昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百三十)

2024-07-02 08:00:50 | 物語り

「もう良い、もういいわよ。武蔵の優しさは、あたしが一番知ってる。
武蔵がどれだけ頑張ってきたか、あたしが、よく知ってるから。
体にさわるわ、もう休みましょう」
 なんとか武蔵の興奮状態を抑えようと必死になるが、武蔵自身は興奮状態にあるわけではない。
己の死期が近づいていることを、知られたくないという思いととともに、気づいて欲しいという願いもある。
そんな相反するものが、今日の武蔵を饒舌にさせていた。
「ところがだ。小夜子に会ってから、小夜子に惚れてから、俺は変わっちまった。
トランベトがうるさく感じるときがある。いやいや嫌いになったわけじゃない。
気づいたんだよ、小夜子。大事なことを、な」 

 トーンを落として、静かに話しはじめた。
「小夜子。お前に会ってから、俺はおかしくなった。
なにかがはじけてしまい、消えちまった。
それまでの俺は、なにがなんでも成り上がってやると思ってた。
法律に触れることはしちゃいないが、スレスレはやった。
人を騙すことも、ギリギリまでやった。
うちが、富士商会がもうかればいいと、な。
トランペットだったよ、俺は。そしてそれを他の者にも求めた」
 すっかり辺りが暗くなり、一切の景色が変わった。
遠くに見えていた富士の山も見えなくなり、代わりに煌々と光るネオンサインが幅を利かせてきた。

「もう30分以上よ。そろそろあたしは帰るわね。また明日にでも来るから」
 ふとんから抜け出そうとする小夜子を、痩せ細った、熱を感じさせる手が引き留めた。
「もうトランペットじゃない。いまじゃ、信じられんことだが、ベースだ。
あの、ブンブンブンと地味な音を響かせる、腹にズシンズシンと入ってくるベースになった。
俺の意識外だった、あの図体のでかいばかりのベースが、俺の心臓をえぐるようになったんだ。
トランペットが中心だと思っていたよ、俺は。
けどな、違うんだ、だめなんだ、トランペットだけでは。
トロンボーンもいるし、クラリネットもいる。ピアノもいるしドラムもだ。
みんなが一体となって、ひとつの楽曲を完成させるんだ。
そしてその中心が、ベースなんだよ、そう思うようになった。
もう少し、もうすこし話をさせてくれ」

 武蔵が、すがるような目を小夜子に見せる。こんな弱々しい武蔵は見たことがない。
常にヒーロー然たる武蔵を見てきた小夜子には、なにか特別のことが、武蔵に起きているように感じた。
「どうしたの、武蔵。きょうはおかしいわよ」
 頭を、しっかり太い髪の毛を指でなでながら、
「大丈夫よ、だいじょうぶ。武蔵が、もういいっていうまでいるから」と、やさしく受けた。
「小夜子。俺はお前に会うために生まれてきた気がする。
小夜子という宝石を輝かせるためだけに、俺は生まれてきた気がする。
小夜子。お前は幸せだったか?」
「もちろん、もちろん幸せよ。どうしてそんなこと、聞くの? へんな武蔵」
 過去形だった。「幸せか?」ではなく「だったか?」。
なぜ、どうして過去形なのか。ただ単に言い間違えただけなのか。
感傷に浸る武蔵の、単なる感傷から出たことばだ、そう言い聞かせる小夜子だった。

 

 



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