「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「今熊野観音寺」(いまくまのかんのんじ)

2006年04月05日 22時04分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 四季折々に自然の美しいいとなみが見られる幽寂なる空間、熊野権現示現の伝説の聖地。東山三十六峰今熊野山のふところにいだかれて、今熊野観音寺は荘厳なるたたずまいを見せている。後白河法皇より山号を賜り、「新那智山」と称する。
 泉涌寺参道から左に折れて観音寺に入ると、赤い橋「鳥居橋(とりいばし)」が迎えてくれる。この谷を流れる今熊野川を越えるのが鳥居橋で、古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたことから、橋の名前の由来となった。
 当寺は、西国33ヶ所観音霊場の第15番札所、ぼけ封じ、近畿十楽観音霊場の第1番札所、また、京都七福神のえびす神奉祀として名高く、古くからの霊験記にも記されている「頭の観音さん」として広く人々の信仰を集めている。
 創興は、弘法大師(空海)が唐の国から帰国しほどない頃、東寺で真言密教の秘法を修法していたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見た。
不思議に思いその方向へ行って見ると、山中に白髪の一老翁が姿を現した。「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ」と告げた。そのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられた。
 大師は老翁に何人かをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になる」と告げられて姿を消されました。 大同2年(807)大師は熊野権現のお告げのままに庵を結び、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安したのが当山のはじまりと伝えられている。
 この時に大師が、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出し、大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けた。今日もこんこんと湧き出している。
 古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心であった。京都の今熊野は中世の九州方面の熊野信仰の本山格としての地位にあったようだ。
 三十六歌仙の1人、「枕草子」の作者として知られる清少納言(生没年未詳)は、その父清原元輔の邸宅が現在の観音寺境内地付近に有ったことから、観音寺の近くで生まれ育てられたようだ。
 清少納言は一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受け、皇后が崩御すると皇后を葬る鳥戸野陵が観音寺近くに造営され、それにともなって清少納言も、自分が生まれ育った観音寺近くの父の邸宅のほとりに住み、皇后の御陵に詣でながら晩年を過ごしたものと思われる。このことは『公任卿集』に、「月輪にかえり住むころ ありつゝも雲間にすめる月の輪を いく夜ながめて行きかえるらむ」(清少納言)と記されていることなどからも、その様子が偲ばれる。
 当寺は、南北朝時代の兵火で焼失したが、北朝の朝廷や足利将軍によって復興した。また応仁・文明の大乱でも伽藍が焼失したが、その後復興されている。江戸時代になると西国霊場巡拝が益々盛んになり、正徳2年(1712)には、宗恕祖元律師によって現在の本堂が建立されている。
 本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔が「医聖堂」で、医師学界に貢献した多くの人々が祀られている。本堂の背後に広がる墓地には「藤原3代の墓」とよばれる、石造宝塔3基がある。藤原忠通(ただみち)、九条兼実(かねざね)、慈円(じえん)僧正の3人の墓である。
 当寺は「頭痛封じの観音」としても信仰があるが、その言い伝えにこのような話がある。「後白河法皇は激しい頭痛持ちであった。そこで、頭痛封じの観音として評判の高かった今熊野観音に頭痛平癒の祈願を続けたところ、ある夜、就寝中の法皇の枕元に観音様が現れ、病める頭に向けて光明を差しかけた。すると永年苦しんでこられた頭痛が、不思議にもたちまちに癒えてしった」。爾来、法王は、今熊野観音を頭痛封じの観音として崇めたという。
 交通:JR京都駅から、市バス208系にて泉涌寺道下車、徒歩10分、
京阪電鉄七条駅から市バス208系で泉涌寺道下車、徒歩10分。
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