。軍馬の方が貴重だ」などと言われていた。そればかりか日本軍は構造的
なリンチ構造を持っていました。性的虐待も行われていた。訓練中の死亡などは日常
茶飯事のことで、そこには人権のかけらもなかった。
そういう兵士たちが、野に放たれると、凶暴さを発揮しました。とくに中国戦線では
残虐な行為が日常的に行われ、兵士による市民へのレイプ事件が頻発しました。しかし
軍は積極的には取り締まらなかった。ところがレイプが増える中で、性病が広がりだし、
それで「対策」が始まり、「慰安所」が作られ、「処女狩り」がなされた。
肝心な点は、そこで多くの兵士たちが、構造的暴力に自らが手を染めてしまったため
に、己が受けている虐待を告発できなくなってしまったことです。そのために、戦後
も元兵士たちは、あれほどにひどい目にあわされたことへの告発をなすことができな
かった。自らが受けた虐待を、他の誰か、特に女性への虐待に転嫁したからです。
そのため、日米両軍幹部による、互いの戦争犯罪の隠蔽の中で、日本軍兵士たちが
おかれたあまりに非人道的な待遇への謝罪、補償も何らなされなかった。軍人恩給は
主に彼らを虐待した上官たちに手厚く配分されました。さらに度重なる空襲を受け
た日本民衆は何の補償も受けていません。誰からも何の謝罪もされていません。
ではアメリカ人はどうなのでしょうか。実は最初の原爆によるヒバクシャはアメリカ
人なのです。ニューメキシコ、有名なアラモ砦のあったあたりだそうですが、そこで
人類最初の核実験が行われ、放射能が撒き散らされました。7月のことです。被曝と
いうことで言えば、それに先立つウラン鉱の採掘でも起こっています。
アメリカは第二次世界大戦終結後、ネバタ砂漠で核実験を繰り返しました。その際、
実はたくさんの兵士が動員され、人体実験が行われた。核爆発の後のきのこ雲(放射
能の塊)に向けた突撃訓練が行われた映像が残っています。彼らはアトミック・ソル
ジャーと呼ばれます。アメリカ軍は兵士を使って放射能の影響を調べたのです。
そればかりではありません。国中に作られた核兵器製造のための秘密工場は、たびたび
プルトニウム漏れ事故を起こしました。そのためアメリカ国内には膨大なヒバクシャが
生まれた。もし広島・長崎の真実が明らかになっていたら、これらの人々のかなりの
部分が被曝を免れたでしょう。しかし残念ながらそうはなりませんでした・・・。
こうした構造のもとで、広島・長崎のヒバクシャは切り捨てられてしまいました。アメ
リカ軍は、原爆の非人道性の暴露を恐れて、1945年から1952年までマスコミをシャッタ
アウトし、被ばくの実相が世界に伝わらないようにした。そのためヒバクシャはまとも
な医療保障も生活保護も受けられず、塗炭の苦しみを舐めました。
同じ頃、アジアの人々も、戦争の惨禍からなんの援助もなく、生活を再建していかなけ
ればなりませんでした。中でも本当に苦しい思いをしたのは、性奴隷として戦場をひき
まわされ、挙句の果てに日本軍に放り出された被害女性たちでした。多くの場合、彼女
たちはその悲惨な体験を誰にも打ち明けられず、胸に秘めて長き年を過ごしてきました。
このような歴史的経緯をみるとき、ぜひみなさんに知って欲しいことは、長年の沈黙を
破ってはじめられた被害女性たちの告発、おばあさんたちの叫びは、実は戦争で犠牲に
なった各国の民衆の尊厳や利益に通じることなのだということです。彼女たちが告発し
ているのは、日本軍の構造的暴力です。その背後にある日本社会の構造的暴力です。
それは同時にたびたび日本の民衆にも向けられてきたものです。おばあさんたちは勇気
をもって、それに立ち向かってきた。怒りの声を上げた。私たちが認識しなければいけ
ないのは、それが日本民衆の人権を守ることにも繋がってきたことです。日本社会の構
造的暴力が弱まれば、その恩恵を一番、受けるのは日本の国民と住民なのです。
おばあさんたちは、とくに戦後世代の私たちに対してはこう語ってきました。「悪いの
は日本政府と、日本軍だ。あなたたちは何も悪くない。日本の若い人たちは大好きです」
と。これは各国のおばあさんたちに共通する声です。そこには個人的な恨みを超えた
