守田です。(20140514 22:30)
『美味しんぼ』応援記事の第二弾です。
表題は、この漫画の今週号の後半に登場している福島大学准教授で、友人の荒木田岳(あらきだたける)さんが、『週刊朝日』(2011年11月4日号)に寄稿した胸を打つ文章のタイトルに触れたものです。
僕はこの文章を、ゲラの段階で直接、荒木田さんに見せてもらいました。2011年10月20日頃のことです。福島大学と京都精華大学の教員有志が立ち上げた「放射能除染・回復プロジェクト」に参加したときのことです。
まずはこの文章をみなさんに読んでいただきたいと思います。福島を思う荒木田さんの優しくも悲しさにあふれた名文です。
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除染するほど、「住めない」と思う
荒木田岳(あらきだたける)
5月から福島大の同僚や京都精華大などの先生たち、市民の方々と一緒に福島県内の除染に取り組んでいます。最初は、通学路や子どものいる家から作業を始めました。
政府は「除染をすれば住めるようになる」と宣伝していますが、それは実際に除染活動をしたことのない人の、机上の空論です。現場で作業している実感からすれば、除染にかかわるたびに、「こんなところに人が住んでいていいのか」と思います。
原発から約60キロ離れた福島市内ですら、毎時150マイクロシーベルトなんて数字が出るところがあります。信じられますか?今日もその道を子どもたちが通学しているんです。
30マイクロくらいの場所はすぐ見つかります。先日除染した市内の民家では、毎時2マイクロシーベルトを超えていました。つまり、家の中にいるだけで年20ミリシーベルト近くを外部被曝する。これに内部被曝も加味したらどうなるのか。しかもそんな家でも、政府は特定避難推奨地点に指定していません。
そしてどんなに頑張って除染しても、放射線量はなかなか下がりません。下がっても雨が降ったら元の木阿弥(もくあみ)です。一回除染して「はい、きれいになりました」という話じゃないんです。
今、私の妻子は県外に避難していますが、電話するたび子どもたちが「いつ福島に帰れるの」と聞きます。故郷ですからね。でも私には、今の福島市での子育てはとても考えられません。
そんな私が除染にかかわっているのは、「今しかできない作業」があり、それによって50年後、100年後に違いが出てくると思うからです。多くの人が去った後の福島や、原発なき後の地域政策を想像しつつ、淡々と作業をしています。歴史家としての自分がそうさせるのでしょう。
結局、福島の実情は、突き詰めると、元気の出ない、先の見えない話になってしまいます。でもそれが現実です。人々は絶望の中で、今この瞬間も被曝し続けながら暮らしています。こうして見殺しにされ、忘れられようとしているわが町・福島の姿を伝えたいのです。そうすれば、まだこの歴史を変えられるかもしれない。今ならまだ・・・・・。
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このプロジェクトが立ち上がったのは2011年5月のことでした。まだ政府も、福島県も、除染の「除」の字も言い出してないころです。それどころか小学校の校庭や、通学路でものすごい高い値の放射線値が計測されているのに、それを無視して「安全宣言」を繰り返していた。
子どもたちを、いや福島県内の多くの地域の住民すべてを、ただ日々、被曝するにまかせていて、何らの対処もしていないころのことです。
この惨憺たる状況を前にして、京都精華大学の山田國廣さん、細川弘明さん、福島大学の中里見博さん(当時)、荒木田岳さん、石田葉月さんなどなどが、何はともあれ子どもたちの前から放射性物質を緊急除去しようと動き出した。
動き出しながら、いかにすれば除染は可能なのか、そもそも除染に展望があるのかを考察していくことが、プロジェクトの目的でもありました。
当時、細川さんは次のようにメールで発信を行っています。
「プロジェクトでは、5月と6月の実験をふまえ、市民のための放射能除染マニュアルDVD(+資料)を作成し、多くの方に呼びかけていく予定です。類似の活動・実践を すすめている他の市民グループとの連携もとっていきます。
もちろん、一方で、避難・学童疎開の必要性・緊急性についても、認識をひろめていきたいと考えています。「除染活動をすること」は必ずしも「避難しなくてもなんとかなる」という考え方を前提にしたものではありません。」
荒木田さんの文章にもあるように、当時、福島市内には小学校の通学路脇で、毎時150μシーベルトなどというとんでもない値が出るところがありました。
端的に言って、そのような地点からはただちに避難をした方が良いに決まっているのですが、しかし当時、政府も福島県も、何ら意味のない安全宣言を連発しつつ、人々を避難させずに福島に縛り付けようとしていた。いや今もそうですが、当時は「除染」すらも行っていませんでした。
その状態の中で、自らの力では避難などできようはずもない子どもたちが、とんでもない放射線が飛び交っている中を無防備に登校させられている。だとしたら少しでも子どもたちの周りから放射能を除去するしかない。
同プロジェクトはそんな切羽詰まった動機で走り出しました。
僕自身は当初からこのプロジェクトに注目していましたが、実際に自分が参加できるようになったのは10月のことでした。
初めて参加した時の感想を、僕は幾つかの記事に書いています。以下に紹介しておきます。
明日に向けて(301)福島の現状は厳しい・・・放射能除染・回復プロジェクトに参加して(1)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/c0d94dc74a458f49aedd63cf05269777
明日に向けて(303)屋根の放射能は容易には落ちない!・・・放射能除染・回復プロジェクトに参加して(2)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/731ed06108179654ab6d88c4646aa634
僕はこの中で「全体としての率直な感想は、「放射能はあまりに手ごわい」「除染はかなり厳しい」というものでした。」と書いています。
