伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

仕事の合間の、印旛では有名な名所「松虫寺」の見学、意外と古くから伝わる歴史ある寺の検証

2021年04月03日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

本日は午後から仕事で、現場に行く、荷物をチェックし2箇所の現場だが、特殊車輌の搬入のため、閉店後の箇所もあり、明るいうちに作業できる場所を進め夜間作業は早めに切り上げるようにした。

報道カメラ随一のニコンも一眼レフ事業から撤退すると発表され、先日オーディオ機器のオンキョウも終焉を迎えたそうであり、趣味性の高い製品は所詮ガレージメーカーとしか生きられない時代に突入したようです。
特にこのオーディオ機器については圧倒的お年寄りの世界それとも録音技術、音楽評論などの芸術製が乏しくなったのであろうか?今や若人はイヤホン、ヘッドホン利用で充分であろう、オーディオ機器は今や年寄りの趣味として続くだけの道になるか?疑問である確かに一部の年寄を覗き一般には暇はあるが金が無いのだ。そうような時代になってもやはり「いい音」で音楽を聴きたいのである。


庭にはさくらんぼが実る桜の木にも花が咲き始める。花ニラは随分削除したが、残した所には花が咲きだした。

昼食を頂き現場の向かう、場所は印旛日医大方面で駅近くの公園には、下記のようなオブジェがあり前から不思議に思っていた。
その疑問は本日解決された、近くの松虫寺に見学に拝観し解決しました。



牛とそれに乗った女性が佇み、ある程度清楚な感じもする。仕事は2時間ほどで出来る作業は終了し、20時過ぎまで一旦長めの休憩です、勿論夕食には早く、前から気になっていた場所「松虫寺」に散策を兼ね行った。

正式な寺名は「千葉県印西市にある真言宗豊山派の古刹です」

印旛日医大駅からも意外と近いところにひっそりと佇む、いかにも古そうな寺「千葉ニュータウン印旛日医大地区に隣接する松虫寺 (まつむしでら)」
松虫寺は、聖武天皇が僧・行基に命じ形像6躯を造らせて七仏薬師を刻ませ、また都の工匠たちをこの地に遣わし、その薬師をまつる大きな寺を建てさせました。寺は姫の名に因んで松虫姫寺と呼ばれ地名も松虫となりました。

筆者などはこのあたりは松虫が多く発生する地区かな?と思った事は確かで、調べて見ないと分からないもので女人の名前とは知りませんでした。



先日ある日本の歴史書を見たときの記事の中にに、日本の暮らしの姿は縄文時代から兼業農家で穀類、野菜を耕し山のタンパク質、海のミネラルを吸収しバランスの良い生活をしていた。現に寿司屋に行けば多種の魚、白身、赤身、貝類が並ぶ、海外では考えられない多種の魚類が並ぶ国は珍しい環境下に住むことの尊さなんだそうです。正に食事は大変豊かな文化圏であったそうである。

天平の頃、聖武天皇の第3皇女松虫姫は幸せな日々を送っていました。いつからか病臥の日が多くなりました。ある日、下総萩原の薬師如来が姫の夢枕に立ち、「東国に下向して祈れば難病も癒ろう」とのことでした。そこで天皇は姫を牛の背に乗せ、行基が随って下総に来ました。下総の印旛にある萩原の地に着くと、姫は草案を結び、一心不乱に祈りをささげ、ついにその病に打ち勝ったとされます。
寺は「摩尼珠山医王院松虫寺」と呼ばれます。七仏薬師像は明治の神仏分離令により、神社の所管に移されています。境内には、六所神社、松虫姫神社が建てられています。


言い伝えの石碑もあります。近くにすみ30年ほどになるが、訪れたのは初めてで、先程駅近くの公園の謎も解明された。
公園には、牛むぐりの池と明記されている、ここで問題は牛の方。牛はずっと一緒にいた姫との別れに哀しみ暮れました。そして自ら池へ投身。牛は亡くなってしまいます。村人たちはその牛を哀れ、「牛むぐりの池」として伝えられることになります。
松虫姫公園にあるあの牛のモニュメントの意味はここにあったんですね。今はもう整備されてしまった公園の池ですが、この池はただの調整池ではなく、このような物語が語れ継がれる場所だったのです。

松虫寺所在地は〒270-1602 千葉県印西市松虫7です。
入り口からは見えるは意外と落ち着いた山門です。勿論仁王像もあります。


当寺の創建は奈良時代の天平15年(743)、聖武天皇が僧行基に命じて創建されたと伝えられています。はじめ三論宗のちに天台宗、そして真言宗豊山派に所属し現在に至っています。

山号は摩尼珠山(まにしゅざん)と称し、寺号は松虫寺(まつむしでら)と言い正式には摩尼珠山医王院松虫寺と掲示してあります。


山門を横から撮影、今回は16時となり撮影には少し暗い条件で、全体に暗い(アンダー目)の写真にはご容赦ください。
仁王像二体です。のぞき穴からの撮影で仁王様が見下ろしているお姿です。本殿向かって右側の仁王像。


もう一体、流石迫力ある姿に圧倒される。本殿向かい左側仁王像。


覗き窓から見える仁王像は大変迫力満点で下から見上げるお姿は立派であります。
そして山門をくぐると本殿がみえます。



境内に入場すると、様に桜の季節で散り際ですは、2種の桜、八重の桜が綺麗でした。

本尊は、平安後期に改刻された七仏薬師群像で藤原彫刻の特色を伝える優像として昭和34年に国の重要文化財の指定を受けました。榧材を用いた一木造りの彫眼像で彩色は施されていません。現在は保存庫としての役割を担う瑠璃光殿に安置されています。


