真如堂は鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)といい、永観2年(984)比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来立像(慈覚大師作)を東三條女院(一条天皇の母 藤原詮子)の離宮に安置したのを始まりとする天台宗の寺。
阿弥陀如来立像には伝説がある。慈覚大師が30歳過ぎの頃、滋賀県の苗鹿(のうか)明神で根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥陀の形が現れたという。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊としたが、立像はそのまま持っていた。
その後、大師が唐(中国)に留学した帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏(いんぜいねんぶつ)の一節を授けた。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3㌢ほど如来を納めた。もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊に」と願うと、如来は首を振って拒否した。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言うと、如来がうなづいたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれている。
平安後期には、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、民衆の信仰を集めた。
応仁の乱の時、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は焼失。本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太(あのう)に避難。その後も京都室町勘解由小路(足利義輝邸)、一条西洞院(1477)を転々とした後、旧地にもどり再建された。その後、秀吉の京都大整備により京極今出川下るに移転(1578)するが類焼し、ようやく元禄6年(1693)東山天皇の勅により、再び旧地にもどり再建された。
本堂(重要文化財)は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立。十五間四面、総欅、単層入母屋、本瓦葺造り。正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付による。
本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉と桂昌院の寄進)の中には、本尊阿弥陀如来、不動明王(安倍晴明の念持仏)、千手観音が祀られている。
現在は本堂と三重塔(重文)を中心に、塔頭八院が建つが、その多くがこの時期に再建されたものである。
もう1つの見所は、東山(大文字山)を借景にした「涅槃の庭」である。
涅槃図(ねはんず)は江戸時代、宝永年間に描かれたもので、縦10㍍、横6㍍の大きさがある。彩色涅槃図であるのが珍しいと云われている。公開は3月1日~31日。
真如堂の宝堂に納められている寺宝を本堂で虫干しする行事、虫払会(むしばらいえ)が開催され、「真如堂縁起絵巻」3巻をはじめ涅槃図慈眼(じがん)大師関係の寺宝200点が、7月25日に一般公開される。
真如堂の風景で印象的なのは本堂前の石段。緩く、段の幅がたっぷりとられた特徴のある外見。石段の両側から覆い被さるように楓が枝を伸ばしている。
秋には紅に染まった見事な景色が見られ、また、その散紅葉は圧倒されるほどの美観である。初秋の萩も趣き深く、可憐に咲く萩の背景に本堂のぼんやりとした燈火が朧月にも見える風情をかもしだしている。
境内に紅葉の季節の訪れるのをいち早く知らせるのが、本堂前の井戸脇の「花の木」。十一月初旬から木の先から赤くなり出し、それが段々下に降りてきて、最も美しいのは先端が赤、真ん中が黄色、下が緑の三色に染め分けられる。本堂の縁から三重の塔を背景にして見るのが最高。
「雨重き 葉の重なりや 若かへで」(炭 太祇)
「方丈に 今とどきたる 新茶かな」(高浜虚子)
映画のロケ舞台としても使われる所で、劇場版鬼平犯科帳では、鬼平と昔いきさつのあった荒神のおとよが街をゆく長谷川平蔵を見かける、という場面で使われており、おとよは三重塔向かいの茶所に大坂の白子屋配下の用心棒といて、鬼平は着流しで笠を抱え参道を本堂のほうから門のほうへ下ってゆく、というシーンであった。間隔のひろい石段と坂の途中にある灯籠が映っている。
また、朱も鮮やかな山門は、大目付筆頭・京極丹波が領地転がしで諸大名を手玉にとる話。幕府お耳役檜十三郎「大名馬鹿 罠にかかった6万石」で、河内守移封のきっかけとなった元妾が、十三郎に忠告されるも聞かず怒って立ち去るシーンに使われ、門では、鬼平の密偵・伊佐次が飴売りに身をやつして探索中の姿も見られた。吉右衛門版のテレビドラマシリーズの鬼平では、真如堂が多用されている。
