明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(841)蘆葦の歌―台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり―東京上映会に向けて(下)

2014年05月07日 06時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140507 06:00)

昨日6日に、台湾のおばあさんたちの映画、『蘆葦(あし)の花』上映会のことを書きました。
僕は予定通り、今日はこれから家を出て東京に向かい、夕方にこの上映会に参加しますが、楽しみなのはそこに訪れてくれる陳蓮花(チンレンファ)アマアとお会いすることです。

このアマアに関して、昨日の記事では、彼女が初めて被害事実に関する証言を行ったのが2006年、私たちが京都にお招きした時のことだったことを書きました。
今回は、そのときのことを僕が書き残したおばあさんたちの訪日記の中の一節をご紹介するところから、お話を続けたいと思います。
アマアたちの旅の様子をいろいろと報告したのちに、証言集会について触れたくだりからです。
なお、ここでは陳蓮花(チンレンファ)アマアを、陳樺(チンホア)アマアと紹介しています。これはカムアウト前に使われていた、本名をもじった仮名です)

***

台湾からアマアたちを迎えて 2006年12月より
守田敏也

肝心の証言は、私たちの集会と、仏教大学での講演会の都合2回お話してもらいましたが、どれもが尊厳に溢れていて、強く感動させていただくものでした。
そのすべてをご紹介したいところですが、あえてそのうちの一つを紹介したいのは、陳樺(チンホア)アマアの証言です。なぜならこれは、彼女の初めての証言だったからです。とくに圧巻だったのは、二度目になる仏教大学でのお話でした。
彼女はフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。
私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺アマアは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していくのですが、アマアはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。
装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマアのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。
そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、キャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマアは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマアはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。
被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。
すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。
そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。陳樺アマアの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。
残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。そこにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

全文は以下に収録
明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)
2012年9月23日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/fa4f3e76c32de1f65b67cffe2748f976

***

ここでは僕にとっても彼女の発言の大きな意味を書きましたが、実はここには書けなかったもう一つの忘れがたいことがありました。
アマアが大きな声を出して公衆の面前でさめざめと泣いたとき、アマアたちを支えるべく一緒に来ていた呉慧玲(ウホエリン)さんが「よしやった!泣いた。それでいいのよ。泣くことはとっても大事なの」と、僕の横で手を握りしめながら呟いたことでした。
あの時、アマアの中に封じ込められていた悲しみ、痛み、さらにそれらが混沌となった何かが思い切り外に放出されたのでした。彼女にとって、己を癒し、尊厳を回復していく大きな突破口が開いた。それを知るホエリンは、唇をかみしめるようにして「よしやった!」と小さく叫んだのでした。
実際にそれ以降、陳蓮花(チンレンファ)アマアは、どこでも堂々と発言してくださるようになりました。発言するたびに、力強さが増し、尊厳を輝かせてくれるようになった。その出発点が京都での証言集会なのでした。

婦援会の素晴らしいところは、これまでもさまざまな性暴力に苦しむ女性たちに関わることの中から、その痛みを癒し、尊厳を回復していくプログラムを持っていたことでした。それをアマアたちに適用してくださった。
柴さんが紹介してくれたようにその場がアマアたちのワークショップなのでした。アマアたちはこのプログラムの目的に、ものの見事に応えてくれた。応えてどんどん尊厳を回復していき、明るく、活動的になっていったのです。
プログラムが素晴らしかったことはもちろんですが、僕はやはり、自ら名乗り出ることができたアマアたちの人間的な強さ、豊かさこそが、回復を可能にする大きなエッセンスだったのだと思います。
今回の映画はアマアたちのワークショップの最後の3年間を追いかけたものです。痛みからどんどん回復していく過程を辿ったものです。僕たちもその一部に参加させてもらった日々でした。・・・映画がとても楽しみです。