南面する建物、仁王門と薬師堂は江戸時代の享保3年(1718年)に八代将軍吉宗公の援助を受け江戸板橋の大工 源太夫によって改築されました。

「摩尼珠山」の山号額は讃州松平家の儒者 佐々木 文山の筆。
薬師堂の扁額「瑠璃光」は釈 雲照の筆。
瑠璃光殿の掲額は真言宗豊山派管長 故平林 宥高大僧正の染筆。

 西面する四脚門と本堂は慶応元年(1865)年の建立で本堂内には阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をお祀りしています。薬師堂の裏手にある松虫姫御廟は姫薨去の際、遺言によりご遺骨を分けて埋葬されたものと伝えられています。


七仏薬師瑠璃光如来(国重文)
坐像の中尊を中心に、脇に小さな立像が3躯ずつ左右に並ぶ形式で、平安時代初期に中央から地方に広まった、いわゆる七仏薬師と考えられる。いずれもカヤ材の一木造で、像高は、中尊坐像が54.3㎝、立像はいずれも38㎝の小像群である。中尊と立像は、着衣の形において違いがあること以外は、作風や顔の形などはまったく同じであり、同一仏師による一具のものとして、平安時代末期に造像されたと考えられる。

 普通は、七仏が光背に取り付けられたり、描かれたりする場合が多く、松虫寺のこの像のように坐像と立像の組み合わせの例は他に知られていない。古い様式の七仏薬師は全国的にみても珍しく、この松虫寺と滋賀県の鶏足寺だけであるそうです。



本堂参拝、意外と手入れが行き届き全体に清楚で美しい。
隣に小さな寺がある、本殿向かって右側の「六所神社」このあたりの新緑は綺麗で、丁度桜の時期と重なりコントラスト華やかな感じが綺麗でした。


また境内の大きな木が植わっているが樹齢何年になるのであろうか?


入り口付近にも大きな木が植わっていて、歴史を感じる轟々とした木である。

次が松虫姫神社である、本殿左側にあり遠目で見ても色彩が艶やかである。
今から約千二百年あまり昔のこと、奈良の都は聖武天皇のご治世、天皇三番目の姫としてお生まれになったのが松虫姫(不破内親王)です。大変、美しいお姫さまとの評判でしたが十四歳の時、重い病気に罹られました。


都の名医たちが八方手を尽くしても効果なく困り果てておりました。ある夜、姫の夢枕に白髪の老人が現れ「私は下総の国萩原村(現在の印西市萩原)の出戸の薬師如来の使者です。お姫さまが萩原の里まで下られてご参籠なされば、その病は必ず治るでありましょう」とお告げがありました。姫がこの事を父君陛下に申し上げますと、天皇はそれを当時の名僧行基僧正にご下問になり、僧正の進言により姫は下総の国へと下られる事になりました。

姫を牛の背に乗せ、お供として行基僧正、姫をお育てした乳母の杉自(すぎじ)、警護として武士の権の太夫、ほかに召使が三人という少人数で道なき道を分けながらの長い旅が始まったのです。
姫は都に帰りました。ご両親陛下を始め一同の喜びは例えようもありません。


よく見ると象の彫刻もあり手の込んだ作りは歴史を感じる。皇室ゆかりの由緒ある寺院だと思いました。変哲もない建物だが隅々まで細工を施している様子である。



せっかく治った病気でしたが、姫は短命で若くして世を去りました。姫の遺言『私が死んだら火葬にして骨の半分を下総の国のあの薬師堂の裏に葬ってほしい』との言葉が守られ、お骨は使者に抱かれて再び下総に下り薬師堂の裏へ葬られました。

朝廷の命により、出戸の地は萩原村から分けて松虫村とし薬師堂と姫の墓を守るために寺を建てました。これが松虫寺です。今も松虫姫のお墓が残っていますが、撮影は暗くて出来なかった。
乳母の杉自の墓は、寺の北五百メートルほどの所に『姥塚』として残っています。


最近歴史を調べますと、世界でもこれ程長い間、天皇を中心に歴史を持つ国は日本だけである、中国三千年の歴史といえど、中共は前の皇帝が亡くなると全てを殺し全く新たな国を作り変化していった歴史は本来の史学と言えない。勿論欧州も同様で二千年以上続く皇室の歴史は日本だけである。日本人として誇りは持ちたいものである。
また意外と近くにこの様な歴史ある寺があった事は全くしりませんでした。その後夕食を頂き無事仕事も終了しました。
次は天気も良く早い撮影条件の良い時期にゆっくり散策します。ブラボー!

追伸、
最近明智十兵衛に関する新しい解読がされていると聞きます、信長の「是非に及ばず」の言葉の意味と光秀の「敵は本能寺にあり」の号令は発してなかった。非常時に何があったのか光秀、信長との展開に興味が湧きます、本能寺の変は秀吉のほら話も交じる展開とも言える顛末が述べられている、其のように考えると秀吉は無類の知恵者とも思うが、悪の権化とも思う、黒田孝高(官兵衛)が一口、口を滑らせた「殿今がチャンス」と言った為大出世は出来なかったことを思えば、相当の悪知恵(猿知恵)が働くものであったのであろう。

まだ知れれていない本当の事実があるように思うのは筆者だけなのであろうか?勿論漢字も読めなかった秀吉が勉学に努力し三国志の史実も知り、全くの不思議な事が多く今後の史実も注目してみたいと思う次第である。