上賀茂神社の正式名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と言い、下鴨神社ともども世界文化遺産にも指定されている。1の鳥居から境内に入ると、玉砂利ではなく白砂が道に敷かれており、踏みしめた時のザクザクと言う感じは清涼感さえ憶える。
社伝では神代の昔、北北西にある神山(こうやま)に賀茂別雷神が降臨した。後、天武6年(678)に祠を建て、現在の社殿の基となった。賀茂別雷神は、高天原(たかまがはら)から日向国(現・宮崎県)に降り、後に山背(山城)国(やましろのくに)へ遷ってきた豪族・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の孫といわれている。命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)は、瀬見の小川(賀茂川)に流れてきた丹塗りの矢に感応して身ごもり、男児を出産したが、後にその子は、父である天神のもとへ昇天、それが賀茂別雷神だという。
平安遷都後、下鴨神社とともに王城鎮護の社として歴代皇室の崇敬があつく、国家の重大時には必ず奉幣、祈願がなされ、嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王(さいおう)と定め、その制度は以来35代、約四百年続いた。 「延喜式」によると名神大社(みょうじんたいしゃ)に列し、後、山城国一ノ宮(やましろのくにいちのみや)として尊崇され、特に徳川家は家紋の3ツ葉葵が、当社の神紋・二葉葵に由来するところから、ことの他、信仰を寄せていた。明治以降終戦まで官幣大社(かんぺいたいしゃ)として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。平安中期には、すべての社殿を21年ごとに建替える制度が定められ、往古の建築様式が受け継がれている。鎌倉時代以降は、朝廷権力が衰えるとともに当社の権威も衰微したが、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、社運を興していく。全国神社の筆頭に位した当社だが、何故か「篇額」が存在しない。それを社務所で尋ねると「当社は神に仕えるところ、篇額のようなしるしがなくてもよいのでは」と言う。
1の鳥居から白砂の参道を通り、2の鳥居を抜けると細殿がある。その正面に、左右1対の「立砂}(たてずな)と称される円錐形の砂山があり、当社の御神体山、神山を象ったものである。
本殿・権殿は、文久3年(1863)の造り替えられ、檜皮葺の屋根を前面に長く葺いた三間社流造で、ともに国宝に指定されている。御物忌川の前に建つ朱丹塗りの楼門(重文)は、寛永5年の造り替えで、入母屋造、檜皮葺。東西に回廊を配する。細殿(重文)も寛永5年の造り替えで、正面五間、奥行き二間の造り。かつては天皇や上皇、斎王のみが昇殿を許されたという格式ある殿舎。楽屋(重文)は神仏分離までは当社の僧侶たちが経を唱えていたという殿舎で、これも寛永5年に造り替えられた。玉橋(重文)も同年に
造り替えられた木造の反り橋で、御物忌川に架けられている。神事用で拝観者は渡れない。片岡橋(重文)も寛永の造り替えで、唐破風屋根をもつ木橋。南東側に、玉依比売命を祀る第一摂社、片山御子神社がある。普段は非公開になっているが「渉渓園」(しょうけいえん)は、ならの小川の東岸にある杉、楠、椎などが繁る清閑とした庭で風雅な気が漂っている。毎年4月、第2日曜日には「賀茂曲水宴」が催されている。
市民の憩いの場となっている2の鳥居前は1面の芝生、春には樹高約13㍍ある紅八重枝垂桜が咲き、天空を紅で染める。
観光の土産を紹介しておくと、当地はすぐき漬けの産地としても知られ、少しすっぱい風味が食欲をそそり、茶漬けにもすると抜群の美味さを与えてくれる。また大文字五山の1つ妙法の地元でもあり風光明媚な場所である当社前の「焼き餅」は有名で、土産としても人気がある。
さて、当社を語るとき忘れてはならないのが京都3大祭の一つとなっている「葵祭」を紹介しておかねばならない。
「葵祭」はそもそもは当社の祭礼「賀茂祭」であり、祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで「二葉葵」を桂の小枝に挿し飾ることから、いつの時代からか「葵祭」と称されるようになった。
その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が神山に降臨した際、神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当社の祭祀の始めであり、時を経て六世紀欽明天皇の時代、日本全土が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせたことが「賀茂祭」の起こりであると「賀茂縁起」に記されている。
平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)4月には勅祭として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮の斎宮の制に準じられ、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)として斎院(斎王)を奉られた。
続く弘仁10年(819)3月、賀茂祭を中祀に準じ斎行せよとの勅が下され、伊勢の神宮とならぶ最も重い御取扱いを受けた。
貞観年中(859~876)には勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を見ました。しかしながら室町時代中期頃から次第に衰退し、応仁の大乱以降は全く廃絶した。その後、江戸時代に至り東山天皇元禄7年(1694)に幕府の協力により再興され、明治3年(1870)まで開催されたものの、単に奉幣使のみの参向となり、明治17年(1884)明治天皇の旧儀復興の命により春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに日本三勅祭の1として祭儀が復興した。
祭日も古来4月吉日(第2の酉の日)とされていたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に至っている。
