渉成園は、真宗大谷派の本山(真宗本廟)の飛地境内地で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから別名、枳殻邸(きこくてい)ともよばれている東本願寺別邸である。
この地は、もともと平安時代初期(九世紀末)嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟と伝えられている。その後、寛永18年(1641)、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が寄進され、さらに、承応2年(1653)、第13・宣如上人の請願により石川丈山が作庭したのが渉成園のはじまりといわれている。
安政5年(1858)と元治元年(1864)の2度の火災によって諸殿は全て類焼したが、慶応元年(1865)年から明治初期にかけてほぼ復興され、池水・石組は創始のころとほとんど変ることなく、昭和11年(1936)12月に、国の名勝に指定された。
渉成園は、印月池から侵雪橋、縮遠亭を望む景観をはじめ、広い庭園内に咲く桜、楓、藤などが四季折々の景趣を富ませている。平安時代の優雅さをしのばせる書院式回遊庭園は、印月池を中心に、漱枕居(そうちんきょ)・縮遠亭(しゅくえんてい)などの茶室や
書院を配し、桜・楓・松・藤などの四季折々の花も美しく、頼山陽はこの庭を愛でて13景を撰んだという。市中とは思えないほどの静けさの中にたたずんでいる。
漱枕居は、印月池の西南に位置し、丸太柱で軽快な入母屋造柿葺屋根で、水上にのりだすように建てられている。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間から成り、三畳の東には左右に手摺を付した縁を張り出し、四畳半は池に臨んで二方に肘掛窓を開き、さながら舟中に遊ぶ趣をつくりだしている。
風亭(ろうふうてい)は、殿舎の南端の大広間で、寄棟造桟瓦葺で銅板葺の軒を深く出し、悠然たる姿を前庭にあらわしている。ゆるやかに広がる屋根の造りが、建物の高さ、大きさを包み込んでまことに穏やかな外観にまとめられている。こうした巧みな造型が北端にまで貫かれていて、南北にのびのび連なる殿舎のいかめしさを感じさせない。
主な見所を紹介しておこう。
縮遠亭(しゅくえんてい)は、五松塢の高所に建つ。亭は前面の土間から奥(東)へ二畳台目向板、台目切の茶室、二本襖を隔てて長四畳が続く。その南端から斜めに板間で三畳敷の上段の間が連結されており、上段は床を高く支えた舞台造りになっている。亭の傍らに据えられた石造宝塔塔身を利用した手水鉢は、塩釜の手水鉢として名高い。
回棹廊(かいとうろう)、五松塢の北から向岸に渡る廊橋である。桧皮葺切妻造唐破風屋根で、左右に低い高欄付した廊橋で、中央を一段高く、少し東西に張り出して床を設け、かつ棟を直交させる唐破風屋根を架けている。
傍花閣(ぼうかかく)、園林堂の東方、園内の最も要な位置を占め、東向きに建てられている。その奇構とも見える外観は、禅宗の「三門」と呼ぶ楼門から発想されたものであろう。
傍花閣は2階建で、左右側面に山廊をおき、高欄付きの階段と屋根を上層に向かって架け、階上は四畳半、入母屋造柿葺屋根である。縁に高欄をめぐらし、東西は明障子をたてて開放的に構成され、天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい意匠を見せる。望楼を兼ねた門である。
代笠席(たいりつせき)、北部の生垣に囲まれた閑静な一境に南面して建つ。寄棟造桟瓦葺屋根で、間口三間の前面は深さ半間土間で小縁を設ける。内部は四畳半二室が東西に並ぶ。両室とも正面奥の一畳半分を一枚板敷とし、杉皮の網代天井となっている。
滴翠軒(てきすいけん)、かつては高瀬川から北東に引かれた水は、船屋のところから印月池へ注ぎ、もう一つの流れが西方の池に流れる。この池に南面して殿舎の北端に建てられている。寄棟造桟瓦葺で軒廻りを銅板葺とし、高配ゆるく、深く軒をさし出し、二方に濡縁をめぐらし、角の柱を水中の石に立てている。
臨池亭(りんちてい)、滴翠軒から南へ吹放しの廊下で連なり、臨池亭が池に臨んで東向に建つ。八畳二間と入側から成り、二方に縁をめぐらして滴翠軒と同様の外観を形成しているが、さらに東側全面に深さ一間の濡縁を水上に張り出して、いっそう庭と建物との融合を作り出している。
