よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(吉備津~岡山駅)

2013-12-30 10:07:15 | 山陽道(西国街道)を歩く

12/23  7:30倉敷のホテルを出て倉敷美観地区を散策。1時間ほどでホテルに帰りチェックアウトし倉敷駅へ向かう。

山陽本線~吉備線に乗り吉備津駅9:42到着。

 岡山のことを「備前」備中」「備後」と大まかに3つに分けられていますが、これは昔岡山が吉備(黍)の国だったからです。

中央に吉備津神社がある所は、備中、それから西(一部広島・福山含む)を備後、東を備前と呼んでいます。

それぞれ吉備津神社をお祀りしています。

    

吉備津神社というと何と言っても「桃太郎伝説」ですね。この桃太郎伝説は、日本でも何か所かにありますが、吉備の国の伝説を紹介します。

  その昔、吉備の国に「温羅(うら)」という異国の王子が住みつき悪行の限りを尽くして人々に恐れられた。それを退治しにきたのが「吉備津彦命」。

温羅は鬼ノ城に籠り、吉備津彦命は吉備の中山に陣を張った。吉備津彦命の放った矢は温羅の投げた岩とぶつかっては落ち、なかなか勝負はつかない。

そこで吉備津彦命は、一度に2本の矢を射て1本を見事温羅の目に命中させた。

温羅は川を血潮で真っ赤に染めながら鯉に化けて逃げる。吉備津彦命は、鵜になってこれを追いかけ退治した。

駅から降り神社の方に歩いていると長い松並木があります。「吉備津の松並木」。まっすぐ歩くと「吉備津神社」に着きます。

吉備津神社の前には、昭和初期の「犬養 毅」元首相の銅像が建っています。歴史で習いましたがあの5.15事件で暗殺されました。犬養元首相はこの近くの庭瀬村のご出身だそうです。

また、桃太郎に出てくる「犬」(犬養健命)の遠祖にあたるそうです。

      

    

吉備津神社は、「鳴釜神事」で有名ですが、これは吉備津彦命に退治された温羅は命の夢枕に現れて「吉備津神社の竈(かまど)に埋めてくれ、その代わりに釜を鳴らして吉凶を告げるから」と言ったそうです。

これが「鳴釜神事」の始まりだそうです。釜の鳴動の音の大小により吉凶福禍を卜うそうです。

吉備津神社には本殿までの398mの長い回廊があります。本殿は「比翼入母屋造り」です。

    

    

再び街道に戻ってきました。「真金の一里塚」は国道との合流点にありました。またその先には、「国境石」があります。ここから「備前の国」です。

      

街道は国道に沿っていますが、この国道は車の行き来が激しくおまけに歩道がなく、大型車が来ると立ち止まって通過するのを待っている状態です。

五軒屋のカーブした所に「古い道標」があります。よく見ると「右みち おか山、左みち かな川津山」と書かれています。また、小松橋の所には「指さし道標」があります。

「岡山へ2里、高梁へ10里」。その先が「吉備津彦神社」です。

       

吉備津彦神社」は大化の改新を経て吉備国が備前、備中、備後に分割ののち備前一宮として崇拝されています。

境内には、「平安杉」や「安政の大燈籠」などがあります。

安政の大燈籠は6段造り、高さ11m、笠石は八畳敷で文政13年、安政4年にわたり「天下泰平」「万民豊楽」「国家安全」「五穀豊穣」を念願して奉納されました。

       

         

街道に戻ります。笹瀬川にかかる矢板大橋を渡りすぐ左折します。この辺国道180号線で車が多いです。左折すると旧道に入ります。この辺りが「矢板宿」。

デイサービスの所に「矢板本陣」の碑が建っていました。ですが矢板宿の説明文も何もありません。先を歩くと「笑塚」があります。これもどういう意味か解りませんでした。

笑塚の向えには「北向八幡宮」があります。北向きに建てられたからその名がついたのでしょうか?

     

街道は谷万成の所で国道180号線と合流します。岡山市街はもうすぐです。酒屋さんの所から斜め左に入ります。

岡山元標があり更に先に進むと「国 神社」があります。見ると長い階段が・・・・・・思い切って登ることにしました。本殿までの階段は159段。やはり途中で休憩しないと登れませんね。

この国神社には珍しい狛犬があります。ちょうど階段の真ん中に鬼を足で踏んでいる狛犬です。この神社の鳥居と階段は元禄15年につくられたそうです。

       

 国道180号線との合流する前に「京橋ちか道」の石碑があります。街道はこの先の「奉還町西口」の信号を直進します。

     

奉還町商店街」は

いまを去ること100余年、明治維新あり。廃藩置県により失職した池田藩の武士たちが手にした奉還金の使い道は、なんと自らの手で商売を始めることだった。
奉還町で最初に店を出したのは、奉還金にちなんで『奉還モチ』という餅を売り出した餅屋らしく、その後も奉還金を手にしたリストラ武士たちが次々と移住。
商いの素人たちが奉還町に集まりうどん屋やら荒物屋やら次々開店、世にも珍しい士族ばかりの商店街を出現させた。
初めは武士が出店したということでもの珍しさも手伝ってか結構繁盛していたらしいが、なにぶん商売のイロハも分からない。
頭の下げ方も分からない。刀をソロバンに代えてなれぬ手つきで弾いてみても毎月赤字続き。偉そうな物言いの武家商法でお客さんが腹を立てて帰ることもしばしば。
あまりにも売れないので材料費・手間賃なしで売ってみたりと笑えぬエピソードも多々。
ほとんどの店は撤退を余儀なくされた。現代に残る、武士の退職金である奉還金を資本に商売を始めた店の生き残りは『杉山種苗』ただ一軒。
他は戦後に開店した店がほとんどである。(奉還町商店街HPより)
 
商店街を歩いているとお寿司屋さんの店頭で「塩サバ定食」の看板がありました。私、塩サバには目がないものですぐ店の中に入りました。
焼き加減もよく大変おいしくいただきました。店主の方が私たちの格好を見て山陽道を歩くならこれをあげようといって「旧山陽道昔話」のパンフをいただきました。
街道歩きの参考にさせていただきます。
 
奉還町を抜けると「岡山駅西口に到着しました。時間は2:00.今日はここでゴールとします。
帰りの新幹線まで時間がありましたので路面電車に乗り岡山城、後楽園を散策しました。
    
 
 
今日12/23のGPS
 
 
12.21~23までのGPS
 
 
次回は、黒田官兵衛の祖父の里「長船福岡」を訪ねたいと思っています。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く(清音~吉備津)

2013-12-29 19:19:18 | 山陽道(西国街道)を歩く

12/22  倉敷より8:08の伯備線で前日ゴール地清音駅へ。清音8:15着。

今日は街道歩きの前に横溝正史が戦時中疎開していた真備町岡田・金田一耕助の誕生地へ向かう。(12/25金田一耕助の誕生地に行ってきました。参照)

岡田から戻った時は、もう10:30近くなっていました。川辺橋を渡り高梁川に沿って歩き途中ワタナベ工業の所から右折するのですがどうも道を間違えたみたいです。

途中、町の人に尋ねると曲がる所を間違えたみたいです。地図を見ながらようやく山陽道に戻りました。2kmぐらいロスしました。

清音小学校近くに「藤原為定 宝篋(ほうきょう)印塔」があります。塔を建てた藤原為定という人物についてははっきりしたことが分っていません。

この塔は石灰岩を使用しており、相輪と宝殊がなくなっていますが嘉歴3年(1328)の銘文が残っています。(案内文より)

この近くに「軽部神社」あります。近くの方に場所を教えて頂き神社に行ってきました。清音小学校から約1km強あったでしょうか?

歩いていると「福山」が見えてきます。これが「太平記」に出てくる「福山の合戦跡」です。標高は300mぐらいで手軽に上れる山だそうです。元旦の初日の出を見にたくさんの方が来られるそうです。

    

 

軽部神社」は、別名「おっぱい神社」と呼ばれています。

延宝六年(1678)建立。昔、境内に垂乳根の桜と呼ばれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めました。
 安産や母乳の出を願うため乳房を型取った手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めています。(総社市案内文より)

本殿の中を覗くとたくさんのおっぱいの絵馬があります。見ているとなんだか恥ずかしくなってきます。(笑)

    

時刻は12時近くになってきました。軽部神社から引き返し再び山陽道に戻ります。

山田池から右折すると「山手」に入ります。山手に入って一番びっくりしたことは、案内板の少ないこの山陽道でたくさんの街道案内板があることです。

街道歩く者としては本当に助かります。

    

先を進むと「山手の一里塚」があります。左、やかげ、右、おかやま。この一里塚に一里松と呼ばれ親しまれてきた大松がありましたが、昭和30年ごろ枯れたそうです。

     

吉備考古館」というのが右側にあります。今回はパスしましたが、ここには縄文土器、弥生土器、陶棺、石斧などの出土品が展示されているそうです。

総社市山手支所前に着きました。支所前には「祈り」のオブジェが・・・・・・山手村が平成17年に総社市に合併したときの記念に陶芸家児島塊太郎さんが造られました。

時刻は1時半近くになりました。お腹も減ってきましたので近くの中華そばのお店へ。私は早く食べてこの裏にある「作山(つくりやま)古墳」へ。

         

     

作山古墳は、前方後円墳で全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部長さ110m、同幅174mの規模で全国的に見て第9位、岡山県内では全長350mの造山(つくりやま)古墳に次いで2番目です。

5世紀中ごろの築造で被葬者が吉備に君臨した大首長であることが想像されます。

再び街道に戻りました。

                        

右側に「角力取山(すもうとりやま)古墳」というのがあります。面白い名前なので行ってみました。角力取山古墳の向いにあるのが「ギリギリ山古墳

     

「角力取山古墳」は、古墳時代中期5世紀頃、沖積地に築かれた全国でも珍しい方型古墳(高さ7m、南北30m、東西37m)でかつての地域の支配者であった豪族の墓陵といわれています。

