結城の埋蔵金
結城には埋蔵金が今も眠っているらしい。
大正6年(1918)結城藩主の子孫で水野直(なおし)という人が一年間も城跡の周りを掘りまくり、見物人目当ての屋台まで出たという。
八代将軍吉宗は、大岡越前守に命じて埋蔵金を探させたが、見つからなかった。
幕末には阿部正弘が結城市小塙で発掘を試みたが失敗。
この埋蔵金とはどのようなものか?
結城家の初代結城朝光という武将が、源頼朝の奥州征伐に従軍した際、褒美として入手した平泉の黄金ということだ。
重さ8kgの金の延べ棒 5000本余り
30㎏の砂金の樽 100個以上
時価1兆円という代物らしい。
埋蔵したのは、慶長19年(1614)81歳で亡くなった結城晴朝。
結城家に養子に入った家康の次男秀康は、すぐさま家老に命じて探させたが出てこない。(そのせいでもないだろうが)旧姓に戻って福井の殿様になってしまった。
結城市の金光寺は、金を埋蔵した結城晴朝の創建とされる寺であるが、その山門の柱に埋蔵場所のヒントとなる短歌が彫られている。
きの 荢 かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね
こふように ふれてからまる かきつばた つゆのなごりは すへの世までも
あやめさく 水にうつろうかきつばた いろはかわらぬ 花のさくまで
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