「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「京都御所」(きようとごしょ)

2006年04月21日 18時01分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都市街中心の北中央部に広大な京都御苑がある。市民の憩いの場所として開放されている南北1300m、東西700mの緑地帯の中に、京都御所と仙洞御所、大宮御所があり、桓武天皇が遷都以来、数々の歴史形成の中心として多くの物語が残されている。
 春の陽気に誘われて、一般公開されている京都御所に出かけた。

 春の一般公開は、明治天皇が春先3月に五箇条のご誓文を下したのを記念し、は桓武天皇の時代、平安京遷都が秋口10月にあったのを記念して、昭和21年より行われている。
 京都御所は、南北朝時代の光厳天皇が元弘元年(1331)に里内裏だった土御門東洞院殿を皇居と定めたもので、以後、信長、秀吉、家康らが修理、造営を行っているがことごとく焼失し、現在の建物は総奉行・松平定信によって安政2年(1855)古制にのっとって再現されたもので、紫宸殿を中心として、その西北方に清凉殿、東方に宜陽殿があり、紫宸殿の南庭(前庭)を回って日華門、月華門、承明門などの門や軒廊等が連なっている。そのほかにも、春輿殿、小御所、御学問所、常御殿などや建礼門、宜秋門、建春門、清所門などの門があり、平安時代以降の建築様式の移りかわりを見ることができる。

 今回(06年4月)の一般公開は入り口は宜秋門となっており、テントが張られた入場受付では長蛇の列、危険物の持ち込みを検査され御所内に入る。
 はじめに「御車寄」(おくるまよせ)に出会う。昇殿を許された親王、摂家などの正式な参内の場合のみ昇降する所で、大正御大礼のときに設けられ、天皇、皇后のみが昇降する。人波におされながら先に進む。まるで上野動物園にパンダが初お目見えした時のような行列ぶりだ。
 御車寄から左に折れると諸大夫(しょだいぶ)の間。諸大夫の間は、正式の用向きで参内した者の控えの建物。身分に応じた3つの間が用意されていた。桜の間と鶴の間、虎の間があり、それぞれの間には、原在照筆(諸太夫:桜の間)、狩野永岳筆(殿上人:鶴の間)、岸岱筆(公卿:虎の間)らの手になるふすま絵が掛かっている。ここを抜けると急に広くなり、人波がばらけ出し、右手に建礼門、左手に承明門がある。
 建礼門(けんれいもん)は、葵祭での出発地点となっている。京都御所の正門で、現在は外国首相などの国賓来訪をはじめ天皇が臨幸されるときに開かれるという。

 公開の見所はなんと言っても「紫宸殿」(ししんでん)である。
 御所の正殿ともいわれる「紫宸殿」は、即位の大礼など大儀が行われるところで、檜皮葺、総桧造りの清楚な感じの建物です。日本建築の場合、切妻であった寺院建築の身舎(もや)の四面に庇がつき、それが母屋の屋根と一体になって入母屋が形成されているが、それが「紫宸殿」に見ることができる。
 紫宸殿の南庭は白砂を敷いただけであり、そこに左近の桜と右近の橘が植えられている。2代目に当たる樹齢80年の左近の桜は1997年秋に枯死し、98年2月13日高さ7mの新しい山桜が植えられたが、まさに零れんばかりの花を咲かせていた。この桜は枯死した桜から約40年前に株分けされ、御所の一角で育てられてきたという。右近の橘と左近の桜は、朝廷の儀式の際に「右近衛府」と「左近衛府」が傍らに列した事に由来する。
 ここから「清涼殿」(せいりょうでん)へと向かうのだが、その入り口となる渡りが狭く行列が動かない。通常だと30秒とかからない通路だろうが、15分ほどかかりようやく「清涼殿」に。
 「清涼殿は、中殿ともいう紫宸殿の背後西側にあり、東を正面とした建物。
入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、建具に蔀戸(しとみど)を使う点などは紫宸殿と共通する。本来は天皇の居所兼執務所であったが、天皇が常御殿に居住するようになってからは、清涼殿も儀式の場として使われるようになっている。本来、居住の場であった名残で、建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られている。中央の母屋には天皇の休憩所である御帳台(みちょうだい)がある。その手前(東側)には2枚の畳を敷いた「昼御座」(ひのおまし)がある。ここは天皇の公式の執務場所である。母屋の北側(建物正面から見て右側)には四方を壁で囲われた「夜御殿」(よんのおとど)がある。これは天皇の寝室であ
るが、天皇の居所が常御殿に移ってからは形式的な存在になっていた。この他に西側には鬼の間、台盤所(だいばんどころ)、朝餉の間(あさがれいのま)、御手水の間(おちょうずのま)、御湯殿があり、南側には殿上の間がある。これらの部屋の障壁画は宮廷絵師の土佐派が担ったという。
 また、建物正面の庭には「漢竹」(かわたけ)、「呉竹」(くれたけ)が植えられている清涼感を漂わせている。