古くから古墳の西側に土俵を設け、氏神御崎神社の秋祭り最終日に奉納角力が行われ、戦前まで続いたことから「角力取山」と呼ばれています。

古墳の上にある「大松」は高さ20m、目通り周囲5m、樹齢約400年で昭和5~6年ごろまでは4本の巨木がありましたが半世紀の間に3本が枯れて老松1本になった。(以上案内板より)

また、この先には「宿寺山古墳」もありました。このあたり一帯5~6世紀にかけての古墳がたくさんあるようです。

     

宿」の地区に入ってきました。その名の通りこの辺りは宿場町として栄えていました。三宅酒造は、明治時代の酒造機具、酒造りの模様が展示されているそうです。

備中国分寺」が左側に見えてきました。備中国分寺は、2年前の瀬戸内倉敷ツーデーマーチで一度訪れていますが、何度見ても飽きませんね。

   

「備中国分寺」は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るために天平13年(741)に聖武天皇の勅願によって建てられた宮寺です。

寺域は東西約160m、南北約180m、周囲には幅1,2m~1.3mの築地土塀がめぐらされており南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。

中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。

    

 更に街道を進むと岡山市に入りました。「いなり道」という道標があります。その先には「日時計」が・・・・・

          

造山(つくりやま)古墳」駐車場に着きました。先ほどの古墳も作山古墳でしたが、地元の方は、前者を「さくやま」後者を「ぞうざん」と呼んで分けているそうです。

造山古墳は、前方後円墳で5世紀初頭の築造、全長360mは岡山県下で1番、全国でも第4番の規模です。その規模から被葬者は畿内政権と肩を並べるほどの権力をもった

吉備の大王の墓と想像されています。古墳は一般公開されています。

         

矢部地区に入ってきました。ここからはまた倉敷市になります。

寶泉寺の横に「鯉喰神社」があります。何か面白い名前ですね。由来を見てみますと

吉備の国平定のため吉備津彦命(きびつひこのみこと)が来られた時、この地方の温羅(うら)が村人たちを苦しめていた。

戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢尽き刀折て自分の血で川へ鯉となって逃れた。

すぐ命は鵜となり鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祀るため村人たちはここへ「鯉喰神社」を建立した。

 

              

足守川に差し掛かりました。この橋を渡るとまた岡山市になります。

橋を渡って右の方にいくと「明治天皇惣爪御立所跡」という石碑が建っています。そこから下ると惣爪の説明がありました。

                   

       

惣爪塔跡」古来「石の釜」と呼ばれている、塔の中柱の礎石(心硬)である。長径2m、短径1,5mで上部には直径16cmの円孔をうがち更にその底に子孔があり仏舎利を納めてあったもの。

奈良時代前期この硬石の上に建っていた塔のほか、金堂、講堂、などの建物が並び一大伽藍が営まれていたことが想定される。

 

惣爪地区を過ぎしばらく歩くと「板倉」の信号があります。ここが「板倉宿」です。

      

鯉山コミュニティハウスの所が「板倉宿本陣」になります。ここには板倉宿の案内看板が立っています。

    

板倉宿は、岡山城下町の西部、東は西辛川村、南は宮内村、西は加茂村、北は立田村と接している。村内を東西に走っている旧山陽道から、松山往来が北西へ、庭瀬への道が南に分かれている交通の要地で、

近世山陽道の宿場であった。「和名抄」には賀陽郡板倉郷と記されており、その郷名が村名になったものと思われる。
 寿永2年(1183)木曽義仲の軍勢を迎え撃って敗れ、板倉川の川辺で自刃した妹尾兼康(平安物語)の墓がいまも村内に残されている。「寛永備中国絵図」では、

高885石余、うち725石余、庭瀬藩戸川氏領、160石、吉備津神社領。枝村として杉尾を記している。
 板倉宿は、備前国との国境近くにあり、隣接する宿場は東に岡山宿、西に川辺宿(現、吉備郡真備町)がある。寛文~延宝年間(1661~81)宮内村にあった本陣(中田家)を

板倉村の東方(ひがしかた)家に移して造られた宿駅である。
 「筑紫紀行」に「板倉宿町屋七、八町ありて茶屋・宿屋多し例の芸子(げいこ)・遊女ありとぞ」とあるように、江戸末期ごろは、隣の宮内とともに歓楽街としても栄えたようである。

文化3年(1806)の「旅宿軒数書上」には本陣は1軒で間数8間、畳数99畳。脇本陣は1軒で間数5間、畳数41畳。宿になれる家70軒、うち間口が2間の家53、3間の家10軒、4間の家6軒、5間の家1軒、

また宿内総家数は252戸。うち板倉184戸、宮内68戸と記している(「吉備郡誌」)。板倉宿が繁栄したのは、吉備津神社への参拝者が多かったほか、

宿場の位置が山陽道と松山往来の分かれ道の起点(真金十字路)にあり、南に行けば庭瀬陣屋町があるという交通の要地であったからである。
 宿場の東端に真金一里塚(国指定史跡)がある。道を挟んで南北一対の塚があり、北塚に松、南塚にエノキが植えてあった。現在も、塚から西にかけての地域に宿場町の面影を残している。

宿場の名物にアメがあったが、これが吉備団子のもとと考えられる。
 明治8年(1875)宮内村・川入村と合併して真金村となった。川入村は同14年分村した。同37年中国鉄道吉備線が開通し、真金駅が設置された。

現在のJR吉備線吉備津駅である。真金村は昭和4年(1929)町制をしき、同35年高松町と合併、同46年岡山市に入った。いまも昔の板倉宿場町の面影を残しており、

吉備津駅は、宿場見物の観光客や吉備津神社の参拝者でにぎわっている。   (岡山市HPより)

板倉宿を過ぎるとJR吉備線の踏切があります。街道はこれを渡るのですが今日はこの吉備津駅でゴールになりますので渡らずまっすぐ行きました。

   吉備津駅16:36着。

本日(12/22)のGPS

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く(小田~清音駅)

2013-12-28 15:50:52 | 山陽道(西国街道)を歩く

)に12月はいろいろ予定があり街道歩きは出来ないかな?と思っていましたら22日の予定が中止となり、急遽山陽道を歩くことにしました。

今回は夜行バスで倉敷に行きました。福岡発21:50分、倉敷には翌日6:15分に着きました。

倉敷駅から伯備線で清音駅へ。清音駅から井原鉄道で前回ゴール地「小田」まで戻りました。小田着8:05分。

倉敷駅では、寝台特急「サンライズ出雲」を見ました。洒落たデザインの電車でした。

     

小田駅を降りると気温は2度ぐらいでしょうか?、寒いです。駐車している車のガラスにが凍っていました。

小田駅前のコンビニで朝食用の弁当を食べさあ街道歩きのスタートです。

駅前の案内板では、小田川の渡し跡というように書いてあり、小田川の方に向かうがそれらしきものがない。多分この辺りではないかと写真に撮りました。

クリーニング屋さんの所で国道486号線と合流。旧山陽道はしばらく国道を歩く。途中「備中国浅海村官蛇下座所跡」の石碑があったが、多分参勤交代の時ここで下座したということでしょうか?

折角設置されたのなら説明文も欲しかった。この下座所跡は、このあとも何回か出てきました。

      

国道を歩いているとホームセンター、スーパーなどが立ち並んでいます。道路には矢掛宿、星の里、美星(びせい)町の看板が立っています。

岡山京橋の元標は消防署の出張所の所にありました。

          

街道は東川面の所から左折、そして右折する。国道の下の所に「常夜灯」がある。この辺りが「大曲」でしょうか、案内板を見逃してしまいました。

高岡製材所の所から再び国道に合流。そして矢掛川から歩道用の栄橋を渡ります。この栄橋には「高通川徒渡り」の碑が建っています。

栄橋は幅4,5m、長さ70mの軽量鉄骨橋で現在は使用されないリベット鋲が使用されています。栄橋を渡ると「矢掛宿」に入ります。

     

    

矢掛町は、江戸時代に旧山陽道の第18番目の宿場町として栄え、参勤交代の大名が宿泊した本陣と脇本陣がともに残されています。両方が国の重要文化財であるのは全国でもここだけです。
矢掛が山陽道の宿場としてその名を見せるのは室町時代になってからです。元禄2年に作成された古文書によると東西800mの町並みを形成しており、北側に95軒、南側に102軒のt「地子」(宅地税)を
免除された屋敷があったそうです。
また、山陽道に並行する小田川に合流する星田川、美山川の結節点で豊かな水により水運も開け高瀬舟も往来する交通の要衝でもありました。
やかげ郷土美術館には、高さ16mの水見櫓もあります。
 
矢掛宿本陣の「石井家住宅は、大庄屋で酒造業も営んでいました。北向きの屋敷で間口20間(36m)、広さ約1000坪のこの町一番の規模です。
本陣施設としての「御成門」「玄関」「御座敷」をはじめ主屋の主要建物は江戸時代後期(天保~安政)にかけて再建されたものです。
嘉永6年(1853)には、薩摩から篤姫様が宿泊されています。この宿場で篤姫様は、「柚餅子(ゆべし)」を召し上がれたそうです。
私達も篤姫様に習いこの「柚餅子」を買っていただきました。美味しかったです。
 
 
 
    
 

      

石井家住宅の前はお醤油屋さん。明治42年に本家である本陣石井家から分家し本家の副業の醤油部門を引き継いで開業しました。店に入ると主人のお母さんでしょうか、手作業で醤油の栓付けをされていました。

私達は旅の途中ですが思わず醤油を買ってしましました。

       

やかげ郷土美術館の前に「矢掛観光協会」があります。中に入ってみると、皆さん食事をされていて一斉に私達の方を振り返られました。そうでしょうね、Dバックには風車、沢山のバッチ、人形などをつけていますので

「怪しいやつ?」と思われたかもしれませんね。(笑)。 実は博多から来て今、山陽道を京都まで歩いています。と伝えると協会の会長さん並びに副会長さんが「矢掛」のことを詳しく説明していただきました。

