法相宗(ほっそうしゅう)の大本山「薬師寺」は、奈良県奈良市西ノ京町にある名刹で、南都七大寺のひとつに数えられている。本尊は薬師如来、1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
創建は天武9年(680)、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ/後の持統天皇)の病気平癒のため発願し建立された。6年後完成せずして天皇が崩御し、続いて即位された皇后(持統天皇)によって本尊開眼、更に文武天皇の御代に至り、文武2年(698)、発願より18年の歳月が費され、飛鳥の地、藤原京において七堂伽藍の完成を見た。当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇り、なかでも裳階(もこし)を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは「龍宮造り」と呼ばれて、人々の目を奪った。養老2年(718)に平城遷都に伴い現在の場所に移転。造営は大同3年(808)頃まで続いた。
しかし、天禄4年(973)の火災と享禄元年(1528)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。当時の建造物は東塔のみが現存した。
名物管長として知られた高田好胤(こういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、享禄元年に焼失した金堂は昭和51年(1976)に、西塔は昭和56年(1981)に、中門は昭和59年(1984)に、平成3年(1991)には回廊の一部がそれぞれ復元され、平成15年(2003)には大講堂も有縁の人々の写経勧進によって復元され、法相宗の始祖玄奘三蔵を祀る玄奘三蔵院伽藍も落慶した。
玄奘三蔵院は玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利とし、平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて、玄奘三蔵の歩んだ道をたどり描いた壁画が配されている。基本設計の段階で50枚以上の図面に7年の年月を要したという。中央の重層八角堂に頂骨と像を安置し、その奥に絵殿を建て礼堂から同時に礼拝できるようになっている。
白鳳時代の偉容を今日に伝える東塔(国宝)と再建された西塔。この二つの塔は一見六重の塔に見えるが、実は三重の塔。これは各層に裳階といわれる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれている。
東塔の東側にある建物が「東院堂」(国宝)で、養老5年(721)に皇女吉備内親王が母元明天皇の一周忌にあたって創建したと伝えられている。現在の建物は鎌倉時代後期の弘安8年(1285)に再建されたものだという。桁行7間(24.270m)、梁行4間(11.759m)、入母屋造り、本瓦葺きで、もとは南面だったものを、享保15年(1733)の修理の際に、いまのように西面させたもので、奈良地方における鎌倉時代の仏堂の代表的なひとつにあげられている。
中門は、天禄4年(973)の火災により仁天王像と共に焼失した。寛和2年(986)に復元されたが康安年間では地震による倒壊・再建を経て、享禄元年(1528)の兵火により再度焼失したまま復興をみることはなかったが、昭和59年に写経勧進により復興復元された。
南門は永正9年(1512)に再築されたが、現在の門は江戸時代に元の西門を創建当時の南門の礎石の中心部に移築したものである。切妻造の四脚門で、かつての平城京、六条大路に面していたという。
金堂の北、大講堂の横を通り、東僧坊の北東に向かうと、寺宝を収蔵・展示するために、建てられた大宝蔵殿・衆賓館がある。毎年4月29日~5月5日には、春の大宝蔵殿特別開扉、10月8日~11月10日の大宝蔵殿特別開扉では、吉祥天画像(国宝)をはじめ、寺宝の経文などが特別公開される。
国宝指定の「銅造薬師三尊像」(奈良時代)の中尊は「薬師如来」、脇侍に「日光菩薩」(にっこうぼさつ)と「月光菩薩」(がっこうぼさつ)を配している。中尊像の台座には、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれている。
大講堂内にある仏足石は、仏陀(釈迦)の足跡を刻んだもので、側面に長文の銘があり、黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたもので、天平勝宝5年(753)の作と知られる。
所在地:奈良市西ノ京町457。
交通:近鉄難波、京都から快速急行または特急で大和西大寺で乗り換え、各駅停車天理行きまたは橿原神宮前行きに乗車。西ノ京駅下車すぐ。
創建は天武9年(680)、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ/後の持統天皇)の病気平癒のため発願し建立された。6年後完成せずして天皇が崩御し、続いて即位された皇后(持統天皇)によって本尊開眼、更に文武天皇の御代に至り、文武2年(698)、発願より18年の歳月が費され、飛鳥の地、藤原京において七堂伽藍の完成を見た。当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇り、なかでも裳階(もこし)を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは「龍宮造り」と呼ばれて、人々の目を奪った。養老2年(718)に平城遷都に伴い現在の場所に移転。造営は大同3年(808)頃まで続いた。
しかし、天禄4年(973)の火災と享禄元年(1528)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。当時の建造物は東塔のみが現存した。
名物管長として知られた高田好胤(こういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、享禄元年に焼失した金堂は昭和51年(1976)に、西塔は昭和56年(1981)に、中門は昭和59年(1984)に、平成3年(1991)には回廊の一部がそれぞれ復元され、平成15年(2003)には大講堂も有縁の人々の写経勧進によって復元され、法相宗の始祖玄奘三蔵を祀る玄奘三蔵院伽藍も落慶した。
玄奘三蔵院は玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利とし、平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて、玄奘三蔵の歩んだ道をたどり描いた壁画が配されている。基本設計の段階で50枚以上の図面に7年の年月を要したという。中央の重層八角堂に頂骨と像を安置し、その奥に絵殿を建て礼堂から同時に礼拝できるようになっている。
白鳳時代の偉容を今日に伝える東塔(国宝)と再建された西塔。この二つの塔は一見六重の塔に見えるが、実は三重の塔。これは各層に裳階といわれる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれている。
東塔の東側にある建物が「東院堂」(国宝)で、養老5年(721)に皇女吉備内親王が母元明天皇の一周忌にあたって創建したと伝えられている。現在の建物は鎌倉時代後期の弘安8年(1285)に再建されたものだという。桁行7間(24.270m)、梁行4間(11.759m)、入母屋造り、本瓦葺きで、もとは南面だったものを、享保15年(1733)の修理の際に、いまのように西面させたもので、奈良地方における鎌倉時代の仏堂の代表的なひとつにあげられている。
中門は、天禄4年(973)の火災により仁天王像と共に焼失した。寛和2年(986)に復元されたが康安年間では地震による倒壊・再建を経て、享禄元年(1528)の兵火により再度焼失したまま復興をみることはなかったが、昭和59年に写経勧進により復興復元された。
南門は永正9年(1512)に再築されたが、現在の門は江戸時代に元の西門を創建当時の南門の礎石の中心部に移築したものである。切妻造の四脚門で、かつての平城京、六条大路に面していたという。
金堂の北、大講堂の横を通り、東僧坊の北東に向かうと、寺宝を収蔵・展示するために、建てられた大宝蔵殿・衆賓館がある。毎年4月29日~5月5日には、春の大宝蔵殿特別開扉、10月8日~11月10日の大宝蔵殿特別開扉では、吉祥天画像(国宝)をはじめ、寺宝の経文などが特別公開される。
国宝指定の「銅造薬師三尊像」(奈良時代)の中尊は「薬師如来」、脇侍に「日光菩薩」(にっこうぼさつ)と「月光菩薩」(がっこうぼさつ)を配している。中尊像の台座には、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれている。
大講堂内にある仏足石は、仏陀(釈迦)の足跡を刻んだもので、側面に長文の銘があり、黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたもので、天平勝宝5年(753)の作と知られる。
所在地:奈良市西ノ京町457。
交通:近鉄難波、京都から快速急行または特急で大和西大寺で乗り換え、各駅停車天理行きまたは橿原神宮前行きに乗車。西ノ京駅下車すぐ。
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