 公的な場である紫宸殿に対し日常生活の場は、平安京の内裏では仁寿殿であったが清涼殿がそれにとってかわっている。それも室町時代にはその殿舎の中に御常御殿という室空間が設けられ、さらに御常御殿は独立した建物となってくる。
 ここを出ると、小御所、蹴鞠庭へと向かうのだが、宮内庁の職員が「お急ぎの方はこちらから出てください」と携帯マイクで声を張り上げていた。ツアー観光の人たちにとっては集合時間が気になるところかもしれない。
 
 「小御所」(こごしょ)は御元服御殿ともいい、東宮御元服、立太子の儀式など皇太子の儀式が行われた所。明治維新の有名な「小御所会議」はここで行われ、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が発した「王政復古の大号令」はここで行われた。小御所は平安内裏にはなかったが、源頼朝の世子の呼称であったものを1251年の再建時に採り入れて造営され、書院造りと寝殿造りの融合した建物となっている。高欄付きの板縁、蔀戸など寝殿造りを基本にしながら、内部は母屋は上段、中段、下段の三間に襖で仕切られ、畳は敷詰
め、天井は格天井の書院造り的な内部になっている。外部建具は半蔀(はじとみ)で上半分を外部につり上げ、下部ははめ込み式。昭和29年(1954)鴨川の打上げ花火により焼失、昭和33年(1958)に再建。
 御学問所(おがくもんしょ)の内部も、上中下の三間に分かたれ、対面形式となっているなど書院造(入母屋檜皮葺)りの特徴がよく出ているが、床棚が中央になく左に寄せられ、書院窓も帳台構えもない。学問だけでなく、親王宣下、月次(つきなみ)の和歌の会などにも使われていた。
 蹴鞠(けまり)の庭は、小御所と御学問所の囲まれた御池庭に面した砂利の広場で、涼やかな池の風を受けながら蹴鞠を楽しんだことだろう。
 御池庭(おいけにわ)は、池を中心とした回遊式庭園で、前面は州浜で形成され、その中に舟着への飛石を置いている。右手に欅橋が架かり松をはじめとする樹木を配し深遠たる森へと導いている。苑路を回りながら古の優雅に想いをはせるふさわしい景観である。庭そのものは仙洞御所に比べこじんまりしているようにも思える。御内庭(ごないてい)は、曲折した遣り水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。
 なお公開順路には組み入れられていなかったが、春興殿(しゅんこうでん)というのもあり、御大礼の時、臨時の場所となって後位継承のしるし三種の神器のうちの「御鏡」を奉安する所だったという。
 御所の門の一つ、「蛤御門」(はまぐりごもん)は、知らない人はいないと思うが、幕末の元治元年(1864)、長州藩と幕府軍(主に会津藩)が戦をした場所「蛤御門の変」として有名だ。門の一部には、今でも鉄砲の弾の痕がくっきりと見え、維新の大きなうねりを物語っている。

 所在地:京都府京都市上京区京都御苑3。
 交通:地下鉄烏丸線今出川駅より徒歩8分、京阪電鉄丸太町より徒歩15分。

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