乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『明暗』1   夏目漱石全集 8 筑摩全集類聚 昭和46年

2023-01-27 | 文学入門

 

 

 

 『明暗』1   夏目漱石全集 8 筑摩全集類聚 昭和46年

 

 取り急ぎ図書館に行き、筑摩全集類聚の『明暗』を借りる。

 だが、某優良書には新潮文庫のページが記されていたので、時々利用する日本の古本屋で急遽頼むことにした。

 

『明暗』は読んだが記憶にない。

 漱石は小学生、中有学生の頃に有名なものだけはほとんど読んでいるが、漱石の小説内での書生に対しての態度の描き方に引っかかりを持ってしまったことがある。 

 しかし、今更に思う。

 こういった細かなところで漠然とした感情を生じさせるのではなく、物事の本質を捉えなければいけないのではないか、と。

 漱石に対しコンプレックスを持ち続けて行きてきたが、家族はそんな私を横目に、毎晩のように全集に明け暮れていた。

 長年持ち続けた失態から、今、解き放たれるかもしれないという期待は大きい。

 

 とりあえず、文庫本が届くまでは筑摩全集類聚で読む。

『明暗』は以下のように始まる。

 

 医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下ろした。

「矢張穴が腸まで続いてるんでした。此前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、ついそこが行き留りだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通をよくする為に、其奴(そやつ)をがりがり掻き落として見ると、まだ奥があるんです」

「そうして夫(それ)が腸に届いているのですか」

 

 私はこういた始まり方の作品は好きだ。

 加えて、医学的な書き方をされた作品も好きである。

 木木高太郎の『網膜脈視症』などは好きでたまらない。

 ちなみに木木高太郎の作品も、全集で読んでいるがただ読んだだけで、全くわかってない。

 

 話を戻そう。

 医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下ろした。

「矢張穴が腸まで続いてるんでした。此前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、ついそこが行き留りだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通をよくする為に、其奴(そやつ)をがりがり掻き落として見ると、まだ奥があるんです」

「そうして夫(それ)が腸に届いているのですか」

 

 上はさらりと書き出されているが、実際には恐ろしい。

 それをシャァシャァと述べる。

「そうして夫(それ)が腸に届いているのですか」

とは、誠に素っ頓狂である。

 

 まだ、物語の導入にも達してないが、『明暗』は読者の心を鷲掴みにする。

「そうして夫(それ)が腸に届いているのですか」

と。

 

 

 

 ここから先は、書き留めず、少し先に読み進む予定です。

 

 『悪夢』1857年

  フレディック・サンディーズ

  ビクトリア・アンド・アルパート博物館

  あべのハルカス美術館「アリス展」にて

 

 

 

 

 

 『明暗』1   夏目漱石全集 8 筑摩全集類聚 昭和46年 332ページ

 『夏目漱石最後の〈笑い〉 『明暗』の凡常』 細谷博 著 進典社 南山大学学術業書

 

 

 

 みなさま、お越しくださいましてありがとうございます。

 感謝しております^^

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『太宰治』1    岩波新書560

2023-01-26 | 文学入門

写真は、東博にて。ペルシャの皿。

 

 

    『太宰治』1    岩波新書560

 

 

「再入門」一回一回が「入門」 3

 

〈大人の場所〉

 未熟な読者もいつか歳をとる。

→やがてはっきりと見限ることで人はおのれに区切りをつける。

 自らを振り返り、吟味し、自惚れ、卑下し、呆れ果て、さらに許すこともできるような、幅のある練れた心のあり方、それを〈大人〉の場所としてイメージする。  6

 生きてきた目印

 

『津軽』引用

「大人というものは、侘しいものだ。」

「侘しいものだ」で、十分に大人の感性。  7

 このように読むんだ!

 

『津軽』    8

〈自分さがし〉の物語

〈さがす自分〉をこそ探し出し、かたちづくろうとする、意識的造形

 子守のたけ(タケ)と再開するシーンから読み手が受けとるものは、何のあいまいさもない。あるいはあいまいか否か、意識的か否かどうかはでもよくなってしまう。それが他ならぬ感動。

【あいまいか否か、意識的か否かどうかはでもよくなってしまう。それが他ならぬ感動。】を読み、『梅忠』「封印切の場」の私の味方は穿っているのではないだろうか。「今回は切れてしもた型」「今回は切ってやった型」など、もやはどうでも良いことではないか。むしろ『恋飛脚大和往来』を見たての頃は、「封印切の場」とて純粋に何も考えずに感動していたではないか。今まさに、本書にて、初心に戻された気がする。ここですでに、読み始めて良かったと感じる。

 

『津軽』には子守が出てくる。

 できれば明日、『津軽』を用意したい。

 上に純粋に楽しみたいと書いたばかりなのに、子守という立ち位置を太宰治氏がどのように描いたのか、初心者の私は気にかかる。

 子守は、民俗学では多くの方々が取り上げられているからだ。

 しかしこういった読み方も、脇道にそれ、よくないような気がする。

 私は文学部に行きたかったと今になって随分後悔しているので、好き勝手に読むのではなく、これからは大胴で真面目に学ぼうと思う。

 

 涙の量を調節するということは、何とも妥協に満ちた不潔なことのように見えた。  8 

 こういうことは、観劇や日常生活においても行なっていはしまいだろうか、と反省し、他人の目を気にせず自分の感性に従って、もっと自分本位に自由に楽しむようにしたい。

 

 純、不純のこだわりがこうじれば、この世にあたって、感動できるものの数はどんどんと減っていってしまう。  9

 

 

(序 1/2)

 

 

『太宰治』

細谷博著

岩波新書560

215ページ

 

 

 多分、軸から外れた読み方をしてるのでしょうけれど、そのうち鳥にも羽毛が多少は生えるかもしれないと期待しています。

 みなさま、いつも拙ブログにお付き合いくださいましてありがとうございます。

 

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