“京都大原三千院 恋に疲れた女が一人 結城に潮瀬の素描の帯が 池の水面に揺れていた 京都大原三千院 恋に疲れた女が一人”(「女ひとり」永六輔作詞・いずみたく作曲)の名曲で知られる大原、その三千院からの道は大原川の向こう、さらに山深いところにひっそりと美しい寂光院が佇む。山門までの苔に沁みた急な石段をゆっくり登ると、本堂の横の書院に出合う。背後にひろがる雪持ちの樹林。すべての音を吸い込み、まさしく静寂の空間がある。初秋の秋海棠、秋の石段をおおう紅葉の秋彩に目を奪われる。
昔から都人は雪が降り始めると「寂光院さんへ行きましょう」といい、この山里に出向いたものである。深々と積もり来る白雪に「平家物語」のそこはかとなく哀れさを感じるのであろう。
しかしながら、この由緒ある寂光院は、平成12年(2000)5月9日、未明、放火によると思われる火災発生、一瞬のうちに炎に包まれ本堂が全焼、約八百年の風雪に耐えた本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼失した。本尊の六万躰地蔵菩薩立像をはじめ、建礼門院座像、阿波ノ内侍張り子座像とともに焼損した。幸いなことに焼け焦げた本尊の胎内に収められていた小像3417体、教典5巻、香袋など、貴重な品々が17個の桐箱に入れて納められており、無傷で保護された。
当時の報道によれば「パチパチと火の粉を噴き上げ、火柱のような猛炎が寝静まった大原の里の夜空を赤く染めた。9日未明に出火した京都市左京区大原の寂光院の本堂は、「夢であってくれ」との祈りもむなしく焼け落ちた。寺関係者や地域住民はぼう然と焼け跡を見つめ、山里の古刹(こさつ)拝観を楽しみに訪れた女性観光客は、突然の火事に驚きを隠せなかった。」と報じた。(京都新聞)
5年の歳月をかけ、平成17年(2005)6月2日、再建された木造こけら葺き平屋建ての本堂の落慶法要が営まれた。法要には同院や地元の関係者ら約500人が参列。
第32代瀧澤智明住職は「ようやく落慶を迎え、生涯で一番うれしい日。由緒ある寂光院の継承に精進する」と喜びを語った。しかし「平家物語」に登場し、樹齢千年といわれる本堂前の名木「千年の姫小松」が、立ち枯れたままになっている。
その「平家物語」に縁が深い清香山寂光院は、推古天皇2年(594)に聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために建てたのを開創とするのが定説であるが、承徳年間(1097~99)良忍の創建説もある。平清盛の娘で、高倉帝の皇后・安徳天皇の母である建礼門院徳子が余生を送ったところとしても有名な尼寺である。
壇の浦の合戦で建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水したが、敵方の源氏に捕らえられた。都に戻った建礼門院は寂光院の傍らに庵を結び、安徳天皇と平家一門の冥福をひたすら祈ったといわれている。そんな建礼門院を哀れんで後白河法皇が寂光院に訪れたのが平家物語や謡曲で有名な「大原御幸」である。
旧本堂(焼失前)は飛鳥・藤原・桃山の三時代の様式からなり、内陣および柱は飛鳥・藤原・平家物語当時のもので、外陣は慶長8年に豊臣秀頼が修復した。建礼門院徳子が、円山公園の長楽寺から文治元年(1185)大原の里に移って小庵を結んだくだりについて平家物語には、『「大原山のおく、寂光院と申す所こそ閑にさぶらへ」と申しければ、「山里は物のさびしき事こそあるなれども、世のうきよりは住みよかんなるものを」とて、おぼしめしたせ給ひけり』と記されている。法皇が当院を訪ねたおり、門院が「思ひきや深山の置くに住ひして 雲井の月をよそに見んとは」と詠い、法皇がこれを受けて「池水に汀の桜散りしきて 池の花こそ盛りなりけれ」と詠んだと伝わっている。
本堂前の庭の池を汀の池、桜を汀の桜という。建礼門院がおぼろ月夜に姿を映したといわれている朧の清水などもある。 本堂は豊臣秀頼の母・淀君の寄進で、本尊は像内に法華経や地蔵菩薩立像3417体を納めた木造地蔵菩薩立像(焼失前:国重文・鎌倉時代)、書院襖絵は近代の巨匠山本春挙・都路華香の筆、また大原御幸絵巻一巻(桃山時代)を所蔵していた。
裏門北に建礼門院室跡の碑、寺の北東に建礼門院大原西陵、川を渡った山麓に建礼門院の侍女阿波内侍の墓などがある。
所在地:京都市左京区大は大原草生町。
交通:市バス、京都バス大原から徒歩20分。
昔から都人は雪が降り始めると「寂光院さんへ行きましょう」といい、この山里に出向いたものである。深々と積もり来る白雪に「平家物語」のそこはかとなく哀れさを感じるのであろう。
しかしながら、この由緒ある寂光院は、平成12年(2000)5月9日、未明、放火によると思われる火災発生、一瞬のうちに炎に包まれ本堂が全焼、約八百年の風雪に耐えた本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼失した。本尊の六万躰地蔵菩薩立像をはじめ、建礼門院座像、阿波ノ内侍張り子座像とともに焼損した。幸いなことに焼け焦げた本尊の胎内に収められていた小像3417体、教典5巻、香袋など、貴重な品々が17個の桐箱に入れて納められており、無傷で保護された。
当時の報道によれば「パチパチと火の粉を噴き上げ、火柱のような猛炎が寝静まった大原の里の夜空を赤く染めた。9日未明に出火した京都市左京区大原の寂光院の本堂は、「夢であってくれ」との祈りもむなしく焼け落ちた。寺関係者や地域住民はぼう然と焼け跡を見つめ、山里の古刹(こさつ)拝観を楽しみに訪れた女性観光客は、突然の火事に驚きを隠せなかった。」と報じた。(京都新聞)
5年の歳月をかけ、平成17年(2005)6月2日、再建された木造こけら葺き平屋建ての本堂の落慶法要が営まれた。法要には同院や地元の関係者ら約500人が参列。
第32代瀧澤智明住職は「ようやく落慶を迎え、生涯で一番うれしい日。由緒ある寂光院の継承に精進する」と喜びを語った。しかし「平家物語」に登場し、樹齢千年といわれる本堂前の名木「千年の姫小松」が、立ち枯れたままになっている。
その「平家物語」に縁が深い清香山寂光院は、推古天皇2年(594)に聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために建てたのを開創とするのが定説であるが、承徳年間(1097~99)良忍の創建説もある。平清盛の娘で、高倉帝の皇后・安徳天皇の母である建礼門院徳子が余生を送ったところとしても有名な尼寺である。
壇の浦の合戦で建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水したが、敵方の源氏に捕らえられた。都に戻った建礼門院は寂光院の傍らに庵を結び、安徳天皇と平家一門の冥福をひたすら祈ったといわれている。そんな建礼門院を哀れんで後白河法皇が寂光院に訪れたのが平家物語や謡曲で有名な「大原御幸」である。
旧本堂(焼失前)は飛鳥・藤原・桃山の三時代の様式からなり、内陣および柱は飛鳥・藤原・平家物語当時のもので、外陣は慶長8年に豊臣秀頼が修復した。建礼門院徳子が、円山公園の長楽寺から文治元年(1185)大原の里に移って小庵を結んだくだりについて平家物語には、『「大原山のおく、寂光院と申す所こそ閑にさぶらへ」と申しければ、「山里は物のさびしき事こそあるなれども、世のうきよりは住みよかんなるものを」とて、おぼしめしたせ給ひけり』と記されている。法皇が当院を訪ねたおり、門院が「思ひきや深山の置くに住ひして 雲井の月をよそに見んとは」と詠い、法皇がこれを受けて「池水に汀の桜散りしきて 池の花こそ盛りなりけれ」と詠んだと伝わっている。
本堂前の庭の池を汀の池、桜を汀の桜という。建礼門院がおぼろ月夜に姿を映したといわれている朧の清水などもある。 本堂は豊臣秀頼の母・淀君の寄進で、本尊は像内に法華経や地蔵菩薩立像3417体を納めた木造地蔵菩薩立像(焼失前:国重文・鎌倉時代)、書院襖絵は近代の巨匠山本春挙・都路華香の筆、また大原御幸絵巻一巻(桃山時代)を所蔵していた。
裏門北に建礼門院室跡の碑、寺の北東に建礼門院大原西陵、川を渡った山麓に建礼門院の侍女阿波内侍の墓などがある。
所在地:京都市左京区大は大原草生町。
交通:市バス、京都バス大原から徒歩20分。