昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百三十三)

2024-07-23 08:00:29 | 物語り

 時計を見ると、もうかれこれ二時間ちかくは経っている。
廊下をゴロゴロと配膳車が通る音が聞こえてくる。
いつ部屋が開けられるかもしれない。
このままふとんの中にいるわけにはいかない。
そっと体を起こして、ベッドから下りようとした。
と、小夜子の手がしっかりと武蔵に握られている。
無理にでも離そうかと思ったが、それでは気持ちよく眠っている武蔵を起こすことになってしまう。
いや、それよりも、夢のなかにいる小夜子を消してしまうことになる。
そしてまた、武蔵のことばをもっともっと聞いてみたいと思いもした。

「脳だ、脳が一番だ。
男、みたらいたけぞうは、脳のなかにいる。
さよこ。おまえが俺を覚えていてくれる限り、俺を愛していてくれるかぎり、俺は、男、みたらいたけぞうだ」
 武蔵の、小夜子にたいする愛情があふれ出てくるようなことばだった。
普段から、「さよこが一番だ、好きだ、愛しているぞ」と口にする武蔵だ。
ともすると人前でも口にする。アメリカナイズされた武蔵の、面目躍如だ。
しかししだいに、小夜子のこころが沈んできた。
“なに? どうしたの? いくらなんでも、おかしいわ。
ほんとは起きてる? あたしをからかってる?”

 いま、気づいた。顔色が、すこし土色がかっている。
部屋に入ったときには西日が強く、武蔵の顔が見えなかった。
弱々しくはあったが、はっきりとした口調の声だけだった。
それで安心してしまった。もう大丈夫、元気になる、そう思ってしまった。
「小夜子。武士だけを、愛してやってくれ。
武士に、おまえのすべての愛情をそそいでやってくれ。
他の者から甘やかしすぎだと言われても、俺の代わりにたっぷりと愛情を注いでやってくれ」

 いまは武蔵の目がしっかりと開いている。
それでも小夜子を観ることはなく、天井をしっかりと見すえながら語りつづけた。
「俺は、いらん子としてこの世に産まれた。
疎ましく思われる子どもだった。けど、母親のおかげでここまで生きてこれた。
武士にはそんな思いはさせたくない。
万が一に俺が死んだら、おまえひとりになったら。
再婚してもかまわん。けど、けど、武士だけにしてくれ。
おまえの愛情は、武士だけに与えてくれ」
さいごは絞り出すような声だった、喉がからからになり、ひりついた声だった。

「じゃあ、あたし帰るね。武士も待ってるだろうし」
 これ以上武蔵のそばにいては、泣きだしてしまうかもしれない。
どうにも今日の武蔵は手に負えない。あり得ないことが、小夜子に起きている。
いつもと違うのだ。いつもは小夜子が駄々をこねて、それを武蔵がなだめる。
お気に入りのソファに武蔵が腰掛けて、そのひざに小夜子がすっぽりと収まる。
そして小夜子の黒髪を武蔵が愛おしげになでながら、ことばのセレナーデをささやくのだ。

「寿司が食べたい、小夜子と一緒にたべたい」
 幼児のように駄々をこねる。
そして一時間も経たぬうちに、築地の寿司店の桶がとどけられた。 
旬のネタが並べられている。
「なんだなんだ、いさきがねえぞ」
 とりたてて好物だというわけでもないのに不満をもらし、
「ならいらねえや。さよこ、おまえ食べろ」と、そっぽを向いた。
わかっていた、食べないであろうことは。無理難題を言ってみたいだけなのだと。
甘えてみたいだけなのだ、と。

 



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