時計を見ると、もうかれこれ二時間ちかくは経っている。
廊下をゴロゴロと配膳車が通る音が聞こえてくる。
いつ部屋が開けられるかもしれない。
このままふとんの中にいるわけにはいかない。
そっと体を起こして、ベッドから下りようとした。
と、小夜子の手がしっかりと武蔵に握られている。
無理にでも離そうかと思ったが、それでは気持ちよく眠っている武蔵を起こすことになってしまう。
いや、それよりも、夢のなかにいる小夜子を消してしまうことになる。
そしてまた、武蔵のことばをもっともっと聞いてみたいと思いもした。
「脳だ、脳が一番だ。
男、みたらいたけぞうは、脳のなかにいる。
さよこ。おまえが俺を覚えていてくれる限り、俺を愛していてくれるかぎり、俺は、男、みたらいたけぞうだ」
武蔵の、小夜子にたいする愛情があふれ出てくるようなことばだった。
普段から、「さよこが一番だ、好きだ、愛しているぞ」と口にする武蔵だ。
ともすると人前でも口にする。アメリカナイズされた武蔵の、面目躍如だ。
しかししだいに、小夜子のこころが沈んできた。
“なに? どうしたの? いくらなんでも、おかしいわ。
ほんとは起きてる? あたしをからかってる?”
いま、気づいた。顔色が、すこし土色がかっている。
部屋に入ったときには西日が強く、武蔵の顔が見えなかった。
弱々しくはあったが、はっきりとした口調の声だけだった。
それで安心してしまった。もう大丈夫、元気になる、そう思ってしまった。
「小夜子。武士だけを、愛してやってくれ。
武士に、おまえのすべての愛情をそそいでやってくれ。
他の者から甘やかしすぎだと言われても、俺の代わりにたっぷりと愛情を注いでやってくれ」
いまは武蔵の目がしっかりと開いている。
それでも小夜子を観ることはなく、天井をしっかりと見すえながら語りつづけた。
「俺は、いらん子としてこの世に産まれた。
疎ましく思われる子どもだった。けど、母親のおかげでここまで生きてこれた。
武士にはそんな思いはさせたくない。
万が一に俺が死んだら、おまえひとりになったら。
再婚してもかまわん。けど、けど、武士だけにしてくれ。
おまえの愛情は、武士だけに与えてくれ」
さいごは絞り出すような声だった、喉がからからになり、ひりついた声だった。
「じゃあ、あたし帰るね。武士も待ってるだろうし」
これ以上武蔵のそばにいては、泣きだしてしまうかもしれない。
どうにも今日の武蔵は手に負えない。あり得ないことが、小夜子に起きている。
いつもと違うのだ。いつもは小夜子が駄々をこねて、それを武蔵がなだめる。
お気に入りのソファに武蔵が腰掛けて、そのひざに小夜子がすっぽりと収まる。
そして小夜子の黒髪を武蔵が愛おしげになでながら、ことばのセレナーデをささやくのだ。
「寿司が食べたい、小夜子と一緒にたべたい」
幼児のように駄々をこねる。
そして一時間も経たぬうちに、築地の寿司店の桶がとどけられた。
旬のネタが並べられている。
「なんだなんだ、いさきがねえぞ」
とりたてて好物だというわけでもないのに不満をもらし、
「ならいらねえや。さよこ、おまえ食べろ」と、そっぽを向いた。
わかっていた、食べないであろうことは。無理難題を言ってみたいだけなのだと。
甘えてみたいだけなのだ、と。
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