所在地:京都市下京区烏丸通七条上る。
交通:JR京都駅より徒歩5分、京阪電鉄七条駅より徒歩15分。
この地は、もともと平安時代初期(九世紀末)嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟と伝えられている。その後、寛永18年(1641)、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が寄進され、さらに、承応2年(1653)、第13・宣如上人の請願により石川丈山が作庭したのが渉成園のはじまりといわれている。
安政5年(1858)と元治元年(1864)の2度の火災によって諸殿は全て類焼したが、慶応元年(1865)年から明治初期にかけてほぼ復興され、池水・石組は創始のころとほとんど変ることなく、昭和11年(1936)12月に、国の名勝に指定された。
渉成園は、印月池から侵雪橋、縮遠亭を望む景観をはじめ、広い庭園内に咲く桜、楓、藤などが四季折々の景趣を富ませている。平安時代の優雅さをしのばせる書院式回遊庭園は、印月池を中心に、漱枕居(そうちんきょ)・縮遠亭(しゅくえんてい)などの茶室や
書院を配し、桜・楓・松・藤などの四季折々の花も美しく、頼山陽はこの庭を愛でて13景を撰んだという。市中とは思えないほどの静けさの中にたたずんでいる。
漱枕居は、印月池の西南に位置し、丸太柱で軽快な入母屋造柿葺屋根で、水上にのりだすように建てられている。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間から成り、三畳の東には左右に手摺を付した縁を張り出し、四畳半は池に臨んで二方に肘掛窓を開き、さながら舟中に遊ぶ趣をつくりだしている。
風亭(ろうふうてい)は、殿舎の南端の大広間で、寄棟造桟瓦葺で銅板葺の軒を深く出し、悠然たる姿を前庭にあらわしている。ゆるやかに広がる屋根の造りが、建物の高さ、大きさを包み込んでまことに穏やかな外観にまとめられている。こうした巧みな造型が北端にまで貫かれていて、南北にのびのび連なる殿舎のいかめしさを感じさせない。
主な見所を紹介しておこう。
縮遠亭(しゅくえんてい)は、五松塢の高所に建つ。亭は前面の土間から奥(東)へ二畳台目向板、台目切の茶室、二本襖を隔てて長四畳が続く。その南端から斜めに板間で三畳敷の上段の間が連結されており、上段は床を高く支えた舞台造りになっている。亭の傍らに据えられた石造宝塔塔身を利用した手水鉢は、塩釜の手水鉢として名高い。
回棹廊(かいとうろう)、五松塢の北から向岸に渡る廊橋である。桧皮葺切妻造唐破風屋根で、左右に低い高欄付した廊橋で、中央を一段高く、少し東西に張り出して床を設け、かつ棟を直交させる唐破風屋根を架けている。
傍花閣(ぼうかかく)、園林堂の東方、園内の最も要な位置を占め、東向きに建てられている。その奇構とも見える外観は、禅宗の「三門」と呼ぶ楼門から発想されたものであろう。
傍花閣は2階建で、左右側面に山廊をおき、高欄付きの階段と屋根を上層に向かって架け、階上は四畳半、入母屋造柿葺屋根である。縁に高欄をめぐらし、東西は明障子をたてて開放的に構成され、天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい意匠を見せる。望楼を兼ねた門である。
代笠席(たいりつせき)、北部の生垣に囲まれた閑静な一境に南面して建つ。寄棟造桟瓦葺屋根で、間口三間の前面は深さ半間土間で小縁を設ける。内部は四畳半二室が東西に並ぶ。両室とも正面奥の一畳半分を一枚板敷とし、杉皮の網代天井となっている。
滴翠軒(てきすいけん)、かつては高瀬川から北東に引かれた水は、船屋のところから印月池へ注ぎ、もう一つの流れが西方の池に流れる。この池に南面して殿舎の北端に建てられている。寄棟造桟瓦葺で軒廻りを銅板葺とし、高配ゆるく、深く軒をさし出し、二方に濡縁をめぐらし、角の柱を水中の石に立てている。
臨池亭(りんちてい)、滴翠軒から南へ吹放しの廊下で連なり、臨池亭が池に臨んで東向に建つ。八畳二間と入側から成り、二方に縁をめぐらして滴翠軒と同様の外観を形成しているが、さらに東側全面に深さ一間の濡縁を水上に張り出して、いっそう庭と建物との融合を作り出している。
所在地:京都市下京区烏丸通七条上る。
交通:JR京都駅より徒歩5分、京阪電鉄七条駅より徒歩15分。