宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「落水荘」

2007年08月26日 | Weblog
フランク・ロイド・ライト

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1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって
地に落ちた名声とほとんど来ない設計依頼という危機的状況であった。
依然妻は離婚には応じていなかったが、ライトはチェニー夫人との
新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプ
リング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めた。

その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを
更なる事件が襲った。
タリアセンの使用人が突如発狂し建物に放火した上、チェニー
夫人と2人の子供、及び弟子達を惨殺したのである。
現場に出ていたライトは難を逃れたが大きな痛手を受け、更には
再びスキャンダルの渦中の人となった。

そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテルの仕事であった。
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こちらではあまり詳しく書かれていませんが、彼は基本的に自由
主義者であり、また建築に天才的なひらめきを持っている反面、
非常に金銭感覚に乏しい人だったそうです。

またその殺人事件ですが、実際は彼がシカゴに行っている間、
黒人の執事が皆への食事の提供中にチェニー夫人と子供二人を斧で
殺害し、その直後に別の部屋で食事をしている数人の弟子や大工の
部屋の窓などを外から錠をして開けられなくなったのを確認して後、
床にガソリンを流して火を放ち、火傷を負って無理に脱出しようと
した弟子達を斧で殺害したそうですが、二人は何とか逃げる
事が出来たそうです。

この執事の妻はただ怯えて逃げてしまい、邸宅の半分近くが
焼失してしまったそうです。
人々は犯人の執事を捕まえようと探し、地下室のボイラーの中に
執事を見つけたそうですが、彼は予め購入しておいた酸を
飲んで、数週間後に息絶えたそうです。

この事件はずっと昔の事ですが、この州の殺人事件における、
一度に起こした殺人数の最高人数記録(7人)となっているそうです。
またこれはわたくしの憶測に過ぎませんが、キリスト教会の権威が
現在とは比較にならないほど強かった当時、「この事件は天罰である」
とかいった類の噂話が後を絶たなかったのでは、と思います。

更にこの執事の心理的動機についても解明されていませんが、
この執事はフランクに対しては特別に好意を抱いていたようで、
彼の留守中を狙ったのも、黒人に対する差別が根強くあった当時、
彼以外の一般の白人に対する鬱憤であったというような推測も
あります。



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