「もう良い、もういいわよ。武蔵の優しさは、あたしが一番知ってる。
武蔵がどれだけ頑張ってきたか、あたしが、よく知ってるから。
体にさわるわ、もう休みましょう」
なんとか武蔵の興奮状態を抑えようと必死になるが、武蔵自身は興奮状態にあるわけではない。
己の死期が近づいていることを、知られたくないという思いととともに、気づいて欲しいという願いもある。
そんな相反するものが、今日の武蔵を饒舌にさせていた。
「ところがだ。小夜子に会ってから、小夜子に惚れてから、俺は変わっちまった。
トランベトがうるさく感じるときがある。いやいや嫌いになったわけじゃない。
気づいたんだよ、小夜子。大事なことを、な」
トーンを落として、静かに話しはじめた。
「小夜子。お前に会ってから、俺はおかしくなった。
なにかがはじけてしまい、消えちまった。
それまでの俺は、なにがなんでも成り上がってやると思ってた。
法律に触れることはしちゃいないが、スレスレはやった。
人を騙すことも、ギリギリまでやった。
うちが、富士商会がもうかればいいと、な。
トランペットだったよ、俺は。そしてそれを他の者にも求めた」
すっかり辺りが暗くなり、一切の景色が変わった。
遠くに見えていた富士の山も見えなくなり、代わりに煌々と光るネオンサインが幅を利かせてきた。
「もう30分以上よ。そろそろあたしは帰るわね。また明日にでも来るから」
ふとんから抜け出そうとする小夜子を、痩せ細った、熱を感じさせる手が引き留めた。
「もうトランペットじゃない。いまじゃ、信じられんことだが、ベースだ。
あの、ブンブンブンと地味な音を響かせる、腹にズシンズシンと入ってくるベースになった。
俺の意識外だった、あの図体のでかいばかりのベースが、俺の心臓をえぐるようになったんだ。
トランペットが中心だと思っていたよ、俺は。
けどな、違うんだ、だめなんだ、トランペットだけでは。
トロンボーンもいるし、クラリネットもいる。ピアノもいるしドラムもだ。
みんなが一体となって、ひとつの楽曲を完成させるんだ。
そしてその中心が、ベースなんだよ、そう思うようになった。
もう少し、もうすこし話をさせてくれ」
武蔵が、すがるような目を小夜子に見せる。こんな弱々しい武蔵は見たことがない。
常にヒーロー然たる武蔵を見てきた小夜子には、なにか特別のことが、武蔵に起きているように感じた。
「どうしたの、武蔵。きょうはおかしいわよ」
頭を、しっかり太い髪の毛を指でなでながら、
「大丈夫よ、だいじょうぶ。武蔵が、もういいっていうまでいるから」と、やさしく受けた。
「小夜子。俺はお前に会うために生まれてきた気がする。
小夜子という宝石を輝かせるためだけに、俺は生まれてきた気がする。
小夜子。お前は幸せだったか?」
「もちろん、もちろん幸せよ。どうしてそんなこと、聞くの? へんな武蔵」
過去形だった。「幸せか?」ではなく「だったか?」。
なぜ、どうして過去形なのか。ただ単に言い間違えただけなのか。
感傷に浸る武蔵の、単なる感傷から出たことばだ、そう言い聞かせる小夜子だった。
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