帰りには「矢掛」のストラップまでいただきました。本当に有難うございました。お陰様で旅のいい思い出になりました。

観光協会をあとにして山陽道を歩きます。

    

矢掛宿脇本陣「高草家」です。

    

 「脇本陣高草家」は宝暦6年(1756)平田屋から分家して東平田屋と称し寛政期には庭瀬藩の掛屋や藩札所元方を務める傍ら大庄屋も兼ねていた。屋敷間口は17間(約34m)、600坪の敷地です。

白壁や張瓦の堅固な建築が特徴です。裏口に通じる小路は、なまこ壁の美しさを感じることができます。

矢掛町では毎年11月第2日曜日に宿場まつりがおこなわれており、約80人の絢爛豪華な大名行列が圧巻です。

矢掛の一里塚は宿場の終わりの方にありました。その先の和田川を渡ります。

             

橋を渡ると右側に大きな石碑が見えてきます。なんだろうと近寄ってみると「郷社」と書かれています。

これは、矢掛神社が郷社になった時の記念碑でしょうか?矢掛神社は大化元年創立。本殿の天井、壁には江戸時代を含む大きな絵馬が多数残っています。

     

矢掛神社を下り旧街道を行くと国道と合流。ここに西国道と玉島道の追分があります。行部の道標があります。右玉しま道、左大坂道。

玉島は、江戸時代より物資の集積地として栄えた港町で備中松山藩や岡山藩の外港としての機能を備えていた。

しばらく進むと街道は左折。ここから国道と並行している。井原鉄道のガードを潜ると「吉備公累代の墓」があります。それから少し上った所には「下道公の墓」があります。

       

「 吉備真備」は持統9年(695)に真備町で生まれ旧氏名を下道朝臣(しもつみちあそみ)。天平18年(746)に吉備朝臣真備に改称。

吉備真備に関しては、たくさんのことがありますので全部書くことができません。ただ遣唐学問使で中国に渡り18年間唐で凄したくさんの書物を持ち帰ってきた。

また、唐から鑑真を連れてきたことなどが上げられます。

九州との係わりは、太宰少弐になったこと、新羅の侵攻に備え福岡に怡土城を造ったことなどかな?

更に街道を歩きます。国道と合流する所に「吉備大臣館」があります。その入り口には「筆塚」が。

筆塚は、矢掛町出身の書家「田中塊堂」さんが中心となって真備公の遺徳を顕彰するために建立されました。

    

 この一帯は、吉備公の居館跡と推定され「吉備真備公園」となっています。この公園は日本歴史公園百選にもえらばれているそうです。

旧山陽道の北側の平地三万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。

 遣唐留学生の吉備公が天平七年(七三五)当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来一、二五〇年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。

これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。

 公園は八〇メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高六・四五メートルの吉備公の銅像を安置し、

周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。また背後の林地を古代の丘として前方後円墳を形どった広場に環状列石風にオブジェを建て、

四方を守る方位石、古代風俗を示す風物石、吉備公の功績を示す歴史石を配置、周囲は森林浴を満喫できる憩いの場とし、県下唯一の古代オブジェ公園を造成いたしました。(説明文より)

    

公園内を歩いていると「囲碁発祥の地」の石碑が建っていました。吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し知恵を絞って勝った説話がありこれが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であることから

吉備公が日本における囲碁の開祖となったそうです。

時間も1時30分になりました。この公園内のうどんが美味しいと先ほどの矢掛観光協会の方から聞いていたので早速注文してみました。おいしかったです。

吉備公園を出るとすぐ「一里塚」がありました。もうこの先は倉敷市になります。

      

 倉敷市に入りました。ここは倉敷市真備(まび)町。吉備真備は「まきび」ですけど、ここの地名は「まび」です。井原鉄道の駅も「きびのまきび駅」。

歩いていると「赤鳥居」というバス停がありました。見ると左の方に赤い大きな鳥居が・・・・・・。写真を撮って拡大してみますと「穴門山神社」となっています。ここから徒歩で約2時間、山の中にあるそうです。

     

箭田(やだ)西口の信号の先、左側に「まきび公園」があります。ここにも吉備真備を祀った公園があります。

             

      

然し、考えてみれば、通信網のまだ発達していない奈良時代に岡山の地から歴史上の人物になった「吉備真備」はどのような過程で奈良の都に認められるようになったのでしょうか?

先を急ぎます。市役所支所の前を通ると前方に大きなモダンな建物があります。ここは、「真備図書館」で2000年に完成したそうです。併設して「たけのこ天文台」もあります。

タケノコは、真備町の特産品です。因みに真備町は、2005年8月に倉敷市と合併したそうです。

街道は「川辺宿」に入りました。交通量も多くおまけに歩道幅が狭く歩きにくいです。所々に「金田一耕助誕生の地」の看板があります。作家横溝正史さんは戦時中川辺から2kmぐらい入った岡田に疎開し、

この地で本陣殺人事件、八つ墓村、獄門島などの作品を書きました。

川辺交番南口から旧道へ。ここは交通量も少なく静かな街並みです。

     

「源福寺」に来ました。この源福寺の入り口がわからずウロウロしていましたら近くの方が教えてくれました。街道を歩いていると道がわからなくなったりしますのですぐ聞いたりするのですが

特に岡山の方は、親切に教えて頂けます。ありがたいです。

   

源福寺の創建は延徳2年(1490)、榎本梅屋が英厳和尚(華光寺2世)を招いて開いたのが始まりとされます。江戸時代に入ると岡田藩主伊東家歴代の菩提寺として庇護され

岡田藩6代藩主伊東長丘が30石の寺領を安堵した「寺料寄進状」が残されています。堂内には歴代藩主の位牌が安置され、境内には9代藩主伊東長裕の墓碑をはじめ6代藩主長丘の弟である伊東長煕や

8代藩主長寛の子である伊東長之など一族の墓碑が建立されています。

又、近くを流れる高梁川は度々洪水で大きな被害を出しており「明治26年大洪水供養塔」が昭和4年に建立されています(明治26年大洪水では死者200余名、365戸流出)。

源福寺の石垣は、一日一石といわれ、蟻の入る隙間もないほど精巧なものです。この石垣の苔が生えている所まで洪水が押しかけてきたそうです。

この洪水のため本陣他多くの建物が流出しました。

艮(うしとら)神社

 難しい名前の神社ですが、吉備津神社の丑寅の方向にあるから艮神社というそうです。

神社の門柱の「八雲絶唱・・・・・」は、犬養毅元首相の揮毫です。

    

 川辺宿の本陣は代々難波家でありますが、生業は醤油屋さんだったそうです。

川辺本陣は、明治26年の大洪水で流出し資料も残っていません。兵庫県豊岡市で発見された川辺本陣の間取り図を見ると矢掛本陣によく似ているそうです。

参勤交代の諸大名の川辺本陣での宿泊率はほぼ同じ40%強で2か月に1回の割合でありましたが、高梁川に橋はなく舟や徒による渡しのため

氾濫が続くとしばしば逗留を余儀なくされたことから川辺宿の賑わいは矢掛を凌いでいたのではないでしょうか。(案内文より)

  

川辺の宿場町を先に進みますと高梁川に出てきます。ここに川辺の一里塚があります。ここには江戸日本橋より180里(707km)と書かれています。

気が遠くなる距離ですね。(笑)

一里塚から左折すると高梁川に橋が架かっています。手前側が自転車、歩行者用。その左側が自動車用です。

歩道橋から高梁川を見ると本当にきれいな川です。これが明治時代氾濫したのですね。橋の中央が倉敷と総社の市境です。

橋を渡り左折し、それから右折するとJR清音駅に着きました。時間も5時近くなりました。今日はここまでにします。

       

 今日のGPSです。途中GPSが作動しませんでしたが、今日は小田宿~清瀬駅まで歩きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「神辺~小田(岡山県井原市)」

2013-12-04 17:34:07 | 山陽道(西国街道)を歩く

11/24今回の山陽道歩きも3日目。ホテルから荷物を出し駅のコインロッカーに入れ、7:46JR福塩線で前日のゴール地「神辺駅」で下車。

先ず昨日時間の都合で行けなかった「天別豊姫(あまわけとよひめ)神社」へ。祭神は、豊玉姫命、速進雄命、事代主命で豊玉姫命というと海の神様である乙姫様。

どうしてここ神辺が海の神様?という疑問が湧いてきます。調べてみますと古代この辺りまで海だったそうです。

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境内には桜の木や銀杏の木がありお花のシーズンには花見のスポットとなるでしょう。神辺の地名は、この神が守るということで「神奈備」が変じて神辺となったそうです。

この神社が神社の山の上には昔、「神辺城」がありました。

神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武二年(1335年)築城したと伝えられています。

以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづき

それぞれ守護代が居城しています。

 戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。

 元和五年(1619年)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓桜や門などが取り壊され移築されたといわれてます。

実に二百八十数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。    (案内板より)

           

山陽道に戻ります。神辺本陣、廉塾を過ぎると「荒神社」の所に「平野一里塚」があります。高屋川にかかる橋を渡り右折。川沿いにはデニムの大きな工場があります。

国道313号線と合流する所から左折。しばらく国道沿いに歩きます。国道の右側には面白いオブジェがありました。

          

湯野口の信号で旧道に入ります。しばらく行くと「備後国分寺」があります。

天平13年(741年)聖武天皇の国分寺建立の詔により全国に国分寺が建立されました。すでに私も山口・防府、広島・西条と2つの国分寺をみてきました。

ここ神辺町下御領にも備後国分寺があります。

      

国分寺の横には「下御領八幡神社」があります。この神社に道標が建っています。右、かさおか道、左、おおさか道、もう一つの標識には、右 石州ぎんざん道、左 九州・・・と書かれています。

日吉神社へは長い階段があります。地元の方に聞きますと172段あるそうです。行ってみようかな?と思いましたが、今日はまだまだ先がありますので行きませんでした。

八丈岩入口という看板があります。御領山に八畳ぐらいの岩や奇形の岩があるそうです。ここには鬼伝説もあるそうです。 

              

この先に上領地一里塚があるのですが、道がわからなくなり近くの人に聞いてみました。少し行くとお寺があるのでそれに沿って行けばいいと教えて頂きました。

上領地一里塚は、左側と右側にありました。右のは、管茶山の漢詩の碑が建っています。読んでみますがわかりませんでした。

その横には、「四ツ堂」があります。昔、領主が旅人に休憩の場をということで建てられたそうです。その先には「上御領八幡神社」があります。

福山市東部には、彼方此方に八幡神社が祀られていますね。また気になっていたのですが、「御領」と地名ですが昔、荘園だったのでしょうか?

