「だんなさま、おどろかれたでしょ。でも、分かる気がします。包丁を持って、いざ!
という時に声を掛けられたのでは」
「『なに考えてるんだ、お前は!』って、怒られちゃった。千勢は、怒鳴られたことはある?」
間髪いれずに、千勢が答えた。
「とんでもございません。声をあらげられることなど、いちども。
だまってあたしの前にさしだされて、『食べてごらん』と、ひと言です。
辛かったり甘すぎたり、ありました。
でも、『お前の一生懸命さは知っている。次は、もう少しおいしくしてくれ』と。
『手際の悪さでお待たせしちゃだめだ、なんて考えるな。
なんでもそうだが、手間暇をかけてこそ、実がなるというものだ』とも言われました」
「そう、千勢には優しいのね」
「いえいえ、千勢はどんくさいので。」
「武蔵は、千勢が可愛くてしかたないのね」
「こんな、おか目のあたしがですか? キャハハハ、そんな」
底なしに明るい千勢が、時として荒みがちだった武蔵の心を和ませていた。
そして今は、小夜子の奔放さが武蔵には嬉しい。
「ほんとにおやさしいだんなさまです。
会社ではこわい社長だとお聞きしましたけれど、決してそんなことはありません。
きっといっしょうけんめいにおやりにならないから、強くおしかりなんだと思います。
小夜子奥さまもそうお思いでしょう?」
嬉々として話していた千勢だったが、次第に目がうるみ始めて、とうとう最後には涙声になってしまった。
「もうしわけありません、あたしったら。どうしたんでしょ、悲しくなんかないのに。
ちがうんですよ、うれしいんです。また呼んでいただけるなんて、思ってもいませんでした。
だんなさまにお聞きしました。お前のことをきらったんじゃないぞって。
あたしてっきり小夜子奥さまにきらわれたんだって思って。
悲しくて悲しくて。しばらくの間、実家にもどっていたんです」
小夜子の差し出すハンカチで、笑みを浮かべながら涙を拭いた。
「でも、遊んでばかりもいられないので、新しいお屋敷でお世話になっていたんです。
そのお屋敷でもかわいがってはもらえたのですが、やっぱりだんなさまと小夜子奥さまが忘れられずに……。
そんな時に実家から手紙がとどいたんです。
だんなさまからお声がかかったけれどどうする? と」
「いつなの、それって。あたし、全然聞いてないわ」
小夜子を思っての武蔵なのだが、ひと言の相談もなかったことが腹立たしくも感じる小夜子だった。
“家事のことは、あたしに決めさせてくれなきゃ”。しかし
“武蔵らしいわね。あたしのこととなると、素早いんだから”と、満更でもない。
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