これまで繰り返し論じてきましたが、旧日本軍が作りだした性奴隷制度は、この軍隊が構造的に持っていた兵士たちに対する内向きの暴力を大きな背景にしていました。
兵士たちは日常的に虐待され続けていた。その上で過酷な戦場に駆り出されました。もちろん戦場とはどこも過酷には違いないでしょうが、日本軍の場合は作戦指揮もめちゃくちゃなものが多く、食料調達がまともにできなかったため戦死者よりも餓死者の方が多いほどで、二重三重の過酷さがありました。
しかし兵たちは構造的な虐待に抗議することができなかった。「上官の命令は天皇陛下の命令だ」と言われ、どんなに理不尽なことを命じられてもただ黙って聞いて、実行するしかなかった。そうしなければ凄惨なリンチにさらされ、殺されてしまうこともあったからです。
そのため当然にも兵士たちの中にはどうともならない鬱憤が溜まり、戦闘になると強烈な暴力性として噴出しました。とくに無抵抗な民間人に対して、絶望的なまでの暴力性が開花し、レイプやむごたらしい殺戮が、あちこちで繰り返されました。中国侵略戦争の過程でのことです。

旧日本軍指導部はこれに頭を悩ませた。兵士が暴虐を働くことで、中国の人々の日本軍への憎しみが募るばかりであることも頭痛の種でしたが、それ以上に軍部が懸念したのは、兵士がレイプをすることでときに性病にかかってしまい、兵力が削がれることでした。
このため日本軍は「性」の管理を考え始めた。兵士たちの絶望的な暴力を「管理」するために、そして「性病を防止」するために「慰安所」を作った。このために慰安所に集められたのは処女の女性たち・・・女の子たちなのでした。
まだ性のことに何の知識もないような女の子たちまでもが集めあれ、レイプされ、軍による兵士の暴力の管理のために踏みにじられていった。それが世界に例をみない旧日本軍性奴隷制度の酷さ、非人間性、野蛮性なのでした。
アマアたちのワークショップは、そんな絶望的な暴力を受けた彼女たちの、心の奥底にまで入り込んだ傷との人間的なたたかいでした。まさに尊厳を取り戻すための挑戦が行われ、実際にアマアたちは傷を回復していったのです。

僕は実はそのことの中ではじめて、旧日本軍兵士たちの尊厳の回復の道を作り出されてきたこと、男性の暴力のからの解放の回路切り拓かれてきたことを強く感じてきました。
まだまだできていないことですが、僕は日本軍兵士たちが受けた構造的暴力ももっと解明し、その痛みへの手当てがなされていかなけばならないと思っています。もちろん構造的暴力の責任者が罰せられなければならないし、社会的反省がなされなければならない。
そうして若くして構造的な暴力の中に叩き込まれ、人間的尊厳をずたずたにされ、自らもまた鬼のようになりながら戦場に散っていった多くの兵士たちにも、私たちの社会からの謝罪と鎮魂の祈りを送らなければならないと思うのです。
「慰安婦」制度の現実を否定しようとしている人々は、このことをまったく考えていない。性奴隷制度とももに、多くの日本軍兵士もまた奴隷のように戦場で扱われていたこと、構造的暴力の犠牲者でもあった事実も消し去り、その尊厳の回復の道を閉ざしているのです。
僕は断言できますが、このような軽々しい人々に比べるならば、絶対に僕の方が日本軍兵士たちの生きざま、死にざまに心を寄せているという確信があります。だからこそ僕は、彼らの罪を背負っていこうと思うのです。

おばあさんたちのたたかいは、その意味で、すべての人々の尊厳を守り、育て、発展させていく道に大きくつながっています。未来への強い希望がそこにはある。どれだけ感謝してもしたりません。
今は解決の方途の見えないものであったとしても、人間が人間である限り、やがて出口を見出すことができ、明るい展望を切り開くことができる。僕はそれをおばあさんたちの生きざまから学んできました。
どうかみなさま。おばあさんたちの生きざまに様々な機会を通じて触れて下さい。何かの機会を捉えて、おばあさんたちが繰り返してきた証言に触れてください。上映会にご参加できる方はぜひいらしてください。
あなたにとって、そして私たち全体にとって必要な何かの力がそこから必ず得られるし、さらに大きなものをみんなで一緒につかんでいきたいと僕は思うのです。

終わり

 

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明日に向けて(840)蘆葦の歌―台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり―東京上映会に向けて(上)

2014年05月06日 09時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140506 09:00)