           

島影橋を渡ると右側に「国境の碑」が見えてきます。ここからが岡山県井原(いばら)市高屋町です。

昨年12月から歩き始めましたこの山陽道もようやく「岡山県」に入りました。西宮まではあと200km弱です。

               

高屋の町は、中国地方の子守歌発祥の地ということで町おこしを行っています。マンホールのデザインも子守歌です。

町を歩いていると昔ながらの家並みが立ち並んでいます。「駒寄せ」というのは、人馬が入ってこないようにする柵です。高屋にはよく見られました。

     

 「♪ねんねこしゃしゃりませ 寝た子の可愛さ 起きて泣くこのねんころろ つら憎さ ねんころろん ねんころろん・・・・・♪」で始まる中国地方の子守歌は、この高屋が発祥の地です。

この唄が全国に知られるようになったのは、井原市出身の声楽家上野耐之氏が昭和の初め、恩師である山田耕作に故郷の母親が唄っていた子守唄を披露したのがきっかけです。

感動した山田耕作が編曲して発表し、広く愛唱されるようになりました。

 上野耐之の生誕地がここです。今でも耐之の御子孫の方が住んでおられます。高屋の本陣は上野家でした。

今日(24日)は昼から高屋中学校で「子守歌の里音楽祭」が行われるそうです。

       

井原鉄道高屋駅にこの子守歌の碑があるということで駅の方に向かいました。駅前には美術館もあります。

        

毎年全国から6市1村から集まって全国子守歌サミットが行われているそうです。ちなみに今年は和歌山県岩出市で行われたそうです。

子守歌の碑の横には井原鉄道の各駅の紹介イラストもありました。

 

                                 

井原駅から山陽道に戻ります。法泉院の橋を過ぎしばらく行くと「出部」(いずえ)に入ります。出部が「いずえ」と読むとは、ちょっと難しいですね。

時間ももうすぐ12時です。ここは国道313号に面しておりファミレスなどがあり、少し早いですがここで昼食にします。

お腹もいっぱいになり、再びスタート。前方に「旧山陽道大曲跡」という標識があります。日葡辞書(日本語をポルトガル語で解説した辞書)によると街道で2か所大きな直角の曲がりがある所と書いています。

旧山陽道では単調な旅に変化を付けるため一里塚と共に大曲が作られた。戦乱の世には東西へ走る敵の数を調べるのに大変都合がよく、また参勤交代の時には殿様が駕籠を止め前後の行列を

眺めては長い旅をつづけたという。(案内板より)

そういえば、大きな曲がり角がありましたね。

出部(いずえ)の町中を歩きます。途中、道標がありました。「岡山元標十三里」と書いてあります。岡山まで約40kmでしょうか?

      

出部の町は、住宅地として変貌しているのでしょうか、新しい家が続いています。郵便局の所で「出部一里塚」がありました。

            

井原市の中心地に入ってきました。面白い建物の井原駅が右側に見えてきました。井原駅周辺が昔「七日市」と呼ばれていました。

七日市宿は、矢掛宿から3里、高屋まで1里12町、本陣1、脇本陣3、町屋が120軒そのうち旅籠が86軒ありました。月々定期市開かれていました。

本陣は佐藤正左衛門が務めていました。

     

先に進みますと小田川にかかる「日芳橋」があります。橋の手前を右に行くと「川越し上がり場跡」の碑があります。

それによると 「七日市は旧山陽道48次の一宿駅で小田川(旧芳井川)を控えここが定人足による歩き渡り上がり場跡です。」

昔はこの川に橋がなく歩いて渡ったのでしょう。幕末にはこの川に日芳橋が架けられました。七日市の「日」と芳井川の「芳」をとってネーミングされたそうです。

     

橋を渡ると「日芳橋の碑」が立っています。読んでみますと

安政4年(1857)山陽道七日市駅の芳井川(現小田川)に初めて大板橋が架設され、日芳橋と名付けられた。架橋以前の渡りには涼み台みたいなものを用いてこれに旅人を乗せて渡していた。

然し、この交通の要衝であり増水時には急を要する書状が滞ったため西国の大名の悩みの種となっていた。これを見た一ツ橋代官友山勝次は部下に命じて架橋を計画、両岸に石を積み上げて古い堤を補修して完成させた。

橋を渡ると左側に「松乃操酒造」という1859年創業の造り酒屋があります。また、この近くには高校女子駅伝の名門校の興譲館高校があります。

この高校の創設者は先ほどの一ツ橋代官友山勝次です。

       

 西江原町に入ります。ふと右を見ると「相田嘉三郎旧宅」の碑が・・・・・・

相田嘉三郎は、後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の相田家の次男として生まれ、その後、呉服商を営む伯父嘉助の養子となった。青年の頃までは家業の呉服商に励んでいたが、

養蚕・製糸の振興を計画し、養蚕の研究に取り組んだ。但馬地方から桑の苗を導入し、また養蚕が盛んであった信州から関東東北地方へ度々行って桑の作り方や蚕の飼い方などを研究し、

この地方の土地や気候に適した養蚕法を発案した。嘉三郎はこの養蚕法を印刷し、県下はもとより広島県東部から島根県西部地方にいたるまでこれを配るとともに、伝習生を養成して、

各地に派遣して指導に当たらせ、地域の養蚕普及に大きく貢献した。(いばら歴史館より)

また先に進むと「田中生誕地」というバス停が・・・・バス停より2~3軒先にその田中の生誕地がありました。

平櫛田中(1872~1979)は本名を田中倬太郎と言い、田中家から福山市今津の平櫛家に養子に入ったのち田中(でんちゅう)と称した。107歳でその生涯を閉じるまで明治、大正、昭和の三代にわたって

活躍した。岡倉天心と西山禾山に思想的な影響を受け伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学んだ田中の作品は観る者を引き込む緊張感と人間味あふれる創造性を持っている。

代表作は「鏡獅子」「五浦釣人」など。福山駅前には彼の作品「五浦釣人」が建てられています。

満百歳の誕生日の前に30年分の材料を買い込んだ。また「60,70は洟垂れ小僧 男ざかりは百から百から わしもこれからこれから」と言った言葉は有名です。

尚、井原市役所の横には「田中(でんちゅう)美術館」があります。今回は時間がなくいけませんでしたがいつか行ってみたいものです。

          

 中掘城址の所を左折すると「甲山(かぶとやま)八幡宮」があります。

太古神功皇后が三韓を親征され、凱旋の途中この山に玉歩を運ばれ中国地方の平和を祈念するため宝の兜を頂上に埋められたと請う。

里人はこの地に瑞垣を繞らし、この山を清浄な霊山として崇敬するようになり山の名称もこの時から甲山(かぶとやま)と呼ぶようになったと言い伝えられている。

また、一説には那須小太郎宗晴が祖命をうけ武運長久を祈るため与一が屋島の戦功を挙げた際、着用していた甲冑を頂上に埋納したとも言われている。(案内板より)

境内には、史跡の「石燈籠」もあります。

慶長9年(1604)小堀遠州政一が備中国の奉行となり領内巡視の時、大患に罹り甲山八幡宮に祈願霊験を得て、今市、木之子渡しの談議所に建立させたものと伝えられる。

また、口碑によると遠州が小田川畔の要所要所に石燈籠を設置し高瀬舟の上り下りの便を計った。その一つがこの石燈籠と言われている。

昭和13年県道拡張工事の際現在地に移された。  (案内文より)

 

橋を渡ると「今市宿」に入ります。今市宿は、筑紫紀行に「今市村 人家百軒余り茶屋宿屋あれど間の宿なり」と書かれています。七日市宿と次の矢掛宿の間の仮宿でした。

小田川が足止めされたときには重宝されたでしょう。なかなか趣のある家並みです。

     

 今市の信号の先で国道486号線と合流します。ここは小さな峠になっているのでしょうか?少し上っていきます。上った後「青木」と書いてある所を左に行きます。

井原鉄道を渡ると左側に古い大きな建物が建っています。ここが「日本綿布」。大正6年創業のデニムメーカーです。

      

 左手に井原鉄道「早雲の里荏原駅」が見えてきました。時間は14:15。今日の予定はここまででしたが時刻表を見ますとこの時間には14:41の井原行しかありません。

神辺行は15:42。あと一時間以上もありますので、次の「小田駅」まで歩くことにします。この井原鉄道は、電車の本数が少ないので前もって時刻表を調べることをお勧めします。

さて、この「早雲の里荏原駅」は、戦国大名の「北条早雲」の生誕地だそうです。街道から左手の山の方に高越城跡があります。

 この高越城で戦国時代初期の英雄、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が生まれ、青年期を過ごしたといわれています。頂上からは井原市が一望できます。

さて、困ったことに次の矢掛宿までの地図は用意していたのですが、この矢掛までの資料を準備していませんでした。あわててタブレットでこの辺の見どころ?を探します。

      

小田宿は昔、「堀越宿」と呼ばれ、矢掛・七日市間の間の宿として賑わいました。江戸時代宿場と宿場を結ぶ街道筋にある宿駅の補助をする所を「間(あい)の宿」と呼び、本宿で常備する人馬数の

