よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№3草加宿~越谷宿(埼玉県草加市~越谷市)

2019-05-26 10:41:35 | 奥州街道(日光街道)

草加松原を過ぎ綾瀬川の蒲生大橋を渡ります。この橋が草加市と越谷市の市境です。

  

蒲生大橋を渡った所が「蒲生の一里塚」です。日本橋から5番目の一里塚です。

 

一里塚の横には、「藤助河岸跡」。案内板を見ると、綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。

当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに

江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。  明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、特に中川通りは寄洲の堆積で

大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。このなかで陸羽道中(旧日光街道)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、

大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。

その出荷高は、舟の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間1万8千駄、着荷は2万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。 

なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助十八代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。

 

不動明王道標:享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と刻まれ、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。

清蔵院: 天文3年(1534)の創建で山門は寛永15年(1638)の建立。「龍」の彫刻は、名人左甚五郎作と伝わる。夜な夜な山門を脱け出し畑を荒らしたところから金網で囲われている。

  

窮民救済の碑: この石碑は、天保9年(1838)1月に観音堂敷地内に稲垣宗輔らが建立した碑である。稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏、池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曾根村名主

中村彦左衛門重梁の次男である。この日を要約すると、名主中村彦左衛門は、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金をしていたが、天明年間の凶作年に御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え

飢餓より救った。重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣宗輔はこれを受け、文政9年(1826)浅草猿屋町会所御貸付所に百両を預金し、天保7年(1836)の大凶作に

そこから92両をおろし、瓦曾根村の窮民92名に1両づつ施金してこれを救った。銘文と歌は、恩間村の国学者渡辺荒陽によるものである。

  

越ヶ谷宿の中心部にやってきました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は、1005軒、うち、本陣1、脇本陣4、旅籠52軒で宿内の人口は、4603人(男2272人、女2331人)でした。

宿並は、明治7年(1874)と明治32年(1899)の大火で灰燼に帰してしまいました。現在の人口34万人。

宿場内を歩いてみると奥まで黒塀が続く古民家や、黒塗りの古民家なども見られます。又、古くからの荒物屋、金物屋さんが目につきます。そんなに需要があったのでしょうか?

 

   

 

  

元荒川に架かる大橋を渡ります。

  

渡った所が昔の本陣、脇本陣があった所です。残念ながら、案内板もなくガイドブックを頼りに探します。

   

宮内庁埼玉鴨場というのがあります。鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)皇室用の遊猟場として建設されました。約11万7000㎡の敷地の中に約12000㎡の鴨池があります。

勿論立ち入り禁止です。

下間久里香取神社には、獅子舞があります。下間久里の獅子舞は、1594年(文禄3年)に京都から伝わったとされ、昭和54年に埼玉県の無形民俗文化財に指定されました。雨下無双角兵衛流とも呼ばれ、

埼玉県東部や千葉県西部の獅子舞行事の源流とされており、春日部市や千葉県野田市に伝わったとされる記録も残っています。  現在は毎年7月第3日曜日に行われ、神社で獅子舞が奉納された後、

家内安全や五穀豊穣を祈願し、丸一日かけて地域の家々を回ります。

  

日光街道参考書には、この近くに「秋田炉(しゅうでんろ)跡」があるように書いてますが、探すけど見つかりません。近くの家で聞きますが、「知らない」とのこと。仕方ないのでそのあたりを探していると

昔から住んである農家の方に聞いてみました。「確か上原さんの所じゃないかな?参勤交代で秋田藩佐竹侯が立ち寄った・・・」と教えていただきました。

参考書には、この辺りは、「間久里(まくり)の立場」で8軒の茶屋が軒を連ねていた。中でも「秋田屋」(上原家)には、参勤交代の秋田藩佐竹侯が必ず立ち寄り名物の「鰻蒲焼」に舌鼓を打った。

秋田屋には、藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があった。

※越谷秋田屋で検索すると、越谷駅前に「秋田家」というお店があった。この秋田屋の流れだろうか?

  

街道は、国道4号線に合流します。時間は16:10を過ぎたころです。地図を見るとこの先に東武の「せんげん台」駅があります。今日はここまでとします。

 


日光街道№2梅島駅~草加(東京都足立区~埼玉県草加市)

2019-05-24 11:29:42 | 奥州街道(日光街道)

4/28(日)晴れ 前日ゴールの東武梅島駅に移動。8:25ウォーキング開始。

しばらく歩くと「将軍家御成橋 御成道松並木跡」の標識があります。隣には、写真には写っていませんが、「南無妙法華経題目碑」があります。

 

マップを見ると「国土安穏寺」というのがこの近くにあります。名前に興味を抱き、コースからは外れますが、行ってみました。

国土安穏寺は、応永17年(1410)創建。安穏寺八世日芸上人が「宇都宮釣天井事件」を予言した所から徳川家の祈願寺となり「葵の紋」の使用が許されました。将軍専用の御成門が建てられ、御成道が