みなさま。ゴールデンウィーク最後の日になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
僕は今日までゆっくり過ごし、明日からまた動き出します。すでにお知らせしたように8日に東京でトルコ訪問に関するお話をさせていただきますが、前日の明日、7日には台湾のおばあさんたちの映画を同じ東京で鑑賞します。
映画のタイトルは『蘆葦の歌』。「あしのうた」と読みます。台湾人映画監督の呉秀菁(ウシュウチン)さんのもと、3年がかりで撮影されたものです。まずは予告編をご覧下さい。北京語ですが様子が伝わると思います。

【 蘆葦之歌 】慰安婦阿嬤的光影紀實 ☆電影首波預告☆
https://www.youtube.com/watch?v=V2lpKsdZi0g

昨年9月28日に台北市でオープニング試写会が行われましたが、その時の記事もご紹介しておきます。日本語記事です。

台湾人元慰安婦の記録映画、プレミア上映 「歴史の傷忘れるなかれ」
中央社フォーカス台湾  2013年09月29日15時13分
http://news.livedoor.com/article/detail/8110613/

内容はどのようなものでしょうか。おばあさんたちを長く支えてきた「台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の柴洋子さんが次のように説明しています。

***

「台北市婦女社会福利事業基金会(通称:婦援会)は、1996年から被害者たちを支える活動のひとつとして心理治療を兼ねたワークショップを実施してきた。
ワークショップは、絵画、小物づくり、ヨガ、料理から、生まれて初めて持つカメラでの写真撮影会や自分たちが演じる即興のドラマまで様々な内容があり、たいていは台北郊外に1泊旅行を兼ねて行われた。
阿媽(アマア 台湾語でおばあさんのこと―守田注)たちの希望で金門島や澎湖島など台北市を出る旅行もあった。阿媽たちはみんなに会えるからとワークショップを楽しみにし、歌い、踊り、笑い声をあげた。
最初は口を閉ざしがちだった自分の被害についても語り合うようになった。この『蘆葦の歌』は、そんなワークショップの最後の3年間とともに、家族が静かに阿媽を支え続けた様子、台湾・日本の支援者との交流の中で阿媽たちが歩む様子を記録している」

―上映会案内チラシより

***

Facebooのページもお知らせします。同じく北京語ですが、雰囲気をくみ取ってください。
https://www.facebook.com/SongoftheReed


以下、上映会の案内も先に貼り付けておきます。

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

  蘆葦の歌 Song of the Reed 上映会
  台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

沈黙し続けた女性たちが、語り出した。
そこにはどんな努力があったのか。

ここ3年間、家族に支えられ、台湾・日本の支援者との交流を通して、被害女性たちが歩んできた回復への道をたどったドキュメンタリー。

■日 時 5月7日(水)午後6時30分~9時30分(開場6時)
■参加費 900円
■場 所 なかのZERO(本館) 視聴覚ホール(地図)
     JR中央線・地下鉄東西線 中野駅下車、徒歩8分

■プログラム
映画上映
「蘆葦の歌」(呉秀菁監督/76分/2013年/婦援会制作)

トーク
・陳蓮花さん(日本軍「慰安婦」サバイバー)
・康淑華さん(台北市婦女救援社会福利事業基金会執行長)
・呉秀菁さん(「蘆葦の歌」監督)

■ゲスト紹介

陳蓮花(チン・リェンファ)さん
1924年生。看護婦の仕事があるといわれてフィリピンのセブ島で被害を受けた。

康淑華(カン・シュウファ)さん
日本軍「慰安婦」の支援をしてきた婦援会執行長。

呉秀菁(ウ・シュウチン)さん
国立台湾芸術大学電影学系助理教授。「蘆葦の歌」の監督。

=====================================
 主催  台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会/日本と台湾の歴史を考える会/
    アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
=====================================

*****

実はこの映画、僕もほんの少しだけ出演しています。監督のインタビューを受けて、僕の阿媽への思いを語っています。
このため昨年の試写会には、婦援会から正式なご招待をいただき、航空運賃も負担してくださるとの連絡が来たのですが、あいにくすでに自分の講演が入っており、お断りせざるを得ませんでした。
その映画がやっとのことで日本にもやってくることになったので、今回は是非、参加したいと思っていました。幸いにも手術の予後がとても良いので、上映に駆けつけることにしました。