一部を負担したり荷物の付け送りをする問屋などがありました。この堀越には78軒の屋敷があったそうです。

       

            

小田駅には午後3時到着。小田駅には室町時代の歌人「正徹」の歌碑がありました。

15:34小田駅発井原鉄道で神辺へ、神辺からJR福塩線で福山。福山発17:30の新幹線「さくら」で帰ってきました。

山陽道は、矢掛の手前の小田まで歩きました。西宮まであと200km弱です。 

今日(11/24)のGPSです。

山陽道は来年1月に再開します。

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「松永~神辺(かんなべ)宿」

2013-12-01 13:39:50 | 山陽道(西国街道)を歩く

11/23福山駅発7:46で昨日のゴール地松永駅へ。。8:00から歩き出します。 松永駅の構内には松永が塩田で栄えた頃のオブジェがあります。

            

万治3年(1660)福山藩家老本庄重政が神村、柳津村沖の干拓に着手し、寛文7年(1667)塩田築調工事は完成し製塩が始まった。

この年に幕府の許可を得て「松永」と 命名した。この松永は神村の松崎の地先に造成され重政は松に因んで中国の吉祥句「松寿永年」から

土地の繁栄を祈って松永と名付けられた。

 松永の塩田の規模は、古検(水野検地)では39町6反余(約39.6ヘクタール)、元禄(げんろく)13年(1700)の備前検地では56町4反余(約56.4ヘクタール)であった。

この頃の軒数は50前後が記されている。当時としては最新の入浜(いりはま)塩田の技術によったので生産性が高かった。

販路は北国筋が中心であった。明治11年(1878)の場合、松永塩の販売高83466石余の約9割にあたる7600石余を北国筋へ積出している。

松永塩田は、昭和34年(1959)に流下式(りゅうかしき)に転換したが、翌年は廃止された。

 一方の松永の下駄は

明治10年代、塩田に潮を引き入れる入り江のそば、下駄屋の主人丸山茂助が、塩を運ぶ船の帰路の空荷に着目したところから始まった。

この片荷に山陰の雑木アブラギリを乗せて格安に仕入れ、入り江に筏(いかだ)に組んで貯木し、入用な分だけ製材して桐(きり)下駄に替えたのである。

まさに塩が松永下駄を生んだといえよう。
松永下駄が全国に普及するようになったのは、桐下駄に比べ、雑木が原料で安価であり、しかも見かけは桐下駄に似て、なおかつ強く永持ちするからであった。

そして原木の製材から下駄への小割りに至るまで、早くから機械化したことで、大量生産が可能となり、仕上げだけが手仕事だが、加工も分業化した。

これに応じて、工場が塩田の入り江の周辺に立ち並び、ついに下駄の町松永を形成したのである。
原木もアブラギリから、北海道のツブやドロノキ、さらにサハリン、中国東北部やアメリカ大陸へと広く海を越えて材木を求め、

雑木による格安の大衆下駄の生産を図り全国に売り出した。
また生産様式の変化に即して、下駄に限らず広く履物の生産へと転進したが、今も素足に履く下駄のさわやかさと解放感とに支えられて、松永下駄は多くの人に愛用されている。

 

                                                                                  (以上ひろしま文化大百科より)

松永駅そばには、「日本はきもの博物館」がありますが、残念なことに今年11/24に閉館することになったそうです。

入ってみようと思いましたが、開館時間は9:00からですので残念ながらパスしました。今でも松永には歩道には「下駄」のブロックがついています。

    

松永駅前を通り街道へ。神村の信号では交通少年団の子供たちから「頑張って」と声をかけられました。

    

2号線と松永道路が交差する所に「今伊勢宮」があります。山陽本線の線路を横切って行くと前方に長い階段が・・・・・・数えてみますと199段ありました。(他の記事によれば208段とか)

伊勢神宮をお祀りしているそうで内宮、外宮がありました。

     

再び街道に戻ります。松永バイパス手前のガソリンスタンドの所から左に曲がります。歩いていると松永バイパスの拡幅工事でしょうか橋脚工事が行われていました。

地域の集会所には神村二区と書いてありますが、ここに「金毘羅宮の常夜灯」があります。先を歩くといくつもこの常夜灯があります。大きいものもあれば小さいものも。

また、所々には「地神(ちじん)様」もあります。

           

         

調べてみますと、金毘羅信仰は一般には四国の金比羅宮、即ち金毘羅大権現を尊崇しています。

 金毘羅はインド仏教の仏教の「クンビーラ」に由来し鰐を意味し水に関係します。江戸時代になると金毘羅さんに祈願するとなんでも願いが叶えられるという信仰が

 広がり漁業者や水運関係者の尊崇を集め、また水にかかわることから農業神として信仰されました。

 「地神」は農地に宿り農作物を豊かに実らせてくれる神のこと。春・秋の社日には農作業を休み地神に感謝する祭りをした。

今は、この一帯住宅地が広がっていますが、昔は田んぼや畑が広がってこの金毘羅様や地神の信仰が広がっていたのでしょうね。

スベリ石古墳徒歩10分という看板があり行ってみますが、どこにあるかわからず断念しました。

済美中学から国道を渡ると「イコーカ山古墳」があります。案内板を見ると

赤坂の平野部の北縁部、津之郷町加屋から南に派生する丘陵の先端部に構築された古墳である。墳丘は径約10mの円墳で、外部施設として円筒埴輪を二重にめぐらせている。

内部主体は未発掘のため明らかでない。周囲はかなり削りとられているので、旧来の景観は変容しているが、南西に続く丘陵には、4基で構成される池下山古墳群が存在していた。

 なお、西裾には相輪を欠くが、室町期と考えられる宝篋印塔(ほうきょういいんとう)がある。

スベリ石古墳にしろこのあたりは昔から人が住んでいたのでしょうね。

         

山陽新幹線のガードを潜り川を渡り谷尻バス停を左折します。津之郷小学校の近くのこの川には交通安全の面白い標語が書いてあります。

川沿いに歩くと田邊寺(でんぺいじ)です。

奈良から平安時代の養老5年(721)に創建された和光寺の中心塔石が残されています。

秀吉が九州征伐に向かう途中、備後・津之郷に居住していた足利義昭とここ田邊寺で会っています。

 

    

織田信長から京都を追われた室町幕府15代将軍足利義昭は、中国の毛利家を頼ってきたのが福山の鞆の浦。その後熊野町常国寺に移ったあと、ここ津之郷に住み

やがて京都に戻っていったといわれ、天正13年(1585)~15年(1587)まで実際に居住していたそうです。ここ「惣堂神社」は祭神は猿田彦命ですが備陽六郡誌には

将軍足利義昭と載せています。かつて義昭に仕え追放後信長の許へ下った細川幽斎も九州からの帰途に立ち寄ったとも言われています。

この津之郷ですがいろいろ歴史的には見るべきものがたくさんあります。時間があればゆっくり廻りたかったです。

      

惣堂神社を下り再び山陽道に戻ります。しばらく行くと酒屋さんの角に道標があります。左 大坂、右 福山。

更に先を歩くと右側に大きな榎木があります。ここが「山手一里塚跡」。

               

街道を進みますと芦田川に差し掛かります。山陽道は国道378号線から左の脇道に入ります。

しばらく歩くと採石場があります。地図ではここを通るようになっていますが、どうも民間地みたいですので少し迂回します。

山陽自動車道郷分トンネルの所に高い岩の上に朱色の神社が見えてきます。これが「郷分八幡神社」。

その下の街道沿いには首塚があります。これは「宮入道光音の首塚」です。

志川滝山城主だった宮入道光音は天文21年(1552)毛利軍に滝山城を落とされてここで討ち取られました。その首がここに葬られました。

      

山陽自動車道のガードを潜ると右側の道へ。しばらく歩くと国道378号の大渡橋に合流。橋を渡り左折します。その先の「正善寺」から右折。

この辺りに「中津原一里塚跡」があるそうですが、探しても見つかりません。多分この辺ではないでしょうか?

新茶屋の信号を右折、芦田川支流の高屋川にかかる鶴ヶ橋を渡ります。昔はここに「鶴ヶ渡し」があったそうです。

       

 時間も13時を過ぎてきました。この間食べる所を探しましたが一向に見つかりません。

やっと見つかったのが神辺ゴルフ練習場近くのラーメン屋さん。ここで遅い昼食を食べ再び出発します。

NHKかいどうてくてく旅の原田早穂さんがゴルフの打ちっぱなしをした神辺ゴルフ練習場を通りますといよいよ神辺宿に入ります。

       

神辺宿は広島県内で唯一本陣が残っていて御子孫の方も現在住まわれています。また町並みもきれいに整備されています。

    

                           

         

神辺の本陣は、西本陣が尾道菅波家、東本陣が本荘屋菅波家が当主。残念ながら東本陣は残っていません。

西本陣を見学しているとボランティアのガイドさんが詳しく説明してくれた。

部屋数27、畳は200畳、大名と付添い70名が収容できる。宿札を見ると「筑前少将宿」「松平下野守」と主に筑前黒田藩が良く使っていたそうです。

そういえば屋根には黒田家の紋がつけられています。現在も敷地の奥に菅波家の子孫の方が生活されています。

途中、菅波歯科医院という古い建物がありましたのでこの本陣の菅波家と関係があるのかと質問すると関係ないそうです。菅波歯科医院の建物も立派だった。

西本陣の先を行くと「廉(れん)塾 菅茶山(かんちゃざん)旧宅」があります。ここでもガイドさんの説明がありました。

菅茶山は酒造業で東本陣主人も勤めた菅波樗平の長男として延享5年(1748)に安那郡川北村(現在の神辺町川北)で生まれ、19歳の時京都に遊学し天明元年(1781)頃神辺に戻り

私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。寛政8年(1796)に福山藩の郷校となり「神辺学問所」「廉塾」とも呼ばれた。

塾では菅茶山とともに藤井暮庵、頼山陽、北条霞亭など塾頭による四書五経を中心とした講釈がなされ寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの階層に渡る塾生が

