荒天ばかりが頭に残る二月が去り、三月に入りました。ようやく天気は落ち付きを取り戻し、先週一週間は平和そのもの、またこれからの一週間も大丈夫なようです。ありがたや。
それにしても、この間クリスマスと新年を祝ったばかりなのに、お店にはすでに「パスカエッグ」が山のように積まれています。
「パスカエッグ」というのは、復活祭の時に子供たちが欲しがるチョコレートでできた「タマゴ」です。イースターエッグそのものは、キリスト教文化圏ではかなり共通のものなのでしょうが、アイスランドではそれがチョコレートと結びついています。これがどのくらい「世界的」なものであるのかは、ちょっと確かではありません。
パスカエッグについてはこちらも
さて、皆さんは毎日の生活の中でどのくらい「頭にくる」ことがあるでしょうか?な〜んて、日本で仕事をしている人に尋ねるのは嫌味に受け取られかねないですね。
日本の、特に職場でのストレスはハンパないですよね。私が新橋でサラリーマンをしていたのは、すでに三十年以上前のことですから、今では随分と職場環境も変わってきていることでしょう。
私の場合は「中小」に分類される職場でしたので、それほどギラギラした戦場ではなかったのですが、それでも「ワケのわからない上司の命令」とか「スジの通らない先輩の文句」みたいなものによるストレスは相当なものがありました。
幸い、直接顧客に何かを売る、とかいう分野ではなかったので、「お客様は神様です」という前提で接してくる人とは関わらずにすみました。
今では職場のあり方は相当変わってきているのでしょうが、それでもテレビやドラマを観ていると、「ストレス」そのものは相変わらずかなりシンドイものであり続けているように思われます。違いますか?
アイスランドでは、職場のストレス度は日本ほどではないだろうと感じてきました。こちらでは日本ほどの「上長を敬う」しきたりはありませんので、その点でのストレスは軽いですし(その分、生意気な若造からくるストレスはあります)。
また、自分の意見は自分の意見としてはっきり言う文化ですので、その点でも「言いたいことを言えずに〜〜〜...」ということもありません。ある意味、発散しやすい職場環境、といってもいいのではないでしょう。
Myndin er ur Mangatop.info
ところがです。最近、やたらと頭にきていることが多い自分に気がつきました。どんなことに頭にきているかと考えました。単純なものをいくつか挙げてみましょう。
他人のクレジットをあたかも自分の業績のように語る奴。私が礼儀で分けてあげている情報を、自分で取ってきたかのようにマスコミに話したりFacebookにアップする人がいるのです。自尊心のない輩。そんなにLikeが欲しいか?
夜十一時を過ぎた頃になって、難しい悩みのメッセージを送ってくる奴。こっちだって寝る前くらいはリラックしたいのだ。なぜ、その時間に送ってくるかね?
加えて、どうしようもない「助けて!」メッセージを繰り返し、繰り返し送ってくる奴。定期的に顔を合わせて話しを聞いているにも関わらず、ただ自分が安心するためにだけやってるんだよねー。
「悩みがあるので会って相談したい」というから、時間を決めて待っていると来ない奴。電話しても通話中ばかり。後から「今日は行かなかったけど(「行けなかった」ではありません)、明日でいい?」とかメッセージ寄こして。「今日はすみませんでした」の一言もなし。当然却下。
実際にはもう少し深刻な内容なものもあるのですが、それは省略しますが、他にもかなり「頭にくる」ことが多いような気がしたのです。
で、なぜだろう?と再び考えたわけです。今挙げたようなことは、別に昔からいつもあったことですし、ことさら今だけ頭にくる必要もないではないか?自分でもそういう冷めている部分はあるのです。
さてはこれも「老化現象」か?うーん、タシカニ〜。
医者や裁判官などを代表として、世の中にはわりと「周囲を従える」性格の職業というものがありますよね。政治家もそうでしょうし、大学教授、あるいは普通に高い地位にいるビジネスマンもそうでしょう。