普遍的な愛がある。この問題に携わって知るのは彼女たちの人間愛の深さです。
みなさん。現在の日本政府は、国民と住民に構造的暴力を振るっています。その一つが
放射線管理区域で、女子中学生にマラソンをさせたり、善意のボランティアを集めて、
除染という被曝労働を組織して、東京電力と政府の尻拭いをさせようとしていることで
す。汚染地帯からの避難を押しとどめているのも、まさに民衆への暴力です。
そしてその暴力を、核武装をして、世界中で劣化ウラン弾を使っているアメリカがバック
アップしている。放射能の恐ろしさに民衆が自覚的になり、さらに構造的暴力に人々が
敏感になると、誰よりも困るのはアメリカだからです。アメリカは現在進行形で数々の
戦争犯罪を繰り返している。それに気づかれることを恐れている。
だからこそ、今、性奴隷というもっとも過酷な戦争被害を受けながら、本当に逞しく人
間的愛をはぐくんできたおばあさんたちに触れること、その声を聞くこと、痛みをシェア
し、さらに未来への希望、自分たちの死後への彼女たちの願いを受け取ること、その中に
僕は、現代の暴力のすべてを超えていく可能性が秘められていると思うのです。
みなさま。ぜひおばあさんたちの写真を見に来てください。彼女たちの声を聞きにきて
ください。逞しい姿、りりしい姿、でもどこかとてもかわいい彼女たちに会いにきて
ください。そして一緒にこれからの私たちの歩むべき道を考えましょう。一人でも
多くのみなさんのご参加をお待ちしています。
以下、案内を貼り付けます。
***************
写真展「長路漫漫ーおばあさんたちの旅路-」と3人の阿媽の来日のお知らせ
~ぜひ、ご参加下さい~
11月18日~21日まで台湾の元「慰安婦」被害女性たちの写真展を開催いたします。
また、今回きゅうきょ台湾から阿媽たちが来日してくれることになりました。
台湾の阿媽たちは平均年齢が90歳近くになっており、今回来日してくれる3人の
阿媽も84歳から89歳、今回が最後の来日ではないかと思います。
今回の写真展には、ワークショップで阿媽たち自身が写した写真も展示しており
ます。阿媽たちがお互いを写している様子、また阿媽の感性に基づいたすてきな
写真も何点か飾ります。
ぜひ、会場にいらしていただき、阿媽の作品である写真を見て下さい。
そして「阿媽とともに」の集会にご参加いただき、阿媽たちに「台湾の『慰安婦』
被害女性のことを忘れていない」ことをお伝え下さいませんでしょうか。
私たちにとっても阿媽たちの活動が大きな励みになっていますが、私たちが日本
の困難な状況の中で「慰安婦」問題解決のための努力を継続していることは阿媽
たちにとっても大きな励みになることと思います。
写真展:
日時:11月18日(金)~21日(月)午前10時~午後7時
場所:中野ゼロ西館2階 美術ギャラリー
(東京都中野区中野2-9-7・JR中野駅南口下車 徒歩約8分)
集会:「阿媽たちとともに」
日時:18日(金)午後6時半~8時40分
場所:写真展と同じ場所 第2学習室 資料代500円
内容:阿媽たちのあいさつ、
婦援会 台湾での阿媽たちの現在など
来日する阿媽は下記の3人です(予定)。
★陳桃さん(Chen Tao) (1922年生まれ)
19歳のとき、学校へ行く途中、日本人警察官に呼び止められてそのまま高雄
から船に乗せられる。着いたところは海に四方を囲まれたアンダマンだった。
妊娠もし、クレゾールを飲んで自殺を図るなど辛い体験の中を生き抜いてき
た。裁判の原告の1人。「裁判は負けたけれど、自分の心は絶対負けない」
と言う。
★陳蓮花さん Chen Lian Hua 1924年生まれ)
19歳のとき、フィリピンのセブ島につれていかれる。日本とアメリカとの激
しい闘いの中で兵隊について山の中など逃げ惑う。
★イアン・アパイさん(中国名:林沈中 Lin, Shen Chung)
1927生まれ:タロコ族
17歳のとき、の近くの日本軍の駐屯地で雑用をするようにと日本人警察
官にいわれる。ご飯炊き、ボタンをつけなど衣服の修繕等雑用をさせられる
