20日(水)。昨日は朝一で都立0病院に検診に行ってきました 昨年5月末に都立0病院で前立腺生検を受け、前立腺癌はなかったと診断されましたが、その後、半年後検診ということで同年11月に経過をみるため再び受診しました 今回はその1年後検診という位置づけにあります 今回の検査結果は、PSA(前立腺特異抗原:前立腺に特異のたんぱく質)の濃度が4.8と正常値より高めであるが、1年前と同じで安定しているので様子を見ることとし、また1年後に検査をすることになりました 医師に「高値安定ですが大丈夫ですか?」と訊くと、「そうですね。これが数値が上がると話は別ですが」という答えでした 今後1年間様子を見るしかありません
ということで、わが家に来てから今日で3599日目を迎え、米ブルームバーグ通信は17日、トランプ次期大統領が自動運転の規制緩和を検討していると報道したが、大統領選でトランプ氏を支援した電気自動車大手テスラのイーロン・マスク最高責任者が求めていた措置で、テスラの株価は上昇している というニュースを見て感想を述べるモコタロです
トランプのやりたい放題人事の次は 大統領選貢献者への成功報酬のばら撒き措置か
昨日、夕食に「エノキダケの豚肉巻き焼き」「生野菜サラダ」「舞茸の味噌汁」を作りました 今回はエノキダケを巻きましたが、野菜なら何でもいいみたいです
詩人の谷川俊太郎さんが13日、老衰のため死去しました。享年92歳でした つい先日の朝日新聞の紙面に谷川さんの詩が突然掲載されたので「おやっ?」と思いました その時、朝日は谷川さんの死の情報を持っていたのでしょう 昨日の朝日夕刊の第1面に編集委員・吉田純子さんによる追悼記事が掲載されていますが、過去のインタビューの思い出の中に、「モーツアルトの、僕が大好きな数小節に匹敵する詩が書けたら死んでもいい」「言葉は、どうやっても音楽にはかなわない。僕はきっと死ぬまで音楽に嫉妬し、片思いし続けるのだと思う」という言葉があります これを読んで思い出したのは谷川俊太郎詩集「モーツアルトを聴く人」(小学館文庫)です 同書の中で、谷川さんはモーツアルトの2つのロンド(ニ長調K.485とイ短調K.511)について書いています この本については感想を2022年1月17日付toraブログに書きましたので、興味のある方はご覧ください
昨夜、サントリーホールで東京フィル「第1009回サントリー定期シリーズ」を聴きました プログラムはマーラー「交響曲第7番 ホ短調 ”夜の歌”」です 指揮は東京フィル首席指揮者アンドレア・バッティストーニです 彼にとって人生で初めて振るマーラー「第7番」とのことで、東京フィルの定期演奏会としても、2002年10月の第666回以来、22年ぶりの演奏ということです
この曲はグスタフ・マーラー(1860-1911)が1904年から05年にかけて作曲、1908年9月19日にマーラー指揮チェコ・フィルによりプラハで初演されました 第1楽章「ゆるやかに ~ アレグロ・リソルート、マ・ノン・トロッポ」、第2楽章「夜の歌Ⅰ:アレグロ・モデラート」、第3楽章「スケルツォ:影のように」、第4楽章「夜の歌Ⅱ:アンダンテ・アモローソ」、第5楽章「ロンド ~ フィナーレ:アレグロ・オルディナリオ」の5楽章から成ります
オケは14型で、左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスといういつもの東京フィルの並び。コンマスは近藤薫です
バッティストーニの指揮で第1楽章に入ります 冒頭のテナーホルンが、この曲の幕開けに相応しい素晴らしい演奏を展開します その後は勇ましい音楽が繰り広げられますが、相変わらずバッティストーニは指揮台の上でジャンプしたりして元気溌剌です 彼のエネルギーを感じるがごとく金管楽器を中心にオケのメンバーもアグレッシブな演奏を展開します この楽章の楽天的とでも言うべき演奏を聴きながら、思うところがありました
玉川大学芸術学部教授の野本由紀夫氏がプログラム・ノートに「第1~4楽章が陰鬱な音楽なのに対し、第5楽章はそれまでの苦労を水泡に帰するかのごとく、まるで能天気な明るい音楽になってしまう。これが聴衆を戸惑わせてきた」と書いています
一方、バッティストーニはプログラム冊子に寄せた「特別寄稿」の中で、この曲について「多くの批評家が、ここまで続いてきた洗練と高尚さの後の、このフィナーレの厚かましさを指摘している だが私はこのフィナーレに違和感は全く覚えず、むしろ非常に刺激的であり、1人の作曲家の並外れた感受性の中を巡る奇妙な旅路の、意表を突いた終結に相応しいと感じる 彼はこの交響曲で世界を、もはや叙事詩的な旅ではなく、熱情と偶然と予測不可能性に満ちた人形芝居の劇場として描いているように思われる」と書いています
一般的な捉え方を代表する野本氏の考えに対するバッティストーニの反論的な主張を読んで、私は「バッティストーニは第1~4楽章を『陰鬱な音楽』だとは考えていない。むしろ第5楽章と同じように『非常に刺激的』な音楽と捉えている。だからそれが分かるように第1楽章から『熱情と偶然と予測不可能性に満ちた人形芝居の劇場として』演奏しているのではないか」と思いました これは実際に第2楽章以降の演奏を聴いた時も感じました
第2楽章はホルンの独奏から開始されますが、高橋臣宣の演奏が素晴らしい この後も、何度かソロを吹くシーンが数多くありますが、息の長い旋律を含めて抜群の安定感で素晴らしい演奏を繰り広げました 第3楽章のスケルツォはグロテスクな雰囲気が存分に醸し出された演奏でした 第4楽章はセレナーデというタイトルが相応しい音楽で、ギターとマンドリンも加わります ただ、100人規模のフル・オーケストラの中ではアンプでも使用しない限り音が埋もれてしまいます 今回も音として聴こえたのはほんの短い時間でした 指揮者によっては、ギターとマンドリン奏者を指揮者の近くに控えさせて、視覚に訴えて音が聴こえるかのように錯覚させるクレバーな人もいますが、バッティストーニはそういう気は全くないようです 人生いろいろ♬ 指揮者もいろいろ♫です
そして、問題の第5楽章「ロンド・フィナーレ」です バッティストーニは第1楽章の段階から、第5楽章のコンセプトで演奏してきたので違和感なく受け止めることが出来ました ほとんどドンチャン騒ぎの様相を呈したイケイケドンドンの世界で、クラリネットやホルンは時にベルアップ奏法を見せ、打楽器が炸裂し、弦楽器が切れ味鋭い演奏を繰り広げ、バッティストーニは再び指揮台の上でジャンプしました 東京フィル総力戦のフィナーレは圧巻でした
バッティストーニ ✕ 東京フィルらしいエネルギッシュな演奏に、満場の拍手とブラボーが飛び交いカーテンコールが繰り返されました
今日は新国立劇場「オペラパレス」にロッシーニのオペラ「ウィリアム・テル」を観に行きます 予定上演時間は、2回の休憩を含めて4時間35分とのこと 腰痛持ちには最長最悪です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます