洛西の大原野に心地よい風がそよぐころ、願徳寺を訪ねた。昨年もここに隣接する西行桜で知られた勝持寺、別名「花の寺」を訪れたが、当寺の門をくぐることがなかった。当寺の石段の脇に咲き誇る「秋明菊」を愛用のカメラに収めて、その地を後にした。
あれから1年、心残りになっていた国宝「如意輪観世音菩薩半跏像」を拝観したくなり再び当地を訪ねた。
石段に脇の秋明菊、庭内の女郎花が美しく咲き、私を出迎えてくれた。
拝観受付に品の良いご婦人がいた。「観世音菩薩のことについてお話しをうかがいたいのですが」と話かけると、快く応じてくれて、堂内に案内してくれて説明を始めた。
平安末期(貞観時代)、およそ1300年ほど前の作で、榧(カヤ)の一木彫り。唐様式の像で、中国から渡来仏あるいは渡来人の作の両説があるという。色彩・金箔などの施しは見られず、木肌の温もりが感じられる名作である。厳しい顔つきながら慈愛に満ちた笑みをも漂わせている。
当寺は正式には「仏崋林山 宝菩提院 願徳寺」と称する。白鳳8年(679)に持統天皇の願いにより向日市寺戸に創建。平安時代から鎌倉時代にかけては、天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生みだした密教の大寺院であったが、応仁の乱と信長の兵火によりことごとく焼失。徳川家康の加護を受けたものの残存した伽藍も荒廃した。昭和に入り諸堂の荒廃が進み、本尊如意輪観音及び諸仏は昭和37年に向日市寺戸より勝持寺(花の寺)に移動安置され、本堂と庫裏はこの地に再建された。34年を経て本尊如意輪
観音及び諸仏は平成8年12月に勝持寺より願徳寺に帰座された。
如意輪観世音菩薩半跏像(国宝)は、平安前期貞観時代約1200前の木造素地。顔の相や衣の様子から明らかに唐の様式による座で、中国よりの渡来仏あるいは渡来人の作の両説がある。色彩・金箔を施して無く、木そのままの姿で、1200年の間に自然に木の肌が変わって来たという。座り方は半跏踏み下げの像・遊華座とも呼ばれている。白豪は水晶、瞳は黒曜石。上の手は、生老病死などの恐れを取り除く(施無畏)、下の手は願いを叶える(与願)という印である。
薬師瑠璃光如来(重要文化財)は、平安後期藤原時代き900年ほど前の作で木造漆箔。聖徳太子2歳像は、京都府文化財に指定されており1290年頃の作。(秋に取材)
所在地:京都市西京区大原野南春日町1223-2。
交通:JR向日町、または阪急東向日駅・洛西口駅・桂駅下車、バスで南春日町停下車徒歩約35分。
あれから1年、心残りになっていた国宝「如意輪観世音菩薩半跏像」を拝観したくなり再び当地を訪ねた。
石段に脇の秋明菊、庭内の女郎花が美しく咲き、私を出迎えてくれた。
拝観受付に品の良いご婦人がいた。「観世音菩薩のことについてお話しをうかがいたいのですが」と話かけると、快く応じてくれて、堂内に案内してくれて説明を始めた。
平安末期(貞観時代)、およそ1300年ほど前の作で、榧(カヤ)の一木彫り。唐様式の像で、中国から渡来仏あるいは渡来人の作の両説があるという。色彩・金箔などの施しは見られず、木肌の温もりが感じられる名作である。厳しい顔つきながら慈愛に満ちた笑みをも漂わせている。
当寺は正式には「仏崋林山 宝菩提院 願徳寺」と称する。白鳳8年(679)に持統天皇の願いにより向日市寺戸に創建。平安時代から鎌倉時代にかけては、天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生みだした密教の大寺院であったが、応仁の乱と信長の兵火によりことごとく焼失。徳川家康の加護を受けたものの残存した伽藍も荒廃した。昭和に入り諸堂の荒廃が進み、本尊如意輪観音及び諸仏は昭和37年に向日市寺戸より勝持寺(花の寺)に移動安置され、本堂と庫裏はこの地に再建された。34年を経て本尊如意輪
観音及び諸仏は平成8年12月に勝持寺より願徳寺に帰座された。
如意輪観世音菩薩半跏像(国宝)は、平安前期貞観時代約1200前の木造素地。顔の相や衣の様子から明らかに唐の様式による座で、中国よりの渡来仏あるいは渡来人の作の両説がある。色彩・金箔を施して無く、木そのままの姿で、1200年の間に自然に木の肌が変わって来たという。座り方は半跏踏み下げの像・遊華座とも呼ばれている。白豪は水晶、瞳は黒曜石。上の手は、生老病死などの恐れを取り除く(施無畏)、下の手は願いを叶える(与願)という印である。
薬師瑠璃光如来(重要文化財)は、平安後期藤原時代き900年ほど前の作で木造漆箔。聖徳太子2歳像は、京都府文化財に指定されており1290年頃の作。(秋に取材)
所在地:京都市西京区大原野南春日町1223-2。
交通:JR向日町、または阪急東向日駅・洛西口駅・桂駅下車、バスで南春日町停下車徒歩約35分。