比叡山は東山36峯の北の端にあって、その中では一番高い山で、霊峰と崇められる由縁がそこにもある。都の北の鬼門にあたることもあり遷都を成した桓武天皇の加護も受けた歴史ある山岳寺院である。
東大寺の戒壇で具足戒を受けた最澄(伝教大師)は、延暦4年(785)、政治的争いから逃れて奈良での修学を中止し、比叡山に籠り独学で仏教の研究を始めた。延暦7年(788)、最澄が平安京の鬼門鎮護の為に山上で薬師如来を刻み、一乗止観院(現在の根本中堂)を建てたのが延暦寺の始まりと伝えられている。
遷都が行われた平安京は、藤原小黒麻呂の調査で風水と方位を司る四神相応の都であるとされ、東の青龍(鴨川)、西の白虎(山陽道・山陰道)、南の朱雀(巨椋池)、北の玄武(北山)が自然に配備されていた。そして、神門は愛宕山、鬼門は比叡山だった。
平安遷都は延暦13年(794)だが、この年の9月3日、桓武天皇臨席のもと一乗止観院で大供養が行われ、この時、南都七大寺の僧達も参加していたという。最澄は桓武天皇の信頼を得ていたようだが、都の鬼門に院を建てていたことから密接となり、最澄の人生が大きく変わったも研究者は述べている。そして、延暦15年(796)一乗止観院は国家鎮護道場となり、延暦25年(806)、桓武天皇から天台法華円宗を公許され、天台円教・密教・禅法・戒律の四宗兼学道場となった。弘仁13年(822)には嵯峨天皇から戒壇の設置を許され、翌年には延暦寺の寺号を与えられ、天台宗の総本山となる。さらにこの年、最澄は学問僧として入唐しており、この時、空海(弘法大師)も遣唐使に随行している。
平安末期には、3塔・16谷・ 3000坊を数え日本仏教の母山として確固たる地位を築き、比叡山で修行した僧の中より慈覚大師円仁、三井寺(園城寺)中興の祖・円珍や後の鎌倉仏教の祖師となる法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍などを多くの名僧・宗祖を輩出している。
比叡山は大きく三塔(東塔、西塔、横川)の地域に分けられ、これらを称して比叡山延暦寺と呼んでいる。
東塔には、最澄が建てた一乗止観院を発展させた一山の総本堂である国宝根本中堂があり、最澄が灯し1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が照らす中に本尊薬師如来像が安置されている。その他、東堂には一宗一派を開いた祖師像が安置されている大講堂をはじめ、戒壇院、文殊楼、法華総寺院、阿弥陀堂など重要な堂塔が集まっている。
西塔は最澄の高弟円澄が開いたところであり、山上で最も古い天台建築様式の釈迦堂、にない堂(法華堂・常行堂)、信長の焼き討ちで唯一残った瑠璃堂などがある。
横川は円仁が開いた比叡山の一番北に位置し、横川中堂、元三大師堂、恵心院などがある。
延暦寺に関わる大きな事件が二つある。
一つは智証大師円珍と慈覚大師円仁の門徒の争いで、もう一つは織田信長による焼打事件である。
貞観年間(859~877)に智証大師円珍が園城寺を天台別院として中興した。そして円珍の入滅後の事、延暦寺座主良源と園城寺座主余慶の間が険悪となり、また、正暦4年(993)、智証大師円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化、ついに円珍門下は比叡山を下り一斉に園城寺に入山。そして延暦寺の衆徒が園城寺の千手院に火を掛け、逆襲を受け延暦寺も焼失した。この時から延暦寺を山門(さんもん)、三井寺を寺門(じもん)と称し、それぞれ僧兵を増やし天台宗は二分されてしまった。この後の延暦寺は園城寺のみならず南都の寺院とも争いが始まり、また、日枝神社の御輿を担いで朝廷にも強訴を繰り返し、果ては、一方、奈良の興福寺の僧兵も平安京で大暴れしている。
白川上皇の、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という有名な言葉はこの頃のことを嘆いたものだった。
1100年代後半になると治外法権、無法地帯と化し、平清盛の時代に入っていく。そして慧眼を持った僧達は延暦寺から去り、法然、親鸞をはじめとする宗祖が誕生したのも混迷の時代という背景があったからかも知れない。
時代は、鎌倉、南北朝、室町を経て戦国へと移り、延暦寺が織田信長と対立し朝倉義景と手を結んでいたため、元亀2年(1571)信長による比叡山焼打に合い堂塔伽藍は焼け落ちてしまったことは知らぬ者はないだろう。後、延暦寺の再興は豊臣秀吉、徳川家康の経済的補助により進められることとなる。
交通:京都バス51系、京阪バス7系で「延暦寺バスセンタ-」下車。比叡山シャトルバスが、山内の東塔、西塔、横川などの間を走っている。