造られました。境内には、家光公御手植之松があります。

   

鷲神社は、文保2年(1318)創建、島根村の鎮守。享和2年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区有形文化財指定。

 

増田橋道標から増田橋を渡ると、埼玉県草加市になります。

 

谷塚駅入り口の所に「富士浅間神社」があります。浅間神社の創建年代は不詳ですが、他所に祀られていた当社を明暦年間(1655-1657)当地へ遷座したといいます。明治6年村社に列格、

明治40年・明治42年に周辺の無格社9社を合祀したといいます。

火あぶり地蔵尊
昔々、千住の掃部宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生懸命働きました。

生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。

ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、

娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に

面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、

しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。

悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。

幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。

しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所に

お堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。お地蔵さんは現在、旧四号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。

   

草加といえば、煎餅の町です。歩いていると煎餅のお店が建ち並んでいます。

草加は昔から米どころと言われ、多くの米がとれたことから、農家の人たちは余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていました。

江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになりました。このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。当初は生地に塩を練りこんだもの

でしたが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになりました。

明治後半になると煎餅屋が増えていきますが、当時はお煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていました。

大正時代以降、煎餅の認知度は高くなります。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにあります。これが「天皇家が召し上がったおいしい草加の

煎餅=草加せんべい」として名称が広がっていきました。このころから煎餅づくりは地場産業として発達していきました。(草加市HPより)

東武草加駅前には、「おせんさん」が煎餅を焼いている像があります。

因みに「草加」の由来は、千住から越谷間は沼地が多いため、東側の八条(八潮市)から古利根川沿い迂回する遠回りのコースを強いられていた。 これを慶長11年(1606)に地元の大川図書が、

低湿地帯を草を束ねて敷いた上に土で固め、その上にまた草を束ね敷いて土で固めるというやり方を繰り返して、千住と越谷をほぼ一直線の新往還道を造成した。 この「草」を「加」えて道を造成したところで

あったので、「草加」と名づけられたという。 その後この道を通る人々が急増したため、寛永7年(1630)大川図書が幕府に願い出千住と越谷の間の宿として、草加宿が成立した。といわれています。

現在東京にも近く、都市化が進み、人口24,4万人の市です。

   

江戸の豪商、浅古氏が 子育て地蔵尊として寛 文7年(1667)に建て た。旧大和屋本宅角に あった屋敷神で現在市 役所の一角にある。12 月を除く毎月24日に扉 が開き、この日にお参 りすると子供の

病気が 治ると伝えられています。草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は、江戸店を出し、全国第二位の質屋でした。

  

回向院は、浄土宗のお寺で元禄14年(1701)創建。旅籠屋武蔵屋が抱えていた飯盛り女のお墓があります。

  

八幡神社:草加宿下三町の鎮守。獅子頭雄雌一対は市の指定有形文化財です。

  

草加宿は、この地一帯は、沼地が多く街道は大きく迂回していました。大川図所は、幕府に願い出て千住~草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し、慶長12年(1607)草加宿を創設した。

天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は723軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠67軒で宿内人口は3619人(男1693人、女1926人)でした、宿並は、天明4年(1784)と明治3年(1870)の

大火で灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

  

藤城家住宅は、明治初期の町屋造りで国登録有形文化財建造物に指定されています。

 

おせん茶屋公園

 

  

草加宿神明庵: 江戸時代末期の町家建築「久野家(大津屋)」を改修・保存し、草加宿を訪れた人たちや草加市民のための「お休み処」として、2011年7月にオープンしました。

現在、草加宿神明庵運営協議会のメンバー18人と、運営ボランティアスタッフの40人で運営され、4人のスタッフが常駐しています。1階は観光案内所、お休み処、2階はギャラリー。

  

神明交差点の所に「おせん公園」があります。どうも紛らわしいのですが、先ほど通った公園は、おせん茶屋公園です。

ここには、「草加煎餅発祥の地」の碑が建っています。草加の茶屋のおせんがつくる団子は、旅人に評判だった。それまで売れ残った団子は川に捨てていたのだが、ある日それを見た武者修行の侍が

「団子を捨てるとはもったいない。その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売ってはどうか」と教えた。早速作って売り出したところ大評判になり、日光街道の名物になったという。

そのすぐ横には、「河合曽良」像があります。河合曽良は、芭蕉の門人で「奥の細道」に随行し、「曽良旅日記」を著しました。信濃の国下桑原村(現長野県諏訪市出身)

 

草加松原にやってきました。

草加市は、江戸時代の日光街道の宿場町で、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の第1日目にも記されている。松並木のある地域は札場と呼ばれ、古くから草加宿の北の拠点で、綾瀬川の舟運で栄えた札場河岸があった

