「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「浄瑠璃寺」(じょうるりでら)

2006年04月26日 22時51分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 奈良の山の後ろ、京都からも人里離れた南山城の浄瑠璃寺には、古刹めぐりが好きな人たちしか訪れないほどの山間にある。境内は凛とした静けさみ満ち、小鳥のさえずりが心地好い。名前の通り浄らかで清々とした空気に包まれている。春は桜や梅などが参道を彩る。

「まさかこんな田園風景のまっただなかに、その有名な古寺が―」、作家堀辰雄氏が当寺の印象を「浄瑠璃寺の春」でそう綴っている。
 そんな静かだった当寺も、最近はハイカーやウォーキングの中高齢者が、この界隈に点在する石仏めぐりで大勢の人たちが訪れるようになり、のんびりとこの静けさ満喫するには、夏・冬の時期しかなくなってきている。
 浄瑠璃寺の記録は少なく、天平11年(738)行基が開いたともいわれているが、これも定かではなく諸説がある。浄瑠璃寺流記事によると、永承2年(1047)義明(ぎみょう)上人が、薬師如来を本尊とし、1日で屋根を葺けたというほどの小さな堂宇を建てたのが始まりで、阿知山大夫重頼という豪族が檀那となったそうだ。それから60年後、嘉承2年(1107)本尊の薬師如来像などを西堂へ移したといわれている。

 久安6年(1157)興福寺権別当をつとめた興福寺一条院の門跡恵信(藤原忠道の子)は、浄瑠璃寺を一条院の御祈所とし、坊舎などをまとめ、庭園を整備した。治承2年(1178)京都の一条大宮から現在の位置に三重塔が移され、初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図など、装飾文様と共に壁面で埋められている。元は仏舎利を納めていたようだが、当寺へ来てからは東方本尊の薬師物を安置している。

 浄瑠璃寺本堂、九体阿弥陀堂(国宝・藤原時代)は、全国で唯一現存する九体の阿弥陀仏が祀られている堂宇で、(正面十一間、側面四間)太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向って拝めるよう東向きにし前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたものである。九品往生、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生からはじまり、下の中、下の上と上品上生まで九つの往生の段階があるという考えから、9つの如来を祀った。中尊は丈六像で来迎印(下生印)、他の八体は半丈六像で定印(上生印)を結んでいる。寄木造りで漆箔が施されている。

 四天王像四体(国宝・藤原時代)は、四天王は元来世界の四方を守り、外から悪が入らぬよう、内の善なるものは広がるようにと言う力の神で、現在、多門天が京都、広目天が東京の国立博物館にある。堂内には持国天と増長天が祀られている。
他に、吉祥天女像(厨子入り・鎌倉時代)、延命地蔵菩薩像(藤原時代)、子安地蔵菩薩像(藤原時代)、不動明王三尊像(鎌倉時代)等も重要文化財に指定されている。

 さて浄瑠璃寺庭園(特別名勝及史跡・藤原時代)についてご紹介しておこう。
 池を中心としたこの庭園は、伊豆僧正恵信が久安六年に伽藍や坊舎の整備、結界を正すなどしたときに始まる。阿弥陀堂を東に向け、その前に苑池を置き、東に薬師仏を祀って浄土式庭園とした。鎌倉のはじめの元久2年、小納言法眼がそれを補強している。
 この寺は「義太夫の発祥地ですか」とか、「昔、人形浄瑠璃やってましたか」などと質問されることがあるという。義太夫や人形浄瑠璃とは関係はなく、浄瑠璃というのはもともと仏教の言葉で浄瑠璃世界という「お薬師さま」(薬師瑠璃光如来)の清浄な浄土の名前で、不純なものは全くない澄みきった瑠璃の大地、建物はみんな七宝で造られた東方はるかな仏教の世界のこと。

 古の人々が、奈良の都の山の後ろ(山城の語源の発祥)にある汚れなき理想郷を求めて、ひっそりと造った夢見の世界。川のせせらぎを耳に、娑婆のことなど忘れて木の葉の風に吹かれてみてはどうだろう。

 交通:近鉄奈良駅からバス、浄瑠璃寺前下車。
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