所在地:京都市北区上賀茂御薗口町4。
交通:阪急京都線四条大宮より京都市バス46系統、上加茂神社下車すぐ。
社伝では神代の昔、北北西にある神山(こうやま)に賀茂別雷神が降臨した。後、天武6年(678)に祠を建て、現在の社殿の基となった。賀茂別雷神は、高天原(たかまがはら)から日向国(現・宮崎県)に降り、後に山背(山城)国(やましろのくに)へ遷ってきた豪族・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の孫といわれている。命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)は、瀬見の小川(賀茂川)に流れてきた丹塗りの矢に感応して身ごもり、男児を出産したが、後にその子は、父である天神のもとへ昇天、それが賀茂別雷神だという。
平安遷都後、下鴨神社とともに王城鎮護の社として歴代皇室の崇敬があつく、国家の重大時には必ず奉幣、祈願がなされ、嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王(さいおう)と定め、その制度は以来35代、約四百年続いた。 「延喜式」によると名神大社(みょうじんたいしゃ)に列し、後、山城国一ノ宮(やましろのくにいちのみや)として尊崇され、特に徳川家は家紋の3ツ葉葵が、当社の神紋・二葉葵に由来するところから、ことの他、信仰を寄せていた。明治以降終戦まで官幣大社(かんぺいたいしゃ)として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。平安中期には、すべての社殿を21年ごとに建替える制度が定められ、往古の建築様式が受け継がれている。鎌倉時代以降は、朝廷権力が衰えるとともに当社の権威も衰微したが、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、社運を興していく。全国神社の筆頭に位した当社だが、何故か「篇額」が存在しない。それを社務所で尋ねると「当社は神に仕えるところ、篇額のようなしるしがなくてもよいのでは」と言う。
1の鳥居から白砂の参道を通り、2の鳥居を抜けると細殿がある。その正面に、左右1対の「立砂}(たてずな)と称される円錐形の砂山があり、当社の御神体山、神山を象ったものである。
本殿・権殿は、文久3年(1863)の造り替えられ、檜皮葺の屋根を前面に長く葺いた三間社流造で、ともに国宝に指定されている。御物忌川の前に建つ朱丹塗りの楼門(重文)は、寛永5年の造り替えで、入母屋造、檜皮葺。東西に回廊を配する。細殿(重文)も寛永5年の造り替えで、正面五間、奥行き二間の造り。かつては天皇や上皇、斎王のみが昇殿を許されたという格式ある殿舎。楽屋(重文)は神仏分離までは当社の僧侶たちが経を唱えていたという殿舎で、これも寛永5年に造り替えられた。玉橋(重文)も同年に
造り替えられた木造の反り橋で、御物忌川に架けられている。神事用で拝観者は渡れない。片岡橋(重文)も寛永の造り替えで、唐破風屋根をもつ木橋。南東側に、玉依比売命を祀る第一摂社、片山御子神社がある。普段は非公開になっているが「渉渓園」(しょうけいえん)は、ならの小川の東岸にある杉、楠、椎などが繁る清閑とした庭で風雅な気が漂っている。毎年4月、第2日曜日には「賀茂曲水宴」が催されている。
市民の憩いの場となっている2の鳥居前は1面の芝生、春には樹高約13㍍ある紅八重枝垂桜が咲き、天空を紅で染める。
観光の土産を紹介しておくと、当地はすぐき漬けの産地としても知られ、少しすっぱい風味が食欲をそそり、茶漬けにもすると抜群の美味さを与えてくれる。また大文字五山の1つ妙法の地元でもあり風光明媚な場所である当社前の「焼き餅」は有名で、土産としても人気がある。
さて、当社を語るとき忘れてはならないのが京都3大祭の一つとなっている「葵祭」を紹介しておかねばならない。
「葵祭」はそもそもは当社の祭礼「賀茂祭」であり、祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで「二葉葵」を桂の小枝に挿し飾ることから、いつの時代からか「葵祭」と称されるようになった。
その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が神山に降臨した際、神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当社の祭祀の始めであり、時を経て六世紀欽明天皇の時代、日本全土が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせたことが「賀茂祭」の起こりであると「賀茂縁起」に記されている。
平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)4月には勅祭として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮の斎宮の制に準じられ、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)として斎院(斎王)を奉られた。
続く弘仁10年(819)3月、賀茂祭を中祀に準じ斎行せよとの勅が下され、伊勢の神宮とならぶ最も重い御取扱いを受けた。
貞観年中(859~876)には勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を見ました。しかしながら室町時代中期頃から次第に衰退し、応仁の大乱以降は全く廃絶した。その後、江戸時代に至り東山天皇元禄7年(1694)に幕府の協力により再興され、明治3年(1870)まで開催されたものの、単に奉幣使のみの参向となり、明治17年(1884)明治天皇の旧儀復興の命により春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに日本三勅祭の1として祭儀が復興した。
祭日も古来4月吉日(第2の酉の日)とされていたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に至っている。
所在地:京都市北区上賀茂御薗口町4。
交通:阪急京都線四条大宮より京都市バス46系統、上加茂神社下車すぐ。