が、そのうち、夜連れ出され、強かんされる。日中は仕事、夜は強かんされ
るという悪夢のような日々が続いた。
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 柴 洋子
11月18日から21日まで東京で、台湾の旧日本軍性奴隷問題(いわゆる従軍慰安婦
問題)被害者の阿媽(台湾語でおばあさん)たちの写真展が行われ、その初日に、
3人の方が来日してくださることになりました。たぶんこれが最後の来日になる
のではと思います。僕もかけつけます。どうか東京近辺の方、ぜひご参加ください。
僕はこの問題に、2004年より関わってきましたが、この間の原発問題と非常に深い
つながりを感じています。なぜか。原発は、原爆と深い関わりがあり、アメリカが
行った歴史的な戦争犯罪の隠蔽の上に、その開発が進められてきたからです。その
ためにヒバクシャが切り捨てられた。放射線の影響を小さく見せるためです。
実はこうしたアメリカの一連の「核戦略」に、いち早くかかわったのは旧日本陸軍
でした。彼らは原爆投下後にすぐさま医療団を派遣して、綿密な調査を開始、終戦
後に自らそれを英文に翻訳して、アメリカ軍に差し出しました。アメリカはそれを
「革命的報告」として受け取った。原爆の威力が克明に分かったからです。
どうして旧日本陸軍はそんなことをしたのか。当時の大本営の生き残りの方は、端
的に「731部隊などがあったからだ」と述べています。731部隊とは、中国大陸で、
人体実験などを繰り返した日本軍の医療部隊のことですが、それに象徴される戦争
犯罪を裁かれることを彼らは最も恐れた。それをかわすために情報提供が行われた。
「原爆は最もいいカードだった」と元大本営幹部は述べています。自らの戦争犯罪
を隠すためにです。なぜ最もいいカードだったのか。当たり前ですが、原爆投下も
最もひどい戦争犯罪だからです。この点で戦争終結時点で、旧日本軍とアメリカ軍
の利害は見事に一致してしまった。それで陸軍は「鬼畜米英」に日本人を差し出した。
僕は「売国奴」とか「国辱的行為」とかの言葉は、・・・使うとすれば・・・こう
いうときに使うべきではないかと思うのですが、戦後一度も「右翼」とか「民族派」
とか名乗る人々から原爆への批判を聞いたことがありません。その意味で日本は本当
は民族派右翼などいない国なのだと思います。いて欲しいわけでもありませんが。
それはともあれ、このようにして旧日本軍幹部たちのうち、相当数が「戦犯」として
処罰されることを免れました。その代わりにこれらの人々は、アメリカの戦争犯罪も
けして告発しなかった。原爆投下も、数々の都市空襲も「戦争だから仕方がない」こ
ととされてしまった。多くの日本国民・住民の戦争被害が無視されてしまった。
こうした脈絡のもとに、日本軍の行った数々の戦争犯罪も隠されてしまいました。そ
の一つが、日本軍がアジアの各地に「慰安所」という名前の強姦施設を作り、何十万
もの女性たちを性奴隷にしたことです。これもまた旧日本軍関係者によって徹底的に
ふたをされ、それをアメリカも容認した。戦争犯罪の隠蔽をアメリカが助けた。
それで誰が被害を被ったのか。民衆です。アジアと日本とアメリカの民衆なのです。
アジアの民衆は、侵略戦争で被ったもの凄い被害の賠償を受けられませんでした。誠
実な謝罪すらなく、長く苦しい時を過ごした。同時に実は日本民衆も、日本政府によ
る戦中の迫害や、アメリカ軍の非人道的攻撃への謝罪も補償も受けていません。
日本軍兵士もそうなのです。僕はフィリピン戦線で地獄のような体験をしたおじいさ
んたちから、戦争体験を聞き取ったことがあります。またさまざまな戦史の研究もし
てきました。そこで分かるのは、いかに日本軍兵士が理不尽な戦闘、あまりに合理性
に欠けていて、勝てるわけのない戦闘に狩り出されたのかという実態です。
日本軍は兵士の命を極端に軽視していた。実際に兵士は、「お前たちは一銭五厘で
集められる。軍馬の方が貴重だ」などと言われていた。そればかりか日本軍は構造的
なリンチ構造を持っていました。性的虐待も行われていた。訓練中の死亡などは日常
茶飯事のことで、そこには人権のかけらもなかった。