東大寺の戒壇で具足戒を受けた最澄(伝教大師)は、延暦4年(785)、政治的争いから逃れて奈良での修学を中止し、比叡山に籠り独学で仏教の研究を始めた。延暦7年(788)、最澄が平安京の鬼門鎮護の為に山上で薬師如来を刻み、一乗止観院(現在の根本中堂)を建てたのが延暦寺の始まりと伝えられている。
遷都が行われた平安京は、藤原小黒麻呂の調査で風水と方位を司る四神相応の都であるとされ、東の青龍(鴨川)、西の白虎(山陽道・山陰道)、南の朱雀(巨椋池)、北の玄武(北山)が自然に配備されていた。そして、神門は愛宕山、鬼門は比叡山だった。
平安遷都は延暦13年(794)だが、この年の9月3日、桓武天皇臨席のもと一乗止観院で大供養が行われ、この時、南都七大寺の僧達も参加していたという。最澄は桓武天皇の信頼を得ていたようだが、都の鬼門に院を建てていたことから密接となり、最澄の人生が大きく変わったも研究者は述べている。そして、延暦15年(796)一乗止観院は国家鎮護道場となり、延暦25年(806)、桓武天皇から天台法華円宗を公許され、天台円教・密教・禅法・戒律の四宗兼学道場となった。弘仁13年(822)には嵯峨天皇から戒壇の設置を許され、翌年には延暦寺の寺号を与えられ、天台宗の総本山となる。さらにこの年、最澄は学問僧として入唐しており、この時、空海(弘法大師)も遣唐使に随行している。
平安末期には、3塔・16谷・ 3000坊を数え日本仏教の母山として確固たる地位を築き、比叡山で修行した僧の中より慈覚大師円仁、三井寺(園城寺)中興の祖・円珍や後の鎌倉仏教の祖師となる法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍などを多くの名僧・宗祖を輩出している。
比叡山は大きく三塔(東塔、西塔、横川)の地域に分けられ、これらを称して比叡山延暦寺と呼んでいる。
東塔には、最澄が建てた一乗止観院を発展させた一山の総本堂である国宝根本中堂があり、最澄が灯し1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が照らす中に本尊薬師如来像が安置されている。その他、東堂には一宗一派を開いた祖師像が安置されている大講堂をはじめ、戒壇院、文殊楼、法華総寺院、阿弥陀堂など重要な堂塔が集まっている。
西塔は最澄の高弟円澄が開いたところであり、山上で最も古い天台建築様式の釈迦堂、にない堂(法華堂・常行堂)、信長の焼き討ちで唯一残った瑠璃堂などがある。
横川は円仁が開いた比叡山の一番北に位置し、横川中堂、元三大師堂、恵心院などがある。
延暦寺に関わる大きな事件が二つある。
一つは智証大師円珍と慈覚大師円仁の門徒の争いで、もう一つは織田信長による焼打事件である。
貞観年間(859~877)に智証大師円珍が園城寺を天台別院として中興した。そして円珍の入滅後の事、延暦寺座主良源と園城寺座主余慶の間が険悪となり、また、正暦4年(993)、智証大師円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化、ついに円珍門下は比叡山を下り一斉に園城寺に入山。そして延暦寺の衆徒が園城寺の千手院に火を掛け、逆襲を受け延暦寺も焼失した。この時から延暦寺を山門(さんもん)、三井寺を寺門(じもん)と称し、それぞれ僧兵を増やし天台宗は二分されてしまった。この後の延暦寺は園城寺のみならず南都の寺院とも争いが始まり、また、日枝神社の御輿を担いで朝廷にも強訴を繰り返し、果ては、一方、奈良の興福寺の僧兵も平安京で大暴れしている。
白川上皇の、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という有名な言葉はこの頃のことを嘆いたものだった。
1100年代後半になると治外法権、無法地帯と化し、平清盛の時代に入っていく。そして慧眼を持った僧達は延暦寺から去り、法然、親鸞をはじめとする宗祖が誕生したのも混迷の時代という背景があったからかも知れない。
時代は、鎌倉、南北朝、室町を経て戦国へと移り、延暦寺が織田信長と対立し朝倉義景と手を結んでいたため、元亀2年(1571)信長による比叡山焼打に合い堂塔伽藍は焼け落ちてしまったことは知らぬ者はないだろう。後、延暦寺の再興は豊臣秀吉、徳川家康の経済的補助により進められることとなる。
交通:京都バス51系、京阪バス7系で「延暦寺バスセンタ-」下車。比叡山シャトルバスが、山内の東塔、西塔、横川などの間を走っている。
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