映画と共に、作品の中に登場する阿媽の一人、陳蓮花(チンレンファ)さんが来日されます。というか映画に登場するおばあさんの多くがすでにこの世を去っており、今もお元気なのはお二人だけ。
そのうち体調の問題で何とか日本に来れる最後の一人がレンファアマアなのです。そのレンファさんも身体の心配から何度か、行く、行かないとの迷いを重ねたのち、最終的に来てくださることになったのだとか。
この他、監督の呉秀菁さん、婦援会の執行長の康淑華(カンシュウファ)さんも参加されます。みなさん、それぞれトークもしてくださる予定です。
同じく長く阿媽たちを支えてきて、僕ら日本からの参加者ともとても親しい友人になってくれた呉慧玲(ウホエリン)さんも参加されます。みなさんにお会いするのがとても楽しみです。

とくに僕は個人的に蓮花(レンファ)アマアに特別な思いがあります。というのは婦援会の活動に参加しながらも、自らはカムアウトしていなかった彼女が初めて証言を行ったのが、私たちが2006年に京都にお招きしたときのことだったからです。
このとき来てくださったアマアは3人。その中で蓮花(レンファ)アマアだけがまだ公の場で証言をしたことがありませんでした。ところが他の二人の発言と、会場の温かい反応を見た彼女が、「自分も話す」と言い出して、証言が実現したのでした。

続く

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明日に向けて(839)ベラルーシ、ドイツ、トルコへの旅の報告講演を行います!(5月8日東京、11日京都市)

2014年05月04日 11時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140504 11:00)

昨日帰宅し、のんびりと過ごしていますが、連休明けより活動を再開します。
まず東京と京都市で旅の報告を行います。

東京でのお話は5月8日。この間、日本とトルコ・UAEとの原子力協定国会承認を食い止めようと、目覚ましい活動を重ねてきたFoE Japanの方々のお招きによります。
与えてくださった時間は1時間ですので、トルコのことにしぼり、主に日本が輸出を目指している原発の建設予定地、シノップ訪問のお話をします。
JACSESの田辺有輝さん、FoE Japanの満田夏花さんもお話してくださいます。
東京方面の方、ぜひご参加ください。

なお参加を呼び掛けていただいたものの、体調を考えて、申し訳ないですがお断りした企画に、明日5月5日に同じく東京で行われる「丹下紘希 あなたを心配する手紙を巡る出来事」があります。
丹下さんはすでにご紹介したトルコへの素晴らしいビデオメッセージを発してくださり、現地で大きな反響を受けている方です。日本人の良心を代表してくださっています。
この方は、映像関係のアーティストでもあり、昨日5月2日から東京で開催されている「NOddIN 2nd Exhibition」に参加されています。
この中の一環としてご紹介した企画があります。こちらにもぜひご注目ください。以下、企画紹介と展覧会全体の案内のアドレスを貼り付けておきます。

***

5月5日(月) 17:00~19:00
丹下紘希「あなたを心配する手紙を巡る出来事」トークセッション
NOddIN 1st Exhibitionで発表された丹下紘希による映像作品「あなたを心配する手紙」は、原発輸出相手国であるトルコ国内でSNSを通して予想以上に拡散して、話題となりました。今も反原発運動をする市民活動家の人たちへも届きました。
トルコとの原子力協定が可決されてしまった今、わたしたちはどのように進んでいったら良いのか?トルコ現地の方々とスカイプでトークセッションを行います。

***

トルコからのスカイプ参加には、僕がトルコにいったときに素晴らしい通訳をしてくださったプナールさんも加わられるそうです!うーん、僕も東京の会場に駆けつけたかったなあ。でも今回は我慢です!
なおNOddINとは、「今までと違う視点を持って生きていきたいと思う心の集まり」のことだそうです。詳しくは以下をご覧下さい。東京方面の方、ぜひ他の企画も含めてご参加ください。
http://claska.com/studio/8th_gallery/2014/04/noddin_2nd_exhibition.html


5月11日には京都市内で、ベラルーシやドイツに一緒にいったみなさんとのジョイント企画に参加します。
僕以外では、関西医療問題研究会に属している高松勇医師、『週刊MDS』記者でジャーナリストの豊田護さん、福島から京都に避難され、原発賠償京都訴訟の原告としても活躍されている萩原ゆきみさんが参加されます。
高松さん豊田さんとは、医師国際会議への参加で、ベラルーシからドイツへの旅をご一緒しました。萩原さんはヨーロッパ・アクション・ウィークに、福島からの証言者として参加されました。

高松さんは、日本国内の多くの医師が、福島の子どもたちの中での甲状腺がんの広がりを「アウトブレーク」と断定することを尻込みしている中で、同研究会の山本医師や入江医師とともに、早くから「甲状腺がん多発」をはっきりと指摘されている方です。
道中、いろいろとお話しましたが、もともと医学生時代に薬害の問題に関心を抱き、「飲む意味のない薬を飲まされて、かかる必要のない病にかかっている」現代医療の歪みに抗すまっとうな医師になろうと歩み始めたのだとか。
小児科の臨床医として今も日夜働かれていますが、例えば子どもがインフルエンザで高熱を出した際、問題の多いタミフルの処方などは絶対に行わずに、丁寧な対処をされています。
タミフルを使わないことに心配になる親御さんもおられますが、その場合は「タミフルなど絶対に必要ないです。その代わりに心配な時はいつでもいいですからすぐに連絡してきてください。私が対処します」と言われているそうです。立派です。

ただでさえ小児科は夜間の駆け込み診察依頼なども多いハードな仕事。その上に「いつでも連絡してきてください」と告げれば、365日、休む間もなくなります。
しかし高松医師はそんなことに躊躇せずに、危険な副作用の多いタミフルを安易に処方している現代医療のあり方を、自らの実践を通して批判され続けているのです。
福島の子どもたちへの対処でも、ただ甲状腺がんの多発を指摘しているだけでなく、各地で健康相談会を開き、あるいは参加し、放射線被曝下での多くの親子の不安に丁寧に向かい合い続けておられます。
そんな高松医師のベラルーシやドイツでの講演には、常に他の国の医師たちの大きな反響が集まっていました。今回はその顛末や、他の国の医師の発言から得たものをお話し下さるのだと思います。僕には十分に対象化できない領域でもありましたので興味芯々です!

豊田さんはこれまで反戦ジャーナリストとして米軍が大量虐殺を行ったイラクを訪れ、人間の盾ともなって戦争に反対しながら現地を取材されるなど、反骨の取材をなされてきた方です。
実は今回の旅では同室になることが多く、いろいろとお話しながら過ごしました。また僕の発言のシーンなども撮影していただけました。ベラルーシやドイツでの僕の写真が残っているのは豊田さんのお蔭です。
豊田さんが今回の旅でどのようなことを感じ、考えられたのかお話いただけるのだと思います。

萩原ゆきみさんは、僕にとっては旅の後半であったアクション・ウィークのオープニング・セッションから一緒になりました。ドイツのドルトムント市で、ともに記者会見に参加した後に、市庁舎で行われた集会でそれぞれ発言しました。(この時まで高松医師、豊田さんも同行)
萩原さんは、原発事故が起こりただちに避難しなければならなくなったことの顛末を、臨場感たっぷりにお話されます。ドルトムントの会場でも多くの方が引き込まれ、涙を流されていました。
この後、彼女はドイツ各地を講演して回られましたが、途中まで豊田さんが取材同行されたと聞いています。
彼女とは僕がトルコから戻った時もドイツのヘルフォートで一緒になり、同じ集会に参加して発言をしました。

3人の方々はそれぞれに違った立場から今回の旅に関わっておられるので、それぞれが切り取ってきたものに個性があると思います。僕にとってもお話を聞くのがとても楽しみです。
僕自身は1時間を与えていただいたので、前半でベラルーシとドイツで感じたこと、後半でトルコで感じたことをお話するつもりです。

京都市近郊の方、ぜひお集まりください!

以下、それぞれの案内を貼り付けておきます!

*****

5月8日 東京

セミナー「考えよう!トルコへの原発輸出~現地からの報告」(5月8日)

トルコへの原発輸出が問題になっています。
地震国トルコに原発を輸出しても大丈夫でしょうか?
現地の人たちはなぜ原発建設に反対しているのでしょうか?

