1/8(水)ふくおかウォーキング協会今年最初のウォークは、「西鉄大橋駅・高宮駅界隈の三社詣り」でした。
集合場所は、西鉄大橋駅。参加者は、38名。
9:38 スタート
先ずは、熊野道祖神社へ御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 久那斗神 (くなどのかみ) 八衢比古神(やちまたひこのかみ) 八衢比売神(やちまたひめのかみ)
由緒
熊野神社は古より塩原の射場「塩原中央部」に伊邪那岐命を祭祀せられ、道祖神社は塩原イトリサヤ「塩原四丁目芸工大前」に久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を奉斎しておりましたが、昭和十二年両者が合祀せられ現在の熊野道祖神社となったのであります。
文献では「古事記」上巻伊邪那岐命が黄泉国より帰られる段に「亦塞其黄泉坂之石者號道反大神、亦謂塞其黄泉大神」(そのよみどのさがにさやりまししいしはちがえしのおおかみ、またのなをさやりますよみどのおおかみ)とあるのが最初で即「道反大神(ちがへしのおおかみ)、またの名塞坐黄戸大神(さやりますよみどのおおかみ)」とも呼ばれ、巨石を以て象徴し衢路(みち)に坐して悪霊を防ぐ神でありまた一方古典に見ゆる岐神(ふなどのかみ)(久那斗神、船戸神)とも申し上げます。何れも王朝の昔より悪疫を塞ります神並に旅行の幸福を守護し給ふ神とも信仰せられ、
総括的にはサイノ神と申し奉ったものであります。
道祖神社の神域は、昼尚暗き樹木に覆われ周囲は水田地帯でありましたが、昭和二年四月七日福岡県立筑紫中学校が道祖神社の境内を含む塩原に開校せられ、同校建設の際、社地の樹木を
漫りに伐り忽ち病等其他不慮の災害に罹った者が多く、斯る御神威に鑑み強いて移轉せしむる事は神罰の恐れ尠からずとして遂に此儘据置かれる事になったのであります。
この霊験あらたかなる神明照覧加護の下、交通安全、商売繁昌、学業成就、夫婦和合、旅行安全、開運、厄除、各種祈願成就の為県内はもとより、遠隔地から多くの参拝者が訪れて居ります。
明治以前から塞神又は道祖権現或は葛権現と稱して崇敬され、今日に及んで居りますが其名も著き神秘なる一例を挙げると、明治二十一年の大暴風の際、倒れたる神木が一夜の間に自ら起き直り
今尚森々として繁茂し榎の大木が自然の造形其のままに四季折々の変化を遂げ、参拝者の心を慰め鬱蒼たりし千古の森も依然として尊厳を保持せられて居るのであります。
先の、福岡市計画事業塩原地区区画整理事業の実施に伴い、新大橋駅前一号線「新大橋駅より北方三〇〇米先の下辻堂井尻線に交叉する」幅員二十二米道路が境内地中央部を縦断することと
なった為、神殿を新築移転、諸設備の改装の止むなきに至った次第であります。昭和五十三年境内地模様替報告祭を奉仕して、諸工事に順次着工、その間御神霊御加護のもとに関係者各位の
ご協力に依りまして、昭和五十七年十一月八日本殿遷座祭、同年十一月二十日本殿遷座奉祝祭の重儀を滞りなく斎行致し、昭和五十九年三月を以ちまして境内整備事業の一切を完了致した次第で
ございます。(境内案内看板より)
この神社は、初めてお詣りしました。
地禄神社、塩原中央公園を通ります。
塩原中央公園には、保育園児が遊びに来ていました。園児を見るとウォーカーの皆さんの顔がジージ・バアバになるんですね。グータッチをして別れました。
清水の大楠というのがあります。
かつては、背が高く大きな樹冠がここから北に8kmほど離れた名島橋からも見えたそうで、昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で燃えました。幸い樹皮の奥までは、火が回らず済んだそうで
再生しています。幹回りは9,7m。
ここでふくおかウォーキング協会あてに電話がかかり応対していたら、もう皆さん先に行かれていて探すけど見つかりません。
仕方ないので次の休憩地「西鉄高宮駅」に向かいます。そこでやっと合流しました。
高宮駅から高宮八幡宮に向かいます。
高宮地区は、福岡市内でも高級住宅地の一つです。高宮八幡宮は、「高宮」の町名の由来にもなりました。
八幡宮まで上りが続きます。
当高宮八幡宮は社記によれば、天智天皇磐瀬行宮にあらせられた時、神功皇后ゆかりの地として、この所を御奉祀あらせられたという。