2~3年にわたって学んでいます。建物の中に方円の手水鉢がありますが、

方円の手水鉢は丸と四角に掘られています。水は入れ物によってどのようにでも形が変わる。人も同様で教育によってよくも悪くもなると教えています。

       

      

            

時間も4時近くなってきました。今日は高屋まで歩く予定でしたがこの状態では夕方になってきますので今日はここまでとします。

すぐ福塩線神辺駅の時刻表を調べると4:05発があります。このまま急いで駅に行きかえしました。

4:30ごろ福山駅に到着。そのあと福山駅北口にある「福山城」に行ってきました。

      

 

今日(23日)のGPSです。

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「尾道~今津宿(松永)」

2013-11-28 11:04:59 | 山陽道(西国街道)を歩く

11/22鞆の浦からバスで福山まで戻り福山から電車で尾道へ。尾道には12時前に到着。

街道の商店街を歩いていたら「カキフライランチ」の看板が・・・・ 広島と言えば牡蠣ですね。ここでお昼をすることにしました。

お腹もいっぱいになりまた歩き出します。

商店街の一角に「尾道バッチャ祭り」のポスターがありました。この祭りは11月3日に行われるのですが

この祭りの御神興が展示されていました。

   

商店街を過ぎると「防地口」の交差点に差し掛かります。街道はここから尾道商業高校の方に行くのですが防地口の先に

浄土寺」がありますのでそちらに向かいます。

浄土寺の入り口に「西郷四郎」の石碑が建っています。

  

西郷四郎は富田常雄の小説「姿三四郎」のモデルとして知られています。生まれは会津で会津藩家老「西郷頼母」の養子になりました。

嘉納治五郎が講道館を創設したころそれを助けて日本柔道を大成させました。小柄な体格でしたが特技「山嵐」の大業は天下無敵の

稱がありました。大正9年病気療養のため尾道に来てこの上の吉祥坊の方に仮寓し養生につとめていましたが大正11年12月

57歳で死去しました。

浄土寺は616年、聖徳太子の創建と伝えられるています。
足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。(尾道観光協会HPより)

       

       

再び防地口の交差点の街道に戻ります。しばらく歩くと左側に「正念寺」の看板が見えます。中に入っていくと、ここには延命水があります。

手ですくって一口口の中に入れてみます。これで10年ぐらい寿命が延びたかな?

    

 寺の横には「亀山八幡宮」があります。ここには行司軍配を刻んだ石碑が建っています。

正念寺の隣には巨大な鬼瓦がある「浄泉寺」があります。行ってみようと思いましたが、ずっと廻っていかねばならなかったので断念しました。

写真でもわかりますか?

          

 尾道は本当にお寺が多い町です。正念寺の反対側の久保小学校の所には、「西郷寺」があります。

他に今回行きませんでしたが「千光寺」もあります。

    

尾道東高の前の道を歩いているとだんだん上り坂になってきます。ここが「防地峠」。尾道バイパスのガードを潜ると法華経のお題目があります。

     

更にくねくねした道を登っていくと前方が工事中。仕方なく池の方から迂回していきます。

ここには「番所」というバス停があります。というと境界?

今来た道の方には「芸州藩」。道路を挟んで反対側には「福山藩」の境界の石碑が建っています。

    

案内板を読んでみますと

江戸時代ここ防地峠は芸州藩と福山藩の国境でした。当時の山陽道。東の方へは尾道からこの峠を越えて今津、神辺、井原、矢掛と続いていました。

国境ですから人と物の動きをここでチェックするための番所が峠を挟んで芸州藩と福山藩の両方にありました。

明治維新で国境はなくなり番所もどんどん姿を消してしまって今や全国で3棟だけしか残っていません。しかも現地にあって街道を見下ろせるそのままの条件で

残されているのはこの防地峠だけです。明治の廃藩置県で芸州藩と福山藩が併合され広島県が出来上がりました。

防地池を通り高速のガードを通ると「高須」に入ります。

       

 一里塚の先の高台に細い道を行くと「関の地蔵尊」があります。下りて行ったら「ちかみち」の石碑が・・・・・

この地蔵尊に行くための近道なんでしょうか?

街道脇の公園には今や盛りとばかりに「ピカサンサス」の実が真っ赤に実っています。「讃大松の碑」昔大きな松があったのでしょうか?漢文で書かれています。

更に先に進むと「高須八幡神社」があります。鳥居の横には「常夜灯」が建てられています。お宮に常夜灯?何かあまり釣り合いませんね。

調べてみますとこの八幡神社の下まで海だったそうです。   納得!

            

藤井川の真田橋を渡ると「福山市」に入ってきます。ここは「今津」 旧松永市(1966年に福山市と合併)です。

今津というと新しい港というイメージですが、周りをみても海らしいものがありません。1600年代には宿場町として栄えていましたからその以前が港町だったのでしょうか?

陰陽石神社を通ると「蓮華寺」があります。蓮華寺は、

 白鳳年間(七世紀)、今津地方の庄司である田盛庄司安邦の菩提寺として建立されたと伝えられる。

また、明治時代に入るまで、剣明神(つるぎみょうじん)の別当寺を務めていた。

寺伝によると、平安時代延暦二十三年(八〇四)弘法大師空海上人が遣唐使の一員として唐へ向かわれる途路、朝霧の中今津浦から見える山々が紀州の熊野三山に似ているところから、入唐留学の無魔成満を祈願され、今津の地に熊野三山を開山されたという。その一山が当山であり、熊野本宮の御本地仏、阿弥陀如来を本尊とする。
その六百年後、室町時代の応永十年(一四〇三)、当山中興の祖である尊慶阿闍梨は、大師開山六百年を記念して熊野三山を巡礼し、

熊野三所大権現を再勧請(さいかんじょう)している。

時代は下り、江戸時代には参勤交代の制定に伴い、山陽道今津宿の本陣は河本家、脇本陣は蓮華寺と定められ、その史跡「上段の間」が現存している。

宝暦三年(一七五三)に堂塔が焼失し、宝暦十三年には今津東坂旧墓地付近の丘より現在の地に移転。造営に際し、福山城主より多額の浄財の寄進を受ける。尚、本堂は類焼を免れ寛政六年(一七九四)に現在地に移転、再興された。

   

蓮華寺の先には「高諸神社」があります。

『福山史科』によると、白鳳5年、沼隈郡今津村の海岸に難破船が漂着した。乗人は3人で、言葉が通じない。村長の田盛が筆談すると、新羅国王だという。

田盛は彼を厚く遇し、朝廷にこれを報じた。
しかし、朝廷から返答のないまま、翌年に王が没し、前の山に葬った。
翌年、田盛の夢に王が現れ、自分は須佐之男命だと言った。そこで田盛は王を祀った。これが剣大明神(高諸神社)となった。

 

       

今津宿本陣」が設けられたのは慶長7年(1602)。尾道、神辺間の宿場町として戸数300戸、商家軒を連ねて賑わっていた。

本陣は代々庄屋の河本家によって世襲されてきた。

薬師寺は蓮華寺と共に弘法大師によって創建されました。蓮華寺が西方院に対し、この薬師寺は東方院と呼ばれました。

     

街道は本郷川を渡りすぐ左折します。このあたりに「今津一里塚」があるはずなんですが・・・・・・・わからず地図を眺めていると犬を連れて散歩されている方が教えてくれました。

この方は60代の頃、東海道を歩いて踏破されたということです。

松永は畳表に使うイ草の産地。街道沿いにはイ草組合がありました。九州では熊本・八代が有名ですね。

     

先に進みます。時間はもう4時近くなっています。今日は赤坂まで歩く予定でしたが時間的に見て無理ですので手前の「松永駅」までにします。

初冬の夕暮れは早いので少し急ぎ足になります。

松永駅の近くに「神村八幡神社」があります。先ほどの高須も八幡神社、何か八幡神社が多いですね。

駅に向かって歩いていると歩道に「下駄」のマークがついたブロックがあります。松永は履物の町でもあるのですね。

16:30JR松永駅に到着。

                  

16:53発の電車で今夜の宿福山に戻りました。

今日のGPSです。

 

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山陽道(西国街道)を歩く(三原~尾道)

2013-09-24 20:14:11 | 山陽道(西国街道)を歩く
9/16昨日の雨は上がり気持ち良い快晴の天気です。
JR西条発7:40岡山行で前日ゴールの三原駅へ 三原着8:18。



三原駅を降りると構内に「三原城天守跡」の看板があり順路にしたがって歩いていきます。

三原城は瀬戸内海の水軍を掌握していた毛利輝元の三男の小早川隆景が永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島、小島とつないで
天正10年(1582)前後と慶長元年(1596)の頃偉容を整えたといわれる。
城は海に向かって舟入を開き城郭兼軍港としての機能を備えた多城で満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えることから浮城とも呼ばれた。
小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが沼田川の堆積作用などを理由に変更され建物、樹木などが競売に付された。
その後鉄道が本丸を貫き明治27年(1894)には三原駅が開業した。
今では市街化が進み天守台とそれを巡る濠、船入跡、輸入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。(案内板より)

昨日は雨のため廻れなかったので「三原八幡宮」まで戻り街道歩き再開です。
三原八幡宮は、永正7年(1510年)に比大神・応神天皇・神功皇后をまつり、西町・西野村一帯の総氏神として建てられたと伝えられておりますが、
天正3年(1575年)小早川隆景によってこの地に移され、浅野時代、この南側に広がっている宮沖新開築造の際に新田が寄進されています。
  
近くには「西之宮一里塚」や「西惣門跡」があります。

順勝寺山門
 
三原城内にあった御作事奉行所門を明治10年(1877)順勝寺に移したもの。
築城当時の建築物が当時の状況を保存して現存するものは非常に少なく貴重な遺構で永禄から天正年間(1558~72)の作と推定される。

