宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

妖精の国の門は……

2007年08月17日 | Weblog
(画像はクリックされましたら拡大します。)

先日掲載させて頂きました某妖精本にこうした事が
書かれています。
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「あなたは自分自身を粗末にしていませんか?

私の所には、時々読者から"死にたい"という手紙が
届いて、とっても悲しく思ったりしています。
そこで死ねばいいんじゃない、とつっぱねるわけにも
いかないので、一度死んだフリをして生きている事の
素晴らしさを確かめる方法を御教えします。

まず布団を敷いて、その上にまっすぐ横になります。
そして手足を動かさず、寝返りもうたず、ただ黙って
目をつぶり、じっとしています。
始めの一時間ぐらいは何とか我慢出来ますが、だんだん
寝返りをうちたくなったりしてくるでしょう。
(中略)

だから、辛い事があるとスグ死にたくなってしまう弱虫
さんは、一度この仮死の方法で徹底的に死と対面して
御覧なさい。
そうすれば自分を粗末にする事が、どんなに愚かな事か
確認出来るでしょう。」
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この本のシリーズは小学生から高校生ぐらいまでの女子
学生を対象としていたので、"死にたい"という相談を
持ちかけたと言っても、生きる事に徹底的に絶望したとか、
社会的な責任による心理的重圧によるといったものではなく、
「危険な十七歳」といったそういった精神状態からの
ものであったのでは、と思われました。

現在は「頑張らなくていい」とか「今のあなたのままで
いい」という言葉が安易に使用されていますが、「自分を
粗末にするな」という言葉は昔は聞きましたが、現在はあまり
聞かなくなったように思います。

個人的には「頑張らなくていい」という信条が「スピリ
チュアル」であると言われてもあまり共感出来ず、それが
「癒し、気づき」などと言われても、ただの傷の舐め合いに
なっているような場合さえあるように感じます。
そしてそれらと「自分を粗末にしない」という事はまた
別物であるように思いますし、「自分を粗末にしない」と
いう事から何かに気づく事の方が本当の「気づき」ではないかと
思ったりしました。

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