そういう兵士たちが、野に放たれると、凶暴さを発揮しました。とくに中国戦線では
残虐な行為が日常的に行われ、兵士による市民へのレイプ事件が頻発しました。しかし
軍は積極的には取り締まらなかった。ところがレイプが増える中で、性病が広がりだし、
それで「対策」が始まり、「慰安所」が作られ、「処女狩り」がなされた。
肝心な点は、そこで多くの兵士たちが、構造的暴力に自らが手を染めてしまったため
に、己が受けている虐待を告発できなくなってしまったことです。そのために、戦後
も元兵士たちは、あれほどにひどい目にあわされたことへの告発をなすことができな
かった。自らが受けた虐待を、他の誰か、特に女性への虐待に転嫁したからです。
そのため、日米両軍幹部による、互いの戦争犯罪の隠蔽の中で、日本軍兵士たちが
おかれたあまりに非人道的な待遇への謝罪、補償も何らなされなかった。軍人恩給は
主に彼らを虐待した上官たちに手厚く配分されました。さらに度重なる空襲を受け
た日本民衆は何の補償も受けていません。誰からも何の謝罪もされていません。
ではアメリカ人はどうなのでしょうか。実は最初の原爆によるヒバクシャはアメリカ
人なのです。ニューメキシコ、有名なアラモ砦のあったあたりだそうですが、そこで
人類最初の核実験が行われ、放射能が撒き散らされました。7月のことです。被曝と
いうことで言えば、それに先立つウラン鉱の採掘でも起こっています。
アメリカは第二次世界大戦終結後、ネバタ砂漠で核実験を繰り返しました。その際、
実はたくさんの兵士が動員され、人体実験が行われた。核爆発の後のきのこ雲(放射
能の塊)に向けた突撃訓練が行われた映像が残っています。彼らはアトミック・ソル
ジャーと呼ばれます。アメリカ軍は兵士を使って放射能の影響を調べたのです。
そればかりではありません。国中に作られた核兵器製造のための秘密工場は、たびたび
プルトニウム漏れ事故を起こしました。そのためアメリカ国内には膨大なヒバクシャが
生まれた。もし広島・長崎の真実が明らかになっていたら、これらの人々のかなりの
部分が被曝を免れたでしょう。しかし残念ながらそうはなりませんでした・・・。
こうした構造のもとで、広島・長崎のヒバクシャは切り捨てられてしまいました。アメ
リカ軍は、原爆の非人道性の暴露を恐れて、1945年から1952年までマスコミをシャッタ
アウトし、被ばくの実相が世界に伝わらないようにした。そのためヒバクシャはまとも
な医療保障も生活保護も受けられず、塗炭の苦しみを舐めました。
同じ頃、アジアの人々も、戦争の惨禍からなんの援助もなく、生活を再建していかなけ
ればなりませんでした。中でも本当に苦しい思いをしたのは、性奴隷として戦場をひき
まわされ、挙句の果てに日本軍に放り出された被害女性たちでした。多くの場合、彼女
たちはその悲惨な体験を誰にも打ち明けられず、胸に秘めて長き年を過ごしてきました。
このような歴史的経緯をみるとき、ぜひみなさんに知って欲しいことは、長年の沈黙を
破ってはじめられた被害女性たちの告発、おばあさんたちの叫びは、実は戦争で犠牲に
なった各国の民衆の尊厳や利益に通じることなのだということです。彼女たちが告発し
ているのは、日本軍の構造的暴力です。その背後にある日本社会の構造的暴力です。
それは同時にたびたび日本の民衆にも向けられてきたものです。おばあさんたちは勇気
をもって、それに立ち向かってきた。怒りの声を上げた。私たちが認識しなければいけ
ないのは、それが日本民衆の人権を守ることにも繋がってきたことです。日本社会の構
造的暴力が弱まれば、その恩恵を一番、受けるのは日本の国民と住民なのです。
おばあさんたちは、とくに戦後世代の私たちに対してはこう語ってきました。「悪いの
は日本政府と、日本軍だ。あなたたちは何も悪くない。日本の若い人たちは大好きです」
と。これは各国のおばあさんたちに共通する声です。そこには個人的な恨みを超えた
普遍的な愛がある。この問題に携わって知るのは彼女たちの人間愛の深さです。
みなさん。現在の日本政府は、国民と住民に構造的暴力を振るっています。その一つが