その後、寛仁年中(1017年頃)岩戸小卿大蔵種直に至りて社殿を造営して武運を祈り、代々崇尊、南蛮夷の賊並に刀伊の賊討伐の際、最も神威を顕はし給うたという。又、建久年中(1190年頃)原田家が怡土郡の高祖城に移ってから、当神社を高宮の西南、宮の尾に遷し、高宮・平尾・野間三村の氏神、那珂郡の鎮守の神として里人の崇敬を集め神域は高燥の地を占め、老樹鬱然と幽邃を極めた。
関が原の役後、黒田長政公入国後は、当社を武運祈願の神社として木造の鳥居の御寄進がありその地を鳥居の下と云い、流鏑馬奉納の地を馬場と云い伝えており、慶長七年(1602年)本営を古営の跡東南の地に遷座し奉り、分霊を平尾・野間の両村へ勧請して現在に至っている。
又、当宮は古く安産の守神として宇佐八幡宮から勧請して奉祀してあったが、三百七十年余前、黒田藩の武士が妻の安産祈願をしたところ、玉の如き男の子を出産した。この子が長じて十七才の時、一本の棒を持って諸剣士と試合をなし、電光石火、急所を突いて次々と相手を打ち負かした。これが黒田藩独特の杖術を始めた夢想権之助である。夢想権之助は神社神域の隣、大森二郎氏の先祖と共に、黒田藩の指南役として奉仕した。この縁によって後に当社を黒田藩の杖術槍術の祈願社とされた。
なお、現在黒田藩に残る抱大砲の西洋兵術は、肥前鍋島藩と共に長崎からいち早く伝わったものであるが、この砲術発達の基礎となった。両脚を開き、腰を落して前かがみになり、臍下に力を入れて火薬に火が付くのを待つ。この腹力の入れ方は、権之助が始めた杖術の呼吸を学びとったものである。
平成二年十一月吉日改装 本文井上瑞衛撰定 不破又一郎謹書(境内由緒掲示板より)
境内には、ハート型の石があり、恋愛運・縁結びにもご利益があるそうです。
坂道を上り、多賀・大池地区を通ります。
歩いていると階段の傾斜が70度ぐらいの階段がある民家がありました。手すりもなくどうやって上るのでしょうか?
三つ目のお宮は「若久住吉神社」です。
● 御 祭 神
当若久住吉神社は底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神を祭神とし、相殿に神功皇后 菅原神社(菅原道真)を合祀します。blue ● 御 由 緒
住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされた時に、志賀神社の御祭神、ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって当社の御鎮座は遠い遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。
祭神菅原神は大字若久字天神に無格社天神社として祭祀してありましたが、大正13年10月14日許可を受け、明細帳編入と同時に合祀されました。
● 社 殿
約1800年前、第14代目仲哀天皇の皇后となられた神功皇后が熊襲叛するに及び、天皇とともに西征途中、天皇が香椎で崩御のあと新羅を征して凱旋され、誉田別皇子(後の応神天皇)を筑紫で出産されましたが、新羅から帰国されたとき、ここに立ち寄られ、ここに神社を建てようとされたということに起源しております。
一説には、約380年前に、この附近のお金持ちの人たちがこの地をならして当時の国主、黒田長政によって、住吉三神と神功皇后、天神様となった菅原道真公のご神徳を奉賽して造営されたものと伝えられています。
その後老朽化したため、現在の社殿は昭和39年、地元の金子市作、大野惣次郎、国武英太氏らの篤志家によって改築されたものであります。
● 境 内 平 地
境内平地には天保6年4月の鳥居、つづいて注縄掛石に左に(神光長明)右に(松寿千古)とあり昇格記念として大正15年10月の建立と刻まれています。
● こまいぬ(狛犬)
社殿の前に据え置かれた一対の獅子に似た狛犬の像は昭和60年3年10月、地元の三浦久・三浦千代子ご夫妻同じく三浦郁夫・三浦美春ご夫妻のご寄進によるものであります。
● 神 殿
神殿後方には若久公民館があり、なげしには明治、大正の絵馬が四枚掲げられています。
● 境 内 地
総面積約二千坪で周囲は竹林と鬱蒼とした樹木に圍まれ神々とした神域を醸しています。
社殿の正面左手には、黒田長政公の植樹と伝えられる山桃の木が亭亭とそびえ、御祭神の禊祓に房わしい御神木 として大切に保存されています
25年初のウォーキングですのでここで記念写真を撮ります。
若久住吉神社からゴールの西鉄大橋駅に向かいます。
12:40 大橋駅にゴールしました。