明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(351)12.8と東南アジア全面侵攻・・・真珠湾奇襲が始まりでない(根本敬上智大学教授)

2011年12月10日 00時00分00秒 | 明日に向けて(301)~(400)
守田です。(20111210 00:00)

昨夜、12月8日に踏まえて、真珠湾攻撃による「太平洋戦争」の開戦について
触れましたが、すぐにある友人から、マレーシア・コタバル上陸のことも書いて!
というメールが来ました。実は日本軍は真珠湾攻撃の65分前に、マレー半島上陸
戦を慣行しているのです。

友人は、この点について、「しんぶん赤旗」に載った、根本敬上智大学教授の
論文も紹介してくれました。ネットより探して転載させていただくことにしまし
たが、今日はこの論文のタイトルを、そのまま「明日に向けて」の表題にも使わ
せていただいています。

この中で根本さんは、12月8日が、日米開戦だけではなく、東南アジア全面侵攻の
開始の日でもあったのであり、その点で「太平洋戦争開戦」というよりも、「アジ
ア太平洋戦争開戦」と言うべきだと述べています。その通りだと思います。

ちなみに日本軍は、真珠湾とマレー半島を襲っただけではありませんでした。や
はり12月8日に、台湾より航空隊を発信させてフィリピンを空襲。空軍基地を破壊
して制空権を確保した上で、12月10日にルソン島に先遣隊が上陸。さらに22日に
本体である陸軍第16師団が上陸しています。この16師団は京都・滋賀を中心に編
成された部隊です。


ところで日本軍は、なぜアメリカとの全面戦争に踏み込むと同時に、東南アジア
への侵略戦争を強化したのでしょうか。これまでの歴史では、東南アジア方面で
石油を確保することが戦略的狙いであったと論じられています。確かにアメリカに
禁輸措置をとられている中で、石油欲しさに南進していったということはある。

しかし戦争状態で、本当に石油を安定的に東南アジアから供給できると思ってい
たのでしょうか?この点について、NHKスペシャルが、きわめて示唆的な番組
を流していました。今、いつの番組でなんとういうタイトルだったか、調べきる
ことができませんでしたが、番組は、当時の陸海軍、および政府中枢の回顧録や
関係者のインタビューなどによって構成され、歴史の秘話を見事に描きだして
いました。

では何が秘話だったのか。実は当時の日本政府中枢、そして陸海軍の中に、アメ
リカと全面戦争をして勝てると思っていたものは、一人もいなかったという驚く
べき事実です。ではなぜ戦争をしたのか。「引っ込みがつかなかったから」
・・・これが真実だったのです。

どういう意味でしょうか。アメリカは当時、日本に対して厳しい要求をつきつけ
ていました。その中でも日本政府がもっとも飲み込めなかったのが、中国大陸か
らの撤退要求でした。なぜか。数十万の戦死者を出していたので、何の成果もな
しにひいたときの、国民の怒りを恐れたのです。ここはものすごく重要です。
あの軍国主義日本の中枢の人々は、国民の怒りを恐れていたのです。

実はそれで政府中枢も、陸軍も、海軍も、それぞれ独自に戦争回避の方策をとろ
としていた。陸海軍はどうしたのか。水面工作で、陸軍は海軍に中国からの撤退
を言わせようとし、海軍は陸軍にそれを言わせようとしていた。それぞれに手を
打ち合って、相互にすくみあっていた。

これに対して近衛内閣は、独自にアメリカ政府に接近し、電撃的に首脳会談を
行って、和平交渉を成立させてしまうことを狙った。ところがアメリカ政府側が
日本政府と陸海軍の意志一致がなされてないことを察知し、直前にこれを反故に
してしまいます。事実は、日本政府も陸海軍も戦争回避で利害が一致していて、
ただ体面上、徹底抗戦だとか、神州不滅だとか叫んでいたのですが、アメリカは
そうした日本の「談合的体質」など当時はまったく理解できなかったので、政府
が軍を説得できていないと読んでしまったのです。

かくして12月8日、日本政府の中枢も、陸海軍の首脳も、「絶対に勝てない」と
思っていたアメリカとの全面戦争に踏み込んでいきます。このとき同時にアジア
全域に踏み込み、少しでも多くの資源を略奪しようとしていった。「絶対に勝て
ない」という自らの認識に封印を施し、超大国アメリカに対抗するためになり
ふりかまわぬ略奪に走ったのです。

なんとおろかなこと。

ただ、誰も止められなかったから、いやより正確に言えば、誰も止めようとは
しなかったから、・・・身体を張って「祖国」を守ろうとする人士など、社会の
中枢には誰もいなかったからこそ、日本は、「絶対にアメリカには勝てない」と
いう、「合理的」な判断すらあったのに、全面戦争に踏み込んだのです。

そして「国民」を戦争に駆り立て、アジア全域で暴れまわっていった。誰も「祖
国」を守ろうとしなかったばかりか、解放を呼号したはずの「大東亜」を蹂躙し、
たくさんの国の人々を戦争の惨禍に巻き込み、挙句の果ては、アメリカに諸都市
を空襲され、原爆まで落とされてしまいました。それが「引っ込みがつかない」
がために突入した「アジア・太平洋戦争」の結末でした。

いやそれだけではありません。そうしてアジアで略奪と虐殺を繰り返したがゆえ
に、戦争末期になると、政府と軍の中枢の人々は、やがては敗北するアメリカに
それを暴かれ、処刑されることを恐れ、戦争が終わるや否や、原爆被害を克明に
調査。ただちに英語に翻訳して、アメリカ軍に差出し、自らの処分を免れようと
したのです。ちなみにその後に、アメリカ軍が組織した、原爆傷害調査委員会
(ABCC)には、中国大陸で人体実験を繰り返した731部隊の医師たちが、アメ
リカによって配置されています。中国人を人体実験した悪魔のような医師たちが、
広島・長崎で、アメリカのための「被爆者調査」を行ったのです。