放射線管理区域で、女子中学生にマラソンをさせたり、善意のボランティアを集めて、
除染という被曝労働を組織して、東京電力と政府の尻拭いをさせようとしていることで
す。汚染地帯からの避難を押しとどめているのも、まさに民衆への暴力です。
そしてその暴力を、核武装をして、世界中で劣化ウラン弾を使っているアメリカがバック
アップしている。放射能の恐ろしさに民衆が自覚的になり、さらに構造的暴力に人々が
敏感になると、誰よりも困るのはアメリカだからです。アメリカは現在進行形で数々の
戦争犯罪を繰り返している。それに気づかれることを恐れている。
だからこそ、今、性奴隷というもっとも過酷な戦争被害を受けながら、本当に逞しく人
間的愛をはぐくんできたおばあさんたちに触れること、その声を聞くこと、痛みをシェア
し、さらに未来への希望、自分たちの死後への彼女たちの願いを受け取ること、その中に
僕は、現代の暴力のすべてを超えていく可能性が秘められていると思うのです。
みなさま。ぜひおばあさんたちの写真を見に来てください。彼女たちの声を聞きにきて
ください。逞しい姿、りりしい姿、でもどこかとてもかわいい彼女たちに会いにきて
ください。そして一緒にこれからの私たちの歩むべき道を考えましょう。一人でも
多くのみなさんのご参加をお待ちしています。
以下、案内を貼り付けます。
***************
写真展「長路漫漫ーおばあさんたちの旅路-」と3人の阿媽の来日のお知らせ
~ぜひ、ご参加下さい~
11月18日~21日まで台湾の元「慰安婦」被害女性たちの写真展を開催いたします。
また、今回きゅうきょ台湾から阿媽たちが来日してくれることになりました。
台湾の阿媽たちは平均年齢が90歳近くになっており、今回来日してくれる3人の
阿媽も84歳から89歳、今回が最後の来日ではないかと思います。
今回の写真展には、ワークショップで阿媽たち自身が写した写真も展示しており
ます。阿媽たちがお互いを写している様子、また阿媽の感性に基づいたすてきな
写真も何点か飾ります。
ぜひ、会場にいらしていただき、阿媽の作品である写真を見て下さい。
そして「阿媽とともに」の集会にご参加いただき、阿媽たちに「台湾の『慰安婦』
被害女性のことを忘れていない」ことをお伝え下さいませんでしょうか。
私たちにとっても阿媽たちの活動が大きな励みになっていますが、私たちが日本
の困難な状況の中で「慰安婦」問題解決のための努力を継続していることは阿媽
たちにとっても大きな励みになることと思います。
写真展:
日時:11月18日(金)~21日(月)午前10時~午後7時
場所:中野ゼロ西館2階 美術ギャラリー
(東京都中野区中野2-9-7・JR中野駅南口下車 徒歩約8分)
集会:「阿媽たちとともに」
日時:18日(金)午後6時半~8時40分
場所:写真展と同じ場所 第2学習室 資料代500円
内容:阿媽たちのあいさつ、
婦援会 台湾での阿媽たちの現在など
来日する阿媽は下記の3人です(予定)。
★陳桃さん(Chen Tao) (1922年生まれ)
19歳のとき、学校へ行く途中、日本人警察官に呼び止められてそのまま高雄
から船に乗せられる。着いたところは海に四方を囲まれたアンダマンだった。
妊娠もし、クレゾールを飲んで自殺を図るなど辛い体験の中を生き抜いてき
た。裁判の原告の1人。「裁判は負けたけれど、自分の心は絶対負けない」
と言う。
★陳蓮花さん Chen Lian Hua 1924年生まれ)
19歳のとき、フィリピンのセブ島につれていかれる。日本とアメリカとの激
しい闘いの中で兵隊について山の中など逃げ惑う。
★イアン・アパイさん(中国名:林沈中 Lin, Shen Chung)
1927生まれ:タロコ族
17歳のとき、の近くの日本軍の駐屯地で雑用をするようにと日本人警察
官にいわれる。ご飯炊き、ボタンをつけなど衣服の修繕等雑用をさせられる
が、そのうち、夜連れ出され、強かんされる。日中は仕事、夜は強かんされ
るという悪夢のような日々が続いた。
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 柴 洋子