創作 あの頃の自分 12)

2024年09月06日 00時46分33秒 | 創作欄

タイピストの岡村美登里が、取材記者の山崎瑞奈に反目する。

あの時代は、取材した記事をまとめ、電話で送稿することもあった。

勇作が勤務する企業では週刊新聞と日刊通信を発行していて、瑞奈は、当時の厚生省で記者会見をした中ピ連の記事を記者クラブから電話で送くろうとていた。

ところが、電話を受けた美登里は、「社内に戻って記事にしたら」と言うのだ。

「それでは、2時の締め切りに間に合わないわ」瑞奈は口を尖らせる。

「明日でも、いんじゃないの。そんな特ダネなの」と美登里は言うと電話を一方的に切ったのだ。

電話をかけ直した瑞奈は、社内に居た勇作に電話で記事を送稿する。

だが、その記事をタイプに打つことを美登里は拒絶したのだ。

仕方なく勇作は、もう一人のタイピストに、印字をお願いすることとなった。

もう一人のタイピストの大木友恵は、勇作の先輩でさる水島翔太と恋愛関係にあったので引く受けてくれた。

その後、瑞奈と美登里の女同士のこれまでにない反目は、社内に少なからず影響を及ぼす発端となる。

 

中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)とは、1970年代前半に活動した日本のウーマンリブ団体である。中ピ連(ちゅうピれん)の略称で知られた

代表は元薬事評論家の榎美沙子

新左翼のものを模した、♀印のついたピンク色ヘルメットと過激な活動内容でマスメディアを賑わせたが、だんだんと活動が下火になって解散となった

沿革

1972年昭和47年)6月18日結成

当時日本では、経口避妊薬(ピル)が薬事法で規制され、厚生省医療用医薬品に認められていなかったので、これを女性への抑圧と解釈することにより、ピルの販売自由化要求運動を展開した

1974年(昭和49年)から、有志で下部組織「女を泣き寝入りさせない会」を結成し、家庭内暴力を振るう夫などの職場にマスコミを連れてデモ活動に出かけるという抗議活動を行った

人工妊娠中絶の制限を主張し、国会優生保護法[注 1]改正を提案していた自由民主党参議院議員玉置和郎と当時その秘書だった村上正邦(後に自民党参議院議員)に対し「優生保護法改悪反対運動」として、街頭で玉置・村上を取り囲んで、もみくちゃにしたり、玉置・村上の自宅や、参議院議員会館に押しかけたりした

その後、マスコミを利用する派手な活動形態や、政党・宗教団体の結成など実現可能性の低いアイディアを提案して、それがうまくいかないことに反発を覚える会員が増加し、だんだんと活動が下火になっていった

榎はその後中ピ連を母体とし、中ピ連の活動精神を継承する形で「日本女性党」を結党。

「内閣はすべて女性とする」「公務員はすべて女性とし、男性は臨時職員かアルバイトとする」など、女性主義的な政策を掲げた。

そして1977年(昭和52年)6月の第11回参議院選挙で、地方区全国区に10名の候補者を擁立して確認団体として国政の場への進出を図った。

結果は全候補者が落選、それも全員が有効投票総数に対して一定の得票数に達せず、供託金没収となった。

中ピ連と日本女性党は2日後に解散した。


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