原発建設が予定されているトルコ・シノップを取材したフリージャーナリストの 守田敏也さんが、美しい写真をまじえて、わかりやすくお話されます。
また、原子力協定の国会での審議を振り返り、今後、私たちにできることは何かについて、共有します。

日 時 2014年5月8日 18:30~20:30
会 場 地球環境パートナーシッププラザ セミナースペース >地図

内 容(予定・敬称略)
トルコ・シノップの現地取材報告 …守田敏也/フリージャーナリスト
トルコとの原子力協定~国会で何が議論になったのか?…田辺有輝/JACSES
JBIC/NEXIの公的信用付与および私たちの役割 …満田夏花/FoE Japan
 
資料代 500円
主 催 FoE Japan
協 力 「環境・持続社会」研究センター(JACSES)
問合せ FoE Japan Tel: 03-6907-7217 /携帯: 090-6142-1807

※参考)トルコの市民団体から国会議員に当てた手紙
http://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-3e84.html

情報掲載先 FoE JAPAN ホームページ
http://www.foejapan.org/energy/evt/140508.html

*****

5月11日 京都市

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ドイツ国際会議 報告講演会

原発事故がもたらす自然界と人体への影響について
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3月、ドイツで開催された国際会議(ドイツ、日本、英国、米国、スイス、ベラルーシなどから医療関係者、科学者が参加)に参加され、発表された医療問題研究会の医師等から報告、講演いただきます。
 
チェルノブイリから28年、フクシマから3年、人類が歩むべき方向は!?

◇日時:2014年5月11日(日)午後1時15分から5時
◇場所:ハートピア京都第4・5会議室(地下鉄丸太町)

①「ドイツ国際会議の意義について」
  高松勇Dr(小児科医・医療問題研究会)
  国際会議の成果は!?。
  福島健康被害(甲状腺がん異常多発)の具体的事実を訴え、反響は!?
  データの科学的分析、データで厳密に論じていくことの重要性。

②「ベラルーシ・ドイツ・トルコで学んだもの
  -チェルノブイリ支援の社会的背景とトルコ反原発運動のいま-」
  守田敏也さん(ジャーナリスト)

③「世界が見つめるフクシマ」
  豊田護記者(週刊MDS)

④「ドイツで被災当事者として訴えて」
  萩原ゆきみさん(原発賠償京都訴訟原告)


◇参加費 一般1,000円、避難者500円

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【主催】避難者こども健康相談会きょうと
〒612-8082 京都市伏見区両替町9丁目254 北川コンサイスビル203号
ブログ  http://kenkousoudankaikyoto.blog.fc2.com/
問い合わせ先:090-8232-1664(奥森)


 

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明日に向けて(838)無事に手術が終わりました。本日、これから退院します!!

2014年05月03日 10時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140503 10:00)

みなさま。予定通り4月28日に手術を受け、無事に終了しました。
心配してくださったみなさま、お見舞いをしてくださったみなさまに感謝を申し上げます。

術後の経過も良好で、5月1日午前中に尿道に入っていたカテーテルという管を抜いてもらえました。
思えば3月18日、セバスチャン・プフルークバイル博士の助けでドイツの病院を訪れ、緊急にカテーテルを導入していただいて以来、約40日ぶりの抜去でした。感慨深かったです。
その後の経過も非常に良く、血尿がまったくないこと、尿がしっかり出ていること、また多くの方に術後一過性で起こる失禁もないことなどから、昨日、予定より早く退院許可が出ました。
それで今、ベッドの周りを片付け、荷物をバッグに詰め込んだ状態でこれを書いています。もうすぐ退院します。

手術は内視鏡によるものでした。腰椎より麻酔をし、男性性器より内視鏡を差し込んで、先についたレーザーメスによって肥大した前立腺をこそげとっていくのです。
仰向けになったお腹の上あたりにカーテンが作られて、手術部位を見ることができないのですが、わずかな隙間?から内視鏡で映し出されたモニターが見えていたので、終始、見学していました。
少しずつ、少しずつ、内視鏡を往復させて徐々に徐々に切除していくもので、なんとも見事なものでした。
もちろん大量の血が出ますが、尿道より差し込んだ管から生理食塩水を入れて流して血をのぞきます。これらの技術もここ数年で格段に上がったようで、血によって手術部位が見えなくなることはまったくありませんでした。