こういうポジションにある人たちに共通の危険は、「なんでも自分の思い通りになるんもんだ」という態度が知らぬうちに身についてしまうことでしょう。もちろん、皆がそうなるわけではありませんよ。
それでも、例えば、私は知っているお医者さん連中の中に、かなりその手の振る舞いをする人がいるのを見てきました。ああはなりたくない、と思いました。
牧師さんなんていうのはそこまで世間の尊敬を勝ち得る地位ではないのですが、それでもごく小さなグループの中で、絶対的な支配権を手にすることもあります。「ちいちゃな王様」になるわけです。
私なんざ、そういう「地位」にはほとほと無縁だったはずなのですが、しかし、考えてみると、三年前に始めた難民の人たちを中心にした集いが、今では成長し、安定化してきました。そのグループの中では、相当数の人が私に対して敬意を持って接してくれています。
もしかしたら、自分がそういうのに慣れてきて、多少尊大な態度になっているのではないか?と考えてみました。そうですねえ...ちょっとズボシかも。
悩みを持っている人が、多少礼儀を欠いているからといってそんなにカリカリしていたら、牧師なんかやってらんないでしょう?大体、人間を不完全なものとして見るのが牧師の基本的な立場だし。多少遅くにメッセージしてきても、悩みがあるのに何も言ってこないよりははるかにマシなはずです。
Serenity Prayer eftir Reinhold Niebuhr
Myndin er ur BibleInfo.com
ラインホルト·ニーバーという有名な神学者がいたのですが、その人が編んだ祈りのひとつにSerenity Prayer「沈着の祈り」というものがあります。
「神よ、 変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、 両者を識別する知恵を与えたまえ。」(出典:ウィキペディア:一部改変)
「コントールできないことをコントロールしようとすること」は、私たちの冷静さを奪い、頭に血を昇らせることの代表格でしょう。そしてそこには「誰もが自分の望み通りに動くと期待すること」も含まれると思います。
自分は「秩序の一部であり」「秩序の支配者ではない」ということを日常生活の中でこそ覚えておきたいものです。
いやいや、忘れていたのは皆さんではなく、このワタシですからね。これはまずもって自分に言わなくては。
「ちいちゃな王様」どころか、やはりワタシはまだ「門前の小僧」なのでした。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
それにしても、この間クリスマスと新年を祝ったばかりなのに、お店にはすでに「パスカエッグ」が山のように積まれています。
「パスカエッグ」というのは、復活祭の時に子供たちが欲しがるチョコレートでできた「タマゴ」です。イースターエッグそのものは、キリスト教文化圏ではかなり共通のものなのでしょうが、アイスランドではそれがチョコレートと結びついています。これがどのくらい「世界的」なものであるのかは、ちょっと確かではありません。
パスカエッグについてはこちらも
さて、皆さんは毎日の生活の中でどのくらい「頭にくる」ことがあるでしょうか?な〜んて、日本で仕事をしている人に尋ねるのは嫌味に受け取られかねないですね。
日本の、特に職場でのストレスはハンパないですよね。私が新橋でサラリーマンをしていたのは、すでに三十年以上前のことですから、今では随分と職場環境も変わってきていることでしょう。
私の場合は「中小」に分類される職場でしたので、それほどギラギラした戦場ではなかったのですが、それでも「ワケのわからない上司の命令」とか「スジの通らない先輩の文句」みたいなものによるストレスは相当なものがありました。
幸い、直接顧客に何かを売る、とかいう分野ではなかったので、「お客様は神様です」という前提で接してくる人とは関わらずにすみました。
今では職場のあり方は相当変わってきているのでしょうが、それでもテレビやドラマを観ていると、「ストレス」そのものは相変わらずかなりシンドイものであり続けているように思われます。違いますか?