このようにみたときに、12月8日からのアジアへの全面侵略、そして日米開戦と
私たちは大きく一つの歴史の糸でつながっていることがみえてきます。今もおそ
らく日本政府中枢は、今、起こっている被曝が本当にとんでもないものであり、
もっと抜本的な対処をしなければおいつけない事態であることに気がついている
でしょう。しかしそれが明らかになったときの国民・住民の怒りを恐れ、とにか
くそれを封印し、できることのない数々のことを、「建前」的に遂行している
のだと思います。

・・・もうこのような歴史が続くのはごめんです。

私たちは、もう本当に、いい加減に政府にだまされることから目覚めるべきです。
そして日本がかつてアジア各国に本当にひどいことをしてきたことを振り返ら
なければいけない。それは第一には道義の問題です。しかし二つ目には、この点
に目覚めないと、私たちもまた、自由になれず、幸せになれず、人間的に豊かに
なれないのです。

人の足を踏みつけているものは、他者に足を踏まれても声をあげることができない。

アジアの立場から近代史を見直し、「日中戦争」と「アジア・太平洋戦争」を見直し
ましょう。そして原爆と原発のつながりに自覚的になり、放射線の害がひどく小さ
く見積もられてきた歴史を捉えなおしていきましょう。そこから私たちの自由な
歩みが開けていくのだと僕は思います。この点を、70年目の12月8日に際しての
コメントの付け足しとしておきます。

*********************

12.8と東南アジア全面侵攻・・・真珠湾奇襲が始まりでない(根本敬上智大学教授)
しんぶん赤旗2011年12月7日 

大学生の多くは12月8日の真珠湾奇襲で「太平洋戦争」が始まったと思っている。
多くの日本人もそうであろう。しかし、事実は違う。日本の海軍機動部隊による
真珠湾奇襲の約65分前に、陸軍を中心とした部隊がマレー半島のコタバルに上陸
し「アジア・太平洋戦争」は始まっている。これはこぼれ話的な細かい事実など
ではない。この戦争の特質を一番よく表している重要な史実なのである。それは
二つの点で説明できる。

≪深くつながる作戦≫

第一に、マレー半島への上陸のほうが真珠湾奇襲より先だったことは、この戦争
が日本による東南アジアへの全面侵攻と占領を目的としたものだったことを象徴
している。まずはイギリスの東南アジアにおける拠点シンガポールを陥落させる
ことが軍事的に重視されたので、マレー半島に上陸し南下作戦を展開したのであ
る。その際、大きな戦力をもつアメリカ太平洋艦隊が早々にやってきて日本軍の
侵攻作戦を邪魔したら困るので、事前に鹿児島湾などで飛行士の訓練を十分に積
んだうえで、、オアフ島の真珠湾を奇襲したのである。この二つの作戦は相互に
深くつながっており、どちらがより重要かといえば、作戦上(軍事上)は真珠湾
奇襲かもしれないが、歴史上はコタバル上陸の方だと言わざるを得ない。

第二に、アメリカへの宣戦布告が真珠湾奇襲に間に合わなかったことが「だまし
討ち」だったとして議論されることがあるが、たとえ遅れてしまったとはいえ、
宣戦布告をしようとした事実が存在する(「日米交渉打ち切り」というあいまい
な表現を用いたが)。しかし、マレー半島上陸の方は「なんの断りもなく」おこ
なわれ、あたかも「植民地だから勝手に侵略してよい」と日本側が思っていたか
のごとくである。ここには東南アジアに対する蔑視があったと言え、まさに戦争
が「東南アジアへの侵略」だったことをよく表している。

こうした事実からわかるように、この戦争を「太平洋戦争」と呼ぶのは極めて一
面的である。「太平洋戦争」と呼んでしまったら最後、「日米の戦争だった」と
いう記憶が独り歩きし、その結果、アメリカの「物量に負けた」「レーダーに負
けた」「合理主義に負けた」といった解釈だけが重要視されるされることになる。
しかし、戦争は東南アジアへの全面侵攻と占領が目的で行われたのだから、正確
には「アジア・太平洋戦争」と呼ぶべきである。もちろんその際に中国での戦争
も継続していたことを忘れてはならない。

≪民衆に負けた史実≫

このことに気付くとき、私たちは12月8日を「真珠湾奇襲の日」としてだけではな
く、「東南アジアへの全面侵攻開始の日」として正しく記憶することができよう。
それによって、日本がアメリカの「物量」や「レーダー」や「合理主義」に負け
ただけでなく、東南アジアの民衆の日本軍に対する反感とナショナリズムにも負
けたのだという史実を認識することができる。最近、ビルマ(ミャンマー)の民
主化進展が話題になっているが、同国で民主化運動を指導するアウン・サン・
スーチーは「ビルマ独立の父」アウン・サン(1915~47)の娘である。アウン・
サンがビルマ国民に尊敬される理由は、彼が英国に象徴される帝国主義と戦い、
かつ日本軍に象徴されるファシズムとも戦ったからである。娘のアウン・サン・
スー・チーが生まれた1945年6月、父アウン・サンは日本軍に対する武装蜂起を
指導していた。戦争はまさに「アジア・太平洋戦争」だったのである。

引用は「よしみの議会だより」より
http://blog.goo.ne.jp/yufukuakita/e/79633876f19a81c5b43574256125bd21
http://blog.goo.ne.jp/yufukuakita/e/07523608262e819f28c7967c3860a6eb
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