宗光寺山門 宗光寺塔婆
 
宗光寺山門は、小早川隆景が新高山城から移築したとされるが規模、細部意匠などから福島氏が現在地に新築した可能性が高い。
宗光寺塔婆は高さ250,3cm 花崗岩製
相輪を欠失しているほかは各部を完備しているが背面が火に罹ったため基礎や塔身の剥離がひどく相輪がそろっていれば総高300cmの十尺塔であろう。
年代は鎌倉後期の永仁(1293~99)ごろで大工心阿の作。 (以上案内板より)

三原の街道を歩くと昔ながらの家が立ち並んでいる。現役のお医者さんの家だったり、もう営業されていないかもしれないが乳母車屋さんなどがあります。
 


開明橋跡、東大手門跡を通り再び三原城跡へ。
 

和久原川の差し掛かると橋の手前に「和久原川水刎(みずばね)」という案内板が・・・・・
水刎(みずばね)という言葉は聞いたことがなかったので覗いてみると
 
川岸から川中に向けて三角形に石垣を築き出して川の流れを弱める役と流れの方向を変えて三原城の東築出の用地を確保するために造られた石垣と考えられています。

橋を渡って右側に「三原宿本陣跡」(山科屋)があります。そのすぐ近くには日本画の巨匠、横山大観が愛飲したお酒「酔心 山根本店」です。
 

更に先に進むと左側に三重塔が建っています。「松寿寺」です。松寿寺は「三原に寺は数々あれど古きが一の松寿寺」と童歌に歌われた通り三原城築城以前の
貞治元年(1365)に創立された。寺の中に入ってみますが三重塔には行けずやむなく引き返しました。
童歌の通りこの辺りも専福寺、観音寺、極楽寺、浄楽寺と三原はお寺の数が多い町です。
 

新幹線のガードの手前に小さな祠があります。覗いてみますと「大神宮」と書いてあります。
この神社、伊勢神宮を祀っています。小早川家は伊勢神宮を信仰した家で伊勢から村上太夫という御師が来ていました。
毎年2月中旬に行われる「神明祭」は日本一のダルマが奉納されます。(ダルマの写真は三原市観光協会HPより)
 

新幹線のガードを潜りしばらく歩くと「糸崎」の町に出ました。
私事ではありますがこの街道歩き初めのころは博多から電車で山口に来ていました。その時乗った電車が「糸崎行」でした。
糸崎駅は明治25年(1892)山陽鉄道延伸に伴い「三原駅」として開業。その後広島まで伸び、三原市街地に「三原駅」が開業されたため、糸崎駅に変更された。

糸崎駅の付近を歩くとやたら「お地蔵様」が多い。
 

糸碕(いとざき)神社」に着きました。この神社の「さき」は石偏のさき(碕)」です。
糸碕神社は、天正元年(729)神功皇后が西行のみぎり船をこの地に寄せられたとき水を献じたという事によってこの水を「御調井(みつぎい)」といい
のちに長井浦、または井戸崎(糸崎)というようになったという。
 

糸碕神社の神門は三原城内にあった侍屋敷門の一つで明治8年に旧浅野家奉行 生駒氏より寄進されたものです。
 

御調井
 

糸碕神社のクスノキ
NHK街道てくてく旅でシンクロの原田早穂さんも立ち寄られた場所です。
幹回り約13m、高さ20mの大きな楠です。三原市の天然記念物に指定されています。
 


糸碕神社を出て2号線と合流する所に「六本松 一里塚」が建っています。


ここからしばらくは2号線沿いを歩きます。左側には山陽本線そして右側には瀬戸内海です。
今回の街道歩きは険しい峠が多かったので海を見ると気持ちが和んできます。



街道は木原の町に入ってきました。
  
「鉢ヶ峯 虚空蔵」


更に進むと大人峠に入ります。
面白いことに右側は尾道市福地、左側が三原市木原でこの道路が市の境界となっています。
  
大人峠の先の橋梁を右折すると尾道市吉和の町に入ってきます。
 

古い家などを見ているととても落ち着いた街並みです。

街道は日比崎小学校のグラウンド横を通ります。前方を見ると山の上にお城が・・・・・
 
市内には戦国期の城跡はあるが、隣りの福山市の福山城天守(戦災で焼失、昭和41年復元)の影響を受け、昭和39年(1964年)に尾道商工会が観光事業の一環として外観の一部を弘前城天守に模した施設「全国城の博物館尾道城」を建設した。建築は鉄筋コンクリートの三層三階、望楼型の体裁を取っている。尾道駅の北側の丘陵上に立地し、目立つこともあり尾道市のシンボル的な存在ともなったが、歴史的な背景が全くないためにむしろ景観を汚すものであるという意見もあり、建築当初から厳しい論争にさらされた。現在は廃城になっている。(Wikipediaより)

日比崎小学校の坂を超えると大型カメラ屋、ショッピングセンターがあり、その先を右折すると尾道の酒「寿齢」の吉源酒蔵所があります。
安政元年(1854)の創業です。
 
吉源酒造所の先を左折すると尾道駅北口です。

その先の踏切を渡ると「林芙美子像」が建っています。

「海が見える 海が見えた 五年ぶりに見る尾道の海は懐かしい。」彼女のベストセラー「放浪記」の一説です。
彼女は幼年期時代この尾道で過ごしました。
商店街の一角には「芙美子記念館」もあります。
 

奉行所跡
 

尾道は寺の町です。ここから千光寺に行けますが、千光寺に行くにはあの急な坂を上っていかなくてはいけません。
今日はもうスタミナ切れで次回登ることにします。
 

本陣跡


一応ここで今回の街道歩きを終了します。次回はここから始めることにします。

広島駅では台風の影響で新幹線が大幅に遅れていました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私事ではありますが、尾道に行くとどうしても行きたい所があります。
何年か前初めて尾道を訪れたときある方に紹介していただいた「尾道焼」。
この商店街の終点の所にその店があります。
店に入りますと相変わらずの行列。だいたい一時間待ちかな?現在時計は2時を指しています。
予想通り約1時間待って私たちの番になりました。


4回目の来店ですが、いつ食べてもおいしいです。

今日のGPS



9/14~9/16まで3日間のGPS



















山陽道(西国街道)を歩く「竹原・横大道~三原」

2013-09-21 19:17:05 | 山陽道(西国街道)を歩く

 9/15台風の接近で今にも雨が降りそうな天気です。今日は先日買ったゴアテックのレインコート持参のウオーキングです。
JR西条駅発7:40で三原駅へ。三原から呉線に乗り換え竹原駅へ。竹原駅から広島行芸備バス「かぐやひめ号」で昨日ゴール地の横大道へ。横大道着9:35。
昨日はホテルに戻り早めにベッドにつきましたので体調も絶好調です。竹原は昔塩田で栄えた町です。


横大道からなだらかな坂を上っていくと
河原坂峠」に差し掛かりました。
  
石畳の道もありますが、草が1.5mぐらいの高さまであり歩くのが非常に困難です。まるで道なき道を歩いているようです。
ここは急坂のため雨が降ったら峠道が河原のようになるということからその名がついたそうです。
時にはポールで草をかき分けたり走って駆け抜けたりしました。
 
30分ぐらいかけ峠を下りてきました。

県道49号線に出てそれを歩きますと国道2号線サテライト山陽の「日名内」交差点に合流します。
旧街道はこのサテライト山陽に向かって「やねこい山道」に行きますが、資料を調べていますと私有地の上、倒木や多量のごみがあり通行が困難と書いてあります。
また、見る所もないのでそのまま2号線を歩きます。
  
街道は本郷町南方に入ってきます。本郷町の観光案内版を見てみると1400年前の古墳などがあるみたいです。


本郷町は平成17年久井町、大和町と一緒に三原市に合併しました。
三原市には御年代古墳(本郷町)をはじめとして縄文・弥生・古墳時代の遺跡が残されており、古くから人びとの生活が営まれていたことがうかがえます。
平安時代には、楽音寺(本郷町)や昭和30年代まで続いた杭(久井町)の牛市など今に残る歴史資源が創設されたほか、
沼田庄や杭の庄等の荘園が経営され穀倉地としての役割を果たしてきました。(三原市HPより)

2号線追分から進みニホンケミカルの所から左折すると「南方神社(宗長神社)」があります。
ここには二本松古墳の石棺が残っています。

更に進むと「貞丸古墳」の大きな看板があります。
 



御年代古墳」(みとしろ)
 
 
明治28年(1895)国道改修工事により発見された。石棺は屋根型で非常に優美に削られている。6~8世紀の間にわが国で流行したもので7世紀中ごろの築造と考えられる。(案内板より)
またここから発見された須恵器は東京博物館に展示されている。
この付近には他にも大きな古墳があり沼田川沿いに豪族がいたのであろうか?

南方村役場跡
明治22年豊田郡南方村が発足し昭和29年に本郷町に合併されるまでここが町の中心だった。この役場の北側に茶屋があったという。
   
街道を歩くと大きな家が目につく。
 

右側に大きな石碑が建っている。
よく見ると書が内閣総理大臣 池田勇人となっている。そういえば池田元総理は竹原市の出身だ。昭和35年の建立。


横見廃寺跡

ここが芸備地区の仏教文化の発祥の地。寺域は東西100m、南北80mもあり白鳳時代(7世紀後半)の寺院跡。

本郷中学校の横の道を行くと「梅木平古墳」(ばいきひら)があります。
  

広島県最大の横穴式石室(全長13.25m ・幅3.1m ・高さ4.2m)7世紀初め頃の古墳で、山腹を切り開いて巨石を積み重ねてあり、古代豪族の勢力の大きさを示している。
6世紀後半から7世紀始めの築造。沼田川を治めた豪族の墳墓と言われている。
石室の入り口には音声ガイドがありスイッチを押すと説明が流れます。

甑天満宮
 
 
住民の方のお話を聞けばこの辺り昔は海だったそうです。今でも掘ってみると貝殻などが出てくるそうです。道真公は船で立ち寄られたのでしょうか?