所在地:京都市左京区浄土寺真如町。
交通:市バス5・17系統で真如堂前または錦林車庫前下車、徒歩10分。
阿弥陀如来立像には伝説がある。慈覚大師が30歳過ぎの頃、滋賀県の苗鹿(のうか)明神で根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥陀の形が現れたという。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊としたが、立像はそのまま持っていた。
その後、大師が唐(中国)に留学した帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏(いんぜいねんぶつ)の一節を授けた。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3㌢ほど如来を納めた。もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊に」と願うと、如来は首を振って拒否した。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言うと、如来がうなづいたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれている。
平安後期には、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、民衆の信仰を集めた。
応仁の乱の時、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は焼失。本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太(あのう)に避難。その後も京都室町勘解由小路(足利義輝邸)、一条西洞院(1477)を転々とした後、旧地にもどり再建された。その後、秀吉の京都大整備により京極今出川下るに移転(1578)するが類焼し、ようやく元禄6年(1693)東山天皇の勅により、再び旧地にもどり再建された。
本堂(重要文化財)は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立。十五間四面、総欅、単層入母屋、本瓦葺造り。正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付による。
本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉と桂昌院の寄進)の中には、本尊阿弥陀如来、不動明王(安倍晴明の念持仏)、千手観音が祀られている。
現在は本堂と三重塔(重文)を中心に、塔頭八院が建つが、その多くがこの時期に再建されたものである。
もう1つの見所は、東山(大文字山)を借景にした「涅槃の庭」である。
涅槃図(ねはんず)は江戸時代、宝永年間に描かれたもので、縦10㍍、横6㍍の大きさがある。彩色涅槃図であるのが珍しいと云われている。公開は3月1日~31日。
真如堂の宝堂に納められている寺宝を本堂で虫干しする行事、虫払会(むしばらいえ)が開催され、「真如堂縁起絵巻」3巻をはじめ涅槃図慈眼(じがん)大師関係の寺宝200点が、7月25日に一般公開される。
真如堂の風景で印象的なのは本堂前の石段。緩く、段の幅がたっぷりとられた特徴のある外見。石段の両側から覆い被さるように楓が枝を伸ばしている。
秋には紅に染まった見事な景色が見られ、また、その散紅葉は圧倒されるほどの美観である。初秋の萩も趣き深く、可憐に咲く萩の背景に本堂のぼんやりとした燈火が朧月にも見える風情をかもしだしている。
境内に紅葉の季節の訪れるのをいち早く知らせるのが、本堂前の井戸脇の「花の木」。十一月初旬から木の先から赤くなり出し、それが段々下に降りてきて、最も美しいのは先端が赤、真ん中が黄色、下が緑の三色に染め分けられる。本堂の縁から三重の塔を背景にして見るのが最高。
「雨重き 葉の重なりや 若かへで」(炭 太祇)
「方丈に 今とどきたる 新茶かな」(高浜虚子)
映画のロケ舞台としても使われる所で、劇場版鬼平犯科帳では、鬼平と昔いきさつのあった荒神のおとよが街をゆく長谷川平蔵を見かける、という場面で使われており、おとよは三重塔向かいの茶所に大坂の白子屋配下の用心棒といて、鬼平は着流しで笠を抱え参道を本堂のほうから門のほうへ下ってゆく、というシーンであった。間隔のひろい石段と坂の途中にある灯籠が映っている。
また、朱も鮮やかな山門は、大目付筆頭・京極丹波が領地転がしで諸大名を手玉にとる話。幕府お耳役檜十三郎「大名馬鹿 罠にかかった6万石」で、河内守移封のきっかけとなった元妾が、十三郎に忠告されるも聞かず怒って立ち去るシーンに使われ、門では、鬼平の密偵・伊佐次が飴売りに身をやつして探索中の姿も見られた。吉右衛門版のテレビドラマシリーズの鬼平では、真如堂が多用されている。
所在地:京都市左京区浄土寺真如町。
交通:市バス5・17系統で真如堂前または錦林車庫前下車、徒歩10分。