「仏説庄厳菩提心経」の経文の一部でも
読経したり 写経したり
聴いたり 他者に教える事で
阿耨多羅三藐三菩提において不退転となり
常に諸仏を目の当たりするに至るなどの功徳が得られるとされます。
以下 「仏説庄厳菩提心経」の一部です。
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「時会中有菩薩(じえちゅううぼさつ)
名思無量義(みょうしむりょうぎ)
即従坐起整衣服(そくじゅうざきせいいふく)
偏袒右肩(へんたんうけん)
右膝著地(うしつちゃくち)
以種種宝華而散仏上(じしゅじゅほうけじさんぶつじょう)
散仏上已合掌白仏言(さんぶつじょういがっしょうびゃくぶつごん)
世尊(せそん)
欲有所問(よくゆうしょもん)
唯願世尊(ゆいがんせそん)
哀愍聴許(あいみんちょうきょ)
仏告思無(ぶっこくしむ)
量義菩薩(りょうぎぼさつ)
恣汝所問(しじょしょもん)
思無量義菩薩白仏言(しむりょうぎぼさつびゃくぶつごん)
世尊(せそん)
云何菩薩修菩提心(うんかぼさつしゅうぼだいしん)
何者是菩提心(かじゃぜぼだいしん)
仏告思無量義菩薩(ぶっこくしむりょうぎぼさつ)
菩薩修菩提心者(ぼさつしゅうぼだいしんじゃ)
非於衆生(ひおしゅじょう)
菩提心者不可得(ぼだいしんじゃふかとく)
此心非色非見(ししんひしきひけん)
法亦無有得者(ほうえきむうとくじゃ)
何以故(かじこ)
衆生空故(しゅじょうくうこ)
思無量義菩薩白仏言(しむりょうぎぼさつびゃくぶつごん)
世尊(せそん)
法相如是甚深(ほうそうにょぜじんじん)
菩薩当云何修行(ぼさつとううんかしゅぎょう)
仏告思無量義菩薩(ぶっこくしむりょうぎぼさつ)
善男子(ぜんなんし)
菩提心者(ぼだいしんじゃ)
非有非造離於文字(ひうひぞうりおもじ)
菩提即是心(ぼだいそくぜしん)
心即是衆生(しんそくぜしゅじょう)
若能如是解(じゃくのうにょぜかい)
是名菩薩修菩提心(ぜみょうぼさつしゅうぼだいしん)
菩提非過去未来現在(ぼだいひかこみらいげんざい)
如是心衆生(にょぜしんしゅじょう)
亦非過去未来現在(えきひかこみらいげんざい)
能如是解名為菩薩(のうにょぜげみょういぼさつ)
然於是中実無所得(ぜんおぜちゅうじつむしょとく)
以無所得故得(じむしょとくことく)
若於一切法無所得(じゃくおいっさいほうむしょとく)
是名得菩提(ぜみょうとくぼだい)
為始行衆生故説有菩提(いしぎょうしゅじょうこせつうぼだい)
如阿羅漢取証(にょあらかんしゅしょう)
於法無所得(おほうむしょとく)
以世俗言辞故説有菩提(じせぞくごんじこせつうぼだい)
然菩提実不可得(ぜんぼだいじつふかとく)
若於一切法無所得(じゃくおいっさいほうむしょとく)
是名得菩提(ぜみょうとくぼだい)
然於是中亦無有心(ぜんおぜちゅうえきむうしん)
亦無造心者(えきむぞうしんじゃ)
亦無有菩提(えきむうぼだい)
亦無造菩提者(えきむぞうぼだいじゃ)
亦無有衆生(えきむうしゅじょう)
亦無造衆生者(えきむぞうしゅじょうじゃ)
亦無有声聞(えきむうしょうもん)
亦無発声聞者((えきむほっしょうもんじゃ)
亦無辟支仏(えきむへきしぶつ)
亦無発辟支仏者(えきむほつへきしぶつじゃ)
亦無有菩薩(えきむうぼさつ)
亦無発菩薩者(えきむほつぼさつじゃ)
亦無有仏(えきむうぶつ)
亦無成仏者(えきむじょうぶつじゃ)
亦無有為(えきむうい)
亦無造有為者(えきむぞうういじゃ)
亦無無為(えきむむい)
亦無造無為者(えきむぞうむいじゃ)
是中已得今得当(ぜちゅういとくこんとくとう)
得皆不可得(とくかいふかとく)。」