アイスランドでは、職場のストレス度は日本ほどではないだろうと感じてきました。こちらでは日本ほどの「上長を敬う」しきたりはありませんので、その点でのストレスは軽いですし(その分、生意気な若造からくるストレスはあります)。
また、自分の意見は自分の意見としてはっきり言う文化ですので、その点でも「言いたいことを言えずに〜〜〜...」ということもありません。ある意味、発散しやすい職場環境、といってもいいのではないでしょう。
Myndin er ur Mangatop.info
ところがです。最近、やたらと頭にきていることが多い自分に気がつきました。どんなことに頭にきているかと考えました。単純なものをいくつか挙げてみましょう。
他人のクレジットをあたかも自分の業績のように語る奴。私が礼儀で分けてあげている情報を、自分で取ってきたかのようにマスコミに話したりFacebookにアップする人がいるのです。自尊心のない輩。そんなにLikeが欲しいか?
夜十一時を過ぎた頃になって、難しい悩みのメッセージを送ってくる奴。こっちだって寝る前くらいはリラックしたいのだ。なぜ、その時間に送ってくるかね?
加えて、どうしようもない「助けて!」メッセージを繰り返し、繰り返し送ってくる奴。定期的に顔を合わせて話しを聞いているにも関わらず、ただ自分が安心するためにだけやってるんだよねー。
「悩みがあるので会って相談したい」というから、時間を決めて待っていると来ない奴。電話しても通話中ばかり。後から「今日は行かなかったけど(「行けなかった」ではありません)、明日でいい?」とかメッセージ寄こして。「今日はすみませんでした」の一言もなし。当然却下。
実際にはもう少し深刻な内容なものもあるのですが、それは省略しますが、他にもかなり「頭にくる」ことが多いような気がしたのです。
で、なぜだろう?と再び考えたわけです。今挙げたようなことは、別に昔からいつもあったことですし、ことさら今だけ頭にくる必要もないではないか?自分でもそういう冷めている部分はあるのです。
さてはこれも「老化現象」か?うーん、タシカニ〜。
医者や裁判官などを代表として、世の中にはわりと「周囲を従える」性格の職業というものがありますよね。政治家もそうでしょうし、大学教授、あるいは普通に高い地位にいるビジネスマンもそうでしょう。
こういうポジションにある人たちに共通の危険は、「なんでも自分の思い通りになるんもんだ」という態度が知らぬうちに身についてしまうことでしょう。もちろん、皆がそうなるわけではありませんよ。
それでも、例えば、私は知っているお医者さん連中の中に、かなりその手の振る舞いをする人がいるのを見てきました。ああはなりたくない、と思いました。
牧師さんなんていうのはそこまで世間の尊敬を勝ち得る地位ではないのですが、それでもごく小さなグループの中で、絶対的な支配権を手にすることもあります。「ちいちゃな王様」になるわけです。
私なんざ、そういう「地位」にはほとほと無縁だったはずなのですが、しかし、考えてみると、三年前に始めた難民の人たちを中心にした集いが、今では成長し、安定化してきました。そのグループの中では、相当数の人が私に対して敬意を持って接してくれています。
もしかしたら、自分がそういうのに慣れてきて、多少尊大な態度になっているのではないか?と考えてみました。そうですねえ...ちょっとズボシかも。
悩みを持っている人が、多少礼儀を欠いているからといってそんなにカリカリしていたら、牧師なんかやってらんないでしょう?大体、人間を不完全なものとして見るのが牧師の基本的な立場だし。多少遅くにメッセージしてきても、悩みがあるのに何も言ってこないよりははるかにマシなはずです。
Serenity Prayer eftir Reinhold Niebuhr
Myndin er ur BibleInfo.com
ラインホルト·ニーバーという有名な神学者がいたのですが、その人が編んだ祈りのひとつにSerenity Prayer「沈着の祈り」というものがあります。
「神よ、 変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、 両者を識別する知恵を与えたまえ。」(出典:ウィキペディア:一部改変)
「コントールできないことをコントロールしようとすること」は、私たちの冷静さを奪い、頭に血を昇らせることの代表格でしょう。そしてそこには「誰もが自分の望み通りに動くと期待すること」も含まれると思います。
自分は「秩序の一部であり」「秩序の支配者ではない」ということを日常生活の中でこそ覚えておきたいものです。
いやいや、忘れていたのは皆さんではなく、このワタシですからね。これはまずもって自分に言わなくては。
「ちいちゃな王様」どころか、やはりワタシはまだ「門前の小僧」なのでした。
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