手術は実質1時間半。平均的な時間だったようです。麻酔をかけてからは1時間50分ぐらいでした。
実は手術の前、4月14日に生検といってガンがないことを確認すべく、前立腺から細胞を採取する検査を受けたのですが、部分麻酔で行ったもののあまり麻酔が効かず、大変痛い思いをしました。
僕の聞いたところでは10人中、1人か2人ぐらいの方が痛がるのだそうです。僕の場合は終始、「痛い、痛い」と叫んでしまうほどでした・・・。
このため手術にも相当、覚悟してのぞみましたが、背中からの下半身麻酔の導入も含めて、まったくといって良いほど痛みがありませんでした。

術後の痛みにも覚悟を決め込んでいましたが、これもほとんどなく良好に過ごすことができました。
手術が終わったあとはとても爽やかな気分で、看護師さんから「みなさん、もっとぐったりして帰ってきます。こんなに晴れやかにされている方へ珍しいです」と言われました。
また多くの方が失禁を起こしてショックを受けると聞いたため、さっそく尿パッドを下着の中にいれて覚悟したのですが、先にも述べたようにそれもまったく起こらずちょっと拍子抜けしました。
場合によっては術後のカテーテル抜去後に尿がうまく出ず、再導入し、最悪の場合再手術もある・・・とネットで読んで、腹をくくっていましたが、そんなこともまったく起こりませんでした。

とにかくカテーテル抜去後は尿の出がよくて感動的です。これは経験者でなければどうしたって分からないことですが、ともあれ手術をうまくやっていただいて感謝するばかりです。
長くカテーテルを入れていて、さらに手術で内視鏡を前後させているため、尿道に傷がついていて排尿時に痛みがあるのですが、それもだんだんに薄らいできました。その都度、解放感が増していく感じがしました。
自力で排尿できるようになってからは、毎回、尿の量を図ることが仕事になったのですが、「ウロゼント」という便利な機械があり、そこに流し込むとミリリットルまで細かく表示されます。
なんだか楽しくなって、自らの尿の推移を調べていました。

その後2日の朝に、エコーで膀胱への排尿後の残尿を調べることになり、残量ゼロを確認した後、医師からポンと「良好ですね。もう退院を許可しますよ」と言われて、あと数日は覚悟をしていたので、「へっ?」となりました。
またやはりネットで、術後一ヶ月は飲酒禁止などとも読んでいたので、その旨を聞いたら「血尿がなければ少しならいいですよ」と言われてやはり「へっ?」となりました。
その声を聞いた医師が「そうですねえ。1週間はやめておきましょうか」とおっしゃったので、一週間はがまんすることになりました!それやこれやで翌日の退院が決まり、今日になりました。
・・・今、看護師さんがやってきて、患者確認のためにつけているリストバンドを切って行かれました。これでいつでも病院を出れます。

退院したら当然ですが自宅に戻ります。ゴールデンウィーク中はあまり外に出ずにさらにゆっくり過ごします。
ここまで一生懸命に療養に努め、良い結果に結び付けられたのではと思うのですが、僕は非常に調子に乗りやすい性格であるようですので、元の木阿弥にならないように、さらに頑張って一生懸命休みます。
ただしその後、休み明けからはどんどん動きます。すでに8泊9日も病院にいさせていただき、たっぷりと休みが取れた代わりに、やるべきこともたくさん貯まりました。
やるべきことがたくさんあるのは嬉しいことです。すでに身体がウズウズしています。でももうあと数日、しっかり休んでから活動を再開します。

これまで多くの方にご心配、ご迷惑をおかけしましたが、みなさんの温かいお見舞い、励まし、「休め」というエールをたくさんいただいたお陰で、理想的に入院生活を終えることができました。
どうもありがとうございました!(執刀された先生、看護師さんたちをはじめ、病院スタッフの方々にも心から感謝です)

ではそろそろ病院を出ます!
自らの命を大事にすることをしっかりとベースに据えて、すべての命を守り、慈しむ活動に・・・もう数日後に・・・復帰します!!


 

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