太平洋戦争後はこの日光街道は一般国道4号として東京と東北地方を結ぶ重要な幹線道路となり1967年(昭和42年)の草加バイパス完成後は埼玉県に移管されて1973年(昭和48年)に県道足立越谷線になった。

日光街道の草加松原の松並木は、一説によると1683年(天保3年)の綾瀬川改修時に、関東郡代伊奈半十郎忠篤が植えたと伝えられており、「千本松原」と呼ばれ古くから親しまれてきた。

1877年(明治10年)頃には806本あったマツが、戦後高度経済成長期のモータリゼーションによって急速に普及した自動車の排ガスの影響で枯死が続き、一時は60本余りまで減少した。このため、

地域住民により保存の機運が高まり、1976年(昭和51年)には草加市民による「松並木保存会」が結成され、マツの植樹と手入れが行われた結果、現在の520本余りまで回復した。1983年(昭和58年)には、

松並木の保存を図るため都市計画街路事業により松並木内にあった県道足立越谷線の車道を外側に移築して遊歩道化を行った。また1985(昭和60年)からは、埼玉県と草加市の協力により、

埼玉シンボルロード整備事業に着手し、その3年後に歴史ゾーン、イベントゾーン、シンボルゾーン、松原ゾーン、せせらぎゾーンという水と緑の調和する5つの空間エリアを完成させた。(ウィキペディアより)

現在、松の数は、東京スカイツリーに因み、634本だそうです

  

草加松原は、1,5kmの遊歩道です。芭蕉の像も建っていました。

ここには、芭蕉の句の他に、高浜虚子、水原秋桜子などの句碑もありました。

  

太鼓橋の矢立橋からは、何と富士山が見えました

  

 

 

遊歩道の真ん中あたりに「お休み処」がありました。入ってみると、お茶と草加煎餅をサービスしていただきました。

  

 

  

 


日光街道①「日本橋~梅島駅」その2

2019-05-22 04:30:11 | 奥州街道(日光街道)

その1からの続きです。

泪橋交差点から荒川区に入ります。ここから千住宿です。

 

しばらく歩くと左側に素盞鳴神社があります。ここには、芭蕉が奥の細道をスタートした句があります。芭蕉の矢立は、後ほど紹介します。

  

千住大橋を渡ります。隅田川に架かる千住大橋を渡ると足立区です。千住大橋には、松尾芭蕉の「おくの細道矢立初の碑」があります。

 

「月日は、百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。・・・・・・」という書き出しで始まる「おくの細道」は、 

元禄2年(1689)3月27日(陰暦。現在の暦では5月16日)、46歳の松尾芭蕉は、弟子の曾良を伴として江戸の深川を出発し、ここ千住に到着。その後陸奥、出羽、北陸の各地をまわる旅に出ました。

そして8月21日、美濃の大垣に到着。この156日間、476里余に及ぶ長旅の中で、特に印象に残った出来事をまとめたのが、紀行文「おくのほそ道」です。

千住では、「千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそそく  行春や鳥啼魚の目に泪  是を矢立の初として行道なをすすまず、人々は、

途中に立ならびて、後かげのみゆるまではと見送なるべし」と書いています。

 

 

 

千住宿に入りました。千住宿は、天保14年(1843)によれば、宿内家数は、2370軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で人口は9956人でした。

歩いていると「やっちゃ場」というのが目につきます。足立区のHPによると、千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街

でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4(1576)年になりますが、史料によれば、

公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、

それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師(なげし)といわれる人たちです。大正期には130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。

そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたといいます。

 

   

  

源長寺は、将軍の鷹狩の際に御膳所となり脇本陣も兼ねていました。

  

千住宿宿場町通りに来ました。千住宿の本陣は、100円ショップの前にありました。ここで雨が・・・・・・とっさにお店の軒先に逃れ雨をしのぎます。

  

雨は、5分ぐらいで止みました。

  

横山家住宅は、地漉き紙問屋で伝馬屋敷の面影を残しています。

吉田家は、絵馬を始め、地口行燈や凧などを描いてきた際物問屋です。

  

   

荒川に架かる千住新橋を渡ります。

  

東武梅島駅に来ました。現在時間は、16:00丁度。今日はここまでとします。

 

今日のGPSです。距離は14,5kmでした。

 


日光街道①(日本橋~梅島駅)その1

2019-05-16 04:59:11 | 奥州街道(日光街道)

2019年4月27日のゴールデンウィークから「日光街道」を歩き始めました。今回は、山と渓谷社発行の「ちゃんと歩ける日光街道」という本を参考に歩きたいと思っています。

この日、福岡発7:00の飛行機で東京に行き、羽田から京急で日本橋に行きました。昨年12月東海道・日本橋ゴールして以来の日本橋です。

  