同時に非常にショックを受けたのは、すでに事故から半年以上が過ぎているのに、多くの地域が除染などまったくされないままに放置されていて、とんでもない放射線値が計測されることでした。
記事の中から一部を引用します。
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まず僕が驚いたのは、市内のある小学校の現状です。20日早朝に除染プロジェクトを精力的に担っている市内のFさんが福島駅についた僕を車で迎えに来て下さり、市内の御山地区に向かい、いくつか汚染の激しいところに案内してくださりました。
御山地区は、福島駅のすぐ北側にある信夫山をトンネルで抜けたところにあります。ここは全体として汚染レベルが高い。
ちょうど近くにある御山小学校が登校時間にあたっていたので、その様子をみることができました。車から見ていると学校に向かう子ども たちのうち、マスクをしている子どもはざっと2割から3割ぐらい。
し かし一方で、多くの親御さんたちが、子どもを車で学校まで連れてきています。夕方には正門前に、迎えの車で列ができるそうです。放射能への対応が、マスクもつけさせない、マスクをつけて登校させる、 車で送り迎えすると大きく3つに分かれている。
この小学校の敷地に隣接してJR東北本線が走っており、通学路の一部が線路がある土手の脇道に当たるのですが、その斜面にたくさんの雑草が多い茂っています。
「ここは線量が高いですよ」というFさんの言葉に基づいて、車を降りて、僕が持参したガイガーカウンターRADEX1503と他の方のTERRAで計測してみましたが、すぐに5μS/h(毎時5マイクロシーベルト)を越えてしまう。0.5ではなく5です。
このとき使ったTERRAは、RADEXより常に少し高めに計測値が出る傾向があったのですが、こちらではより高いところでは8μS/hを越える値が出ました。両方とも、アラーム音がなりっぱなしになり、すぐにアラームの設定値を高く修正せざるをえなくなりました。
ちなみにそれぞれ茂っている草の上で観測したので、地上から10㎝ぐらいだったり、もっと高い地点で測りました。
僕がすぐに思いだしたのは、世田谷の「ラジウム騒動」です。このとき最初に報告された値は2.8μS/hでした。それで周囲は立ち入り禁止措置が取られ、新聞沙汰にもなった。
僕も「明日に向けて」で取り上げましたが、ここではそれを倍する以上の値が計測されるのに、話題にもならない。ショッキングなことにその横をマスクもしないで多くの子どもたちが通学しているのです。頭がクラクラする気がしました。」
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僕はベラルーシやドイツ、トルコでもこの御山小学校の周りで撮った写真を紹介し、高線量地帯となった福島市の中で人々がどんな生活を強いられているのかを紹介しました。
「この状態を放置してはならない。福島を救うことに協力して欲しい」という僕の訴えに、どこでも人々が非常に強い拍手で応えてくれましたが、ともあれ、同プロジェクトはこうした矛盾を座視しえず、除染の可能性をも探りながらのチャレンジに打って出たのでした。
荒木田さんは当初より参加されましたが、10月までの実践は、ただただ厳しさを実感するばかりでした。それで『週刊朝日』にあの文章を書いた。
『スピリッツ』今号でも彼はこう述べています。
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「私は除染作業を何度もしました。その度に、のどが痛くなるなど具合が悪くなり、終わると寝込む。」
「しかも除染をしても汚染は取れない。みんなで子供の通学路の除染をして、これで子供たちを呼び戻せるぞ、などと盛り上がっても、そのあとに測ったら毎時12マイクロシーベルトだったこともある。汚染物質が山などから流れ込んで来て、すぐに数値が戻るんです。」
「除染作業をしてみて初めてわかったんです。除染作業がこんなに危ないということを。そして、福島はもう住めない、安全には暮らせないということも。」
「私の買った土地は今でも毎時1.5マイクロシーベルトありますし・・・すぐ下の河原は1キログラム当たり43万ベクレルでした。愛着があっても自分の身体を蝕むかもしれないところで住むのか。その土地が汚染されてしまっている現実を直視するかどうかですね。」
「除染に意味があるとすれば・・・たとえば阿賀野川を除染して日本海に広がるのを阻止するなど、汚染を広げない作業です。」
「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います。」
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実際、同プロジェクトは5月に通学路脇で150μシーベルトが計測された地点(上述の御山小学校のそばの山田電機の駐車場)の側溝の泥をすくい、雑草を刈り取るなど、本当に緊急の除染を行ったのですが、僕が10月に尋ねてみると実は参加者のほとんどがその直後に体調不良を起こしていました。
中には原因不明の全身の筋肉痛に見舞われ、入院された方もいます。当時は破傷風なども疑って精密検査をされたそうですが、明確な苦痛はあるのに、何らの異常も見つけられなれなかったといいます。
今ここで強調したいのは、『美味しんぼ』を口をきわめて罵倒している福島県は、こうした現実を前に何の対処も行っていなかったという事実です。
いや何もしないどころか、繰り返し安全宣言を行っていた。そして広報に「放射能の害よりも、放射能に神経質になることでの精神的な害の方が大きい」などという政府寄りの「科学者」のコメントを載せ、福島県外へ避難した母子のもとに送りつけることまでしていました。
これに対して荒木田さんやお仲間たちは、本当に必死になって、福島の人々の安全を守ろうとしていた。守ろうとして、除染実験も行って、その末に、絞り出すように「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います」と語っているのです。
もちろんそう言えばバッシングにあうことなど招致の上だし、これまでも荒木田さんは数々のバッシングを跳ね除けて発話してきました。僕はそんな荒木田さんの、福島を思う深い優しさに心を打たれるのです。
続く