クリスマス第二日を迎えています。今日もアイスランドでは祝日です。日本ではすでに年末とお正月モードに切り替わっていることでしょうが、以前書きましたように、こちらではクリスマスは一月の六日まで。ご理解あれ!
クリスマスの挨拶は「Gledileg jol」(グレイリヨール)。英語になおすとDelightful Christmas, という感じでしょうか? 「喜びのあるクリスマスを」ということで、Merry Christmasとは少しニュアンスが違う気がします。
ちょっと真面目な話しになりますが、クリスマスはキリスト教の大切な祭日であり、もちろん根底には単なるサンタクロースやクリスマスギフト、あるいは色とりどりのネオン飾り以上の意味があります。
楽しくロマンチックなクリスマスもいいのですが、その雰囲気を味わえる人はやはり限られているのではないでしょうか?
私たちの誰もが知っていることですが、楽しいクリスマスのBGMの届かないところもあります。シリアの内戦は続いています。フィリピンではハリケーンの大被害で家も財産も無くした人が多くいます。コネティカットの犠牲者の家族の人たちも同じクリスマスの時期を生きています。
身近なところを見ても、ホームレスの人や闘病生活を続けている人、事故や病気で近親者を亡くした人、その他心が滅入るような状況にある人は大勢いることでしょう。
実際、私がこちらで家族の付き合いをしてきた女性の方のお母さんが、おとといのイブの日のお昼に亡くなりました。ご高齢ではあったのですが、急なことでその女性の方もショックだったようですし、「特にこの時期にはつらい」と言っていました。
そのような悲しみやあるいは他の苦しみの只中にいる人に向かって「メリークリスマス」はなかなか気後れして言えない気がします。「それどこじゃないだろ!」と一喝されてしまいそうな。
しかしです。本当は「グレイリヨール」はそういう状況にある人たちのための言葉なんです。もともとクリスマスはイエス ・キリストの誕生を感謝する祭儀です。そしてそのキリストが世に来られた理由は、この世にあって様々な悪癖や、不遇、社会によって負わせられた不正義等々から人を解き放すためでありました。決して世で既にはぶりのいい人たちにさらなるエンターテイメントの機会を与えるためではありません。
「グレイリヨール」という挨拶は「クリスマスは楽しいねえ」という挨拶ではありません。もしそうであれば、それは楽しいクリスマスをエンジョイしている人たちの間での挨拶にしかなりえないでしょう。
「グレイリヨール」という挨拶は「神があなたにクリスマスの喜びを与えてくれますように」ということを意味します。そしてその挨拶の中には、私たちがクリスマスを楽しめないような状況にある人たちのことを忘れてはいないこと、クリスマスの喜びがその人達まで届くことを願っていること、そして神が必ずそのようにして下さるということへの信頼が含まれているのです。
ですから世の現実の中で悲しんでいる人、嘆いている人、うずくまっている人に対しても「グレイリヨール」は場違いではありません。それどころかそういう人たちのもとから「グレイリヨール」は始まっているのです。
そういう意味で、改めて「グレイリヨール」をレイキャビクから。
クリスマスの挨拶は「Gledileg jol」(グレイリヨール)。英語になおすとDelightful Christmas, という感じでしょうか? 「喜びのあるクリスマスを」ということで、Merry Christmasとは少しニュアンスが違う気がします。
ちょっと真面目な話しになりますが、クリスマスはキリスト教の大切な祭日であり、もちろん根底には単なるサンタクロースやクリスマスギフト、あるいは色とりどりのネオン飾り以上の意味があります。
楽しくロマンチックなクリスマスもいいのですが、その雰囲気を味わえる人はやはり限られているのではないでしょうか?
私たちの誰もが知っていることですが、楽しいクリスマスのBGMの届かないところもあります。シリアの内戦は続いています。フィリピンではハリケーンの大被害で家も財産も無くした人が多くいます。コネティカットの犠牲者の家族の人たちも同じクリスマスの時期を生きています。
身近なところを見ても、ホームレスの人や闘病生活を続けている人、事故や病気で近親者を亡くした人、その他心が滅入るような状況にある人は大勢いることでしょう。
実際、私がこちらで家族の付き合いをしてきた女性の方のお母さんが、おとといのイブの日のお昼に亡くなりました。ご高齢ではあったのですが、急なことでその女性の方もショックだったようですし、「特にこの時期にはつらい」と言っていました。
そのような悲しみやあるいは他の苦しみの只中にいる人に向かって「メリークリスマス」はなかなか気後れして言えない気がします。「それどこじゃないだろ!」と一喝されてしまいそうな。
しかしです。本当は「グレイリヨール」はそういう状況にある人たちのための言葉なんです。もともとクリスマスはイエス ・キリストの誕生を感謝する祭儀です。そしてそのキリストが世に来られた理由は、この世にあって様々な悪癖や、不遇、社会によって負わせられた不正義等々から人を解き放すためでありました。決して世で既にはぶりのいい人たちにさらなるエンターテイメントの機会を与えるためではありません。
「グレイリヨール」という挨拶は「クリスマスは楽しいねえ」という挨拶ではありません。もしそうであれば、それは楽しいクリスマスをエンジョイしている人たちの間での挨拶にしかなりえないでしょう。
「グレイリヨール」という挨拶は「神があなたにクリスマスの喜びを与えてくれますように」ということを意味します。そしてその挨拶の中には、私たちがクリスマスを楽しめないような状況にある人たちのことを忘れてはいないこと、クリスマスの喜びがその人達まで届くことを願っていること、そして神が必ずそのようにして下さるということへの信頼が含まれているのです。
ですから世の現実の中で悲しんでいる人、嘆いている人、うずくまっている人に対しても「グレイリヨール」は場違いではありません。それどころかそういう人たちのもとから「グレイリヨール」は始まっているのです。
そういう意味で、改めて「グレイリヨール」をレイキャビクから。