10:40日本橋をスタート。

長崎屋跡:江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していた

オランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して

江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは4年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、

長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。

鎖国時における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。(中央区の遺跡より)

 

 
郡代屋敷跡:江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。

 関東郡代は、徳川家康が関東に入国したときに、伊奈忠次(ただつぐ)が代官頭に任命され、後に関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。

その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。

伊奈忠尊(ただたか)が罪を得て失脚した寛政4年(1792年)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。

文化3年(1806年)に焼失した後、代官待ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。  

浅草橋を渡ると、台東区です。ここには、浅草見附跡があります。神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が

浅草見附と呼ばれ、寛永13年(1636)に作られ江戸防衛の要でもありました。明暦3年(1657)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出した。

こうした悲しい出来事もあったが、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも

浅草御門付近であります。現在は橋のたもとに碑が立てられています。

  

歩いていると、テレビでよく出てくるところが多く、目をきょろきょろして歩いています。

銀杏岡八幡神社は、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられます。

また、この神社は、子守唄発祥の地です。江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し高く評価される「童謡集」は、釈行智の著によるものです。行智(1778~1841)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同に

より、享和3年(1803)別当寺として勧請された覚吽院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職になります。行智は、子守唄を「寝させ唄」「目覚め唄」「遊ばせ唄」と分類し、子供の暮らしの背景が

よくわかるように書き残すなどして伝承に努めました。

注)「寝させ唄」:♪ねんねのおもりはどこへいた・・・・・♪ 「目覚め唄」:♪お月様幾つ・・・・・♪ 「遊ばせ唄」:♪うさぎうさぎ何見てはねる・・・・♪

このように今でも歌われています。

天文台跡:伊能忠敬の師匠天文方高橋至時は、この地で天文観測を行いました。

  

隅田川越しにスカイツリーが見えてきました。10年前に行ったときはまだ工事中でした。東京は刻一刻変わりつつあります。来年は東京五輪、また変わるでしょうね。

左側に「駒形どぜう」が見えてきました。駒形どぜうは、享和元年(1801)創業のどじょう料理の老舗。文化3年(1806)大火に遭い、それまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いと「どぜう」の3文字に改称しました。

店前には、久保田万太郎句碑「神輿まつまのどぜう汁すすりけり」があります。

  

王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしています。江戸時代には吉原に通う猪牙船で賑わったと伝わります。隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園には、様々な植物が植栽されています。数多くのサクラが育ち、例年3月下旬から4月上旬のシーズンには一面をピンク色に彩り、混雑する隅田公園よりも、隠れた桜の名所として数多くの花見客が訪れます  

山谷堀公園:(さんやぼりこうえん)王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしています。江戸時代には吉原に通う猪牙船(ちょきぶね)で賑わったと伝わります。

隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園には、様々な植物が植栽されています。

山谷というと、僕らが若いころ、岡林信康さんが歌った「山谷ブルース」を思い出します。現在その歌のイメージとは全然違います。ただ、近くに木賃宿が多いなという印象だけです。

今戸神社に来ました。ここは、新撰組沖田総司の終焉の地です。沖田総司は、当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらずその甲斐なく当地で歿したと伝えられています。享年27歳だったとか。

  

今戸神社は、ご祭神は應神天皇(おうじんてんのう)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、浅草七福神の一神・福禄寿も祀られている。康平6年(1063年)京都の石清水八幡を勧請し

今戸八幡を創建。昭和12年に白山神社を合祀し、今戸神社と改称した。権現造りの社殿は昭和46年に造営されたもの。縁結びの神社として知られ、境内には願いを込めた招き猫の絵馬がたくさん架かっている。

今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼及び楽焼の陶磁器。

日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。言い伝えによれば天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。

 

   

泪橋交差点に来ました。この交差点の先が荒川区になります。

泪橋は、小塚原刑場に引き立てらえる罪人と身内の者がここで涙の別れをした。

  


                                                                                                                                                  (続く)

 


奥州街道(日光街道)を歩いてみようと思います。

2019-05-07 05:19:02 | 奥州街道(日光街道)

昨年12月に長崎・出島~長崎街道~山陽道~西国街道~東海道を約8年かかって完歩しました。

もう街道歩きは、いいだろうと思っていましたが、どうも街道歩きの癖が治りません。

  

そこで今度は、目標は大きく持ちたいと思い、東京から東へ奥州街道(日光街道)~仙台道~松前道を通り最終目的地を青森県竜飛岬にしたいと思っています。

日本橋から竜飛岬までは、約830km。これに途中の寄り道を入れると1000kmは越えると思います。

もう歳も後期高齢者の仲間にリーチ寸前ですので、果たして竜飛岬まで歩けるかどうか不安ですが、頑張りたいと思います。

そして、竜飛岬にゴールしたら、津軽海峡に向かって石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」を歌ってみたいと思っています。