甑天満宮を進むと国道2号線に合流します。
沼田川(ぬたがわ)の甑橋を渡り、左に行ってすぐ右折しなくてはいけない所まっすぐ行ってしまいました。
地図を見ると先の方で街道に合流するのでそのまま歩きます。

山陽道は標識が少なく時々迷うときがあります。
みると左手に大きな建物が・・・・・・

これは本郷生涯学習センター、図書館です。

懸念されていた雨が降り始めました。まだ雨具をつけるまでにはいきませんが今日は三原までの行程ちょっと急がねば・・・・・

本郷宿の本陣は、本郷駅の北側の住宅地の一角にありました。
横がお医者さんで現在誰も住んでいないそうです。
 
本郷駅の近くには酒造屋、醤油屋さんなどがあったそうですが、何も残っていませんでした。

円光寺
本郷で一番大きなお寺です。

仏通寺」道標

応永4年(1397年)小早川春平が唐(中国)にわたって修行した名僧愚中周及禅師を迎えて建てた寺。日本屈指の禅道場として知られ、企業や学校等の研修の場として多くの人が訪れる。
堂塔伽藍が古い杉木立に囲まれて立ち並び、夏の新緑、秋の紅葉時は、大変素晴らしく、多くの観光客で賑わう。(広島観光ナビより)
先を急ぎましたのでパスしました。

時間も2時近くなってきました。雨は止むどころか本降りになってきました。
お腹も減ってきたしどこか食堂はないかなと探すと街道沿いに小さなお好み焼き屋さんが・・・・・
そういえば昨日はお昼を食べていないので終盤バテたのではないでしょうか?食堂はおろかコンビニもありませんでしたから・・・・・・
 
食堂のおばちゃんは宮崎西都のご出身だそうです。先日も法要で九州を廻ってきたそうです。テレビでは広島VS巨人の試合が放送されており広島が先制すると喜んでおられました。

お腹もいっぱいになり、ここでゴアテックのレインコート、防水の帽子をかぶって再び出発します。
本郷で一番大きい寺「西念寺」を抜け「吉国神社」を通り納所橋の手前で2号線に合流。
 

再び「本市橋」から山陽線の踏切を越え旧街道を歩きます。それから沼田防災センターの看板から三原バイパスの橋梁の下を通り沼田川沿いに歩きます。
 


「定屋大橋」の信号を左折すると広島大学の付近に「道標」が建っています。是従東 備後国、是従西 安芸国」と記されています。

このまままっすぐ歩いていくと新幹線の高架が見えてきました。
このガードを潜ると三原城内に入るのですが、今日はもう時間も遅くそのままJR三原駅に直行しました。三原駅到着17:08.


今日のGPSです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三原駅発17:25で宿泊地西条駅へ
西条では昨日散策したときに食べたいなと思った「美酒鍋」。本当は昨日行く予定でしたが私の体調不良で行けませんでした。
今日こそはと思いお店に入りましたが満席でした。然し10分ほど待たされようやく席に着きました。
これが「美酒鍋」です。


もちろんお酒は「賀茂鶴」です。

しっかり体力も付き明日の最終日に備えました。










山陽道(西国街道)を歩く(西条から竹原・横大道)

2013-09-19 17:37:18 | 山陽道(西国街道)を歩く
9月14日からの三連休を利用し山陽道歩きに行ってきました。
今回もJR西日本の「広島とくとく切符」を利用しました。
この券は新幹線往復自由席、広島管内フリー区間がありかなりお得です。

6時5分博多駅発の新幹線で広島へ。広島から山陽本線上りの電車で西条へ。
西条には8:00ごろ到着。
   
西条は、1650年ごろから酒造りが始まり、現在駅前には8つの蔵元が集まっており、今では灘、伏見と並ぶ日本三大銘譲地となっています。
 
 

白牡丹の冥加の水
 

西条四日市宿は広島県10宿のうちで一番大きな宿場で本陣にあたるお茶屋は藩が管理していました。
お茶屋(本陣)跡は、賀茂鶴の中にあります。
 
案内板によると

江戸時代 ここ西条は「西条四日市」と称し 旧山陽道最大の宿場町として栄え 有名でありました
全国の宿場には 大名のとまる宿がその土地の名家でいとなまれ「本陣」と称せられていましたが 西条四日市宿場だけは重要な大宿駅でありましたので 藩(淺野藩)が直営で 
これをつくられ「御茶屋」と称せられていました
この場所は その「御茶屋」のあった所であります
「御茶屋」の規模は 古文書によれば
一、土地の広さ 一、四八八坪(約四、九一〇平方米)
二、部屋数 二十九
三、畳の数 二百十四畳半 でございます
建物は 明治維新後に取りこわされましたが 御門と 称せられていた正門は 賀茂鶴の当主の木村和平翁が 土地とともに払い下げを受けたので 今日まで保存してきましたが 貴重な文化財でありますので
 此のたび 建築学の大家であらせられる 広島大学名誉教授の佐藤重夫先生の 考証と御指導を仰いで 復元したのであります
なお 此の地は 安芸國分寺(ここより東北約五00米に現存)が建てられた頃(西暦七四一年)安芸の國の政治の中心「國府」があったと 伝えられています


酒蔵通りを抜け山陽線ガードを潜ると「安芸国分寺」があります。
 
 

国分寺を後に再び街道に戻ります。
西条には、民家に独特の赤瓦があります。
その誕生の背景には、この地方が冬は積雪に見舞われる一方、夏は強烈な陽射しが照り付けるという気象条件。過酷な環境に耐えうる瓦として使用されたのが赤瓦です。
材料は東広島で産出される良質の粘土。黒瓦と異なり釉薬として来待石を使用していたことからこの赤瓦が生まれました。高温で焼成した赤瓦は瓦全体をガラスで
包んだような光沢があります。
 
 

街道は市街地を抜け山間部に入ります。
川沿いの道を歩いていると「旧山陽道歌謡坂一里塚跡」(うたうたいざか)があります。
牛満長者の田植えがここから田植え歌を歌いながら始められたので歌謡坂と名付けられたそうです。
※昔、焙烙(ほうろく)(※素焼きのお鍋)を商う男が今宮神社を通るとき、そこにいた弱った牛に自分の弁当を食わしたが、結局牛は死んでしまった。
哀れに思って体をさすると大判小判に変わり、男は牛満長者と呼ばれるようになった。

今宮神社(牛宮神社)」
前述の弱った牛が亡くなった所にお宮が建っていました。

かご松の碑
街道松がありここで殿様も駕籠を止められ休まれたそうです。


更に先に進むと左側に山道があります。ここが松子山峠の入口でしょうか?標識はないかな?と探しますがありません。地図ではここを入るようになっていますが、
とりあえず恐る恐る入っていきます。

入るとすぐ泥濘(ぬかるみ)があります。今回シューズは雨に強い「ゴアテック」を履いています。

右側に池がある所に来ると道が二手に分かれています。地図を見てもわかりませんので携帯のGPSを使いますがここでは圏外の表示。

随分考えた挙句、左側の道にはビニール紐がつけられています。多分こちらだろうと思い左側の道を選びました。

峠の頂上には「松子山峠」の標識が建っていました。間違っていませんでした。

先へ進むと何というか、道がなくなっています
持ってきたタブレットで先輩たちが歩かれたブログを開くとここを下りていくとなっています。
高さ50cmぐらいの段を下り、あとから来た家内の手を引いてあげます。
 
この峠は、泥濘が長く続きますがそれより倒木があちらこちらで見られます。

1時間ちょっとでやっと峠を越えました。

然しこの峠、この山陽道の中でも1,2位を争う厳しい峠です。

前方には東広島呉自動車道が走っています。街道はこのガードを潜っていきますが、どうも私の両足に豆ができたみたいです。
ガードの手前に空き地がありましたので靴を脱ぎ救急絆創膏で手当てします。ゴアテックがいいと思い新しいシューズにしたのがいけなかったのかな・・・・

石立大明神の近くに「日向一里塚」があるということでしたが、見つけられませんでした。


三永(みなが)の石門
 国道2号線によってそれまでの農業用水路が分断されるため明治15年(1882)に設けられた石造のアーチ式水路橋です。国の登録有形文化財に登録。
こうした水路橋は中国地方でも数少なく橋の下を当時の国道が通っていた。昭和53年(1978)国道の拡幅工事に伴ってここに移築された。  (東広島市HPより)

今日は天気も良く暑くて飲料水をよく飲んだ。そのため飲料水の在庫も乏しくなりコンビニや自販機を探すがどこにも見つからない・・・・・・
2号線を渡る陸橋から舗装会社のプラント工場が見える。あそこだったらあるかもしれないと工場内に入ってみるとありました。
ここで飲料水を補給して再びスタートします。
街道の側には、彼岸花も咲いています。


茗荷清水
街道脇に右側に茗荷清水と水がわき出ている所があります。昔の旅人はここで喉を潤したのでしょう。
何年か前の写真には小屋があったがいまはありません。
 

田万里」へ
ここから竹原市田万里に入ります。
田んぼには稲の天日干しが行われており秋の香りを漂わせています。

 

石立神社
東広島市三永の所にも同じような神社がありましたが、同じ系列でしょうか?


先の方を見ると御夫婦のウオーカーさんが・・・・・
すれ違った時にお話をすると大阪から来られた方で山陽道を西へ向かわれているそうです。
もう東海道、中仙道を歩かれ街道歩きの大先輩でした。
今日は本郷から西条まで歩かれるそうです。最終目標は来年末の長崎だそうです。
私達も来年末には京都・東寺にゴールしたいなぁ。


  

田万里宿」に入ってきました。
田万里宿は、西条と本郷の間が6里(約24k)もあり間宿として発展しました。
本陣、問屋、旅籠、茶店が軒を連ね戸数35余りの集落でした。
 
 

「茗荷の清水」
東広島上三永の方にも同じような清水がありました。
昔は名水だったのでしょうが、今ではカエルがいたりして飲み水としてはちょっといただけません。


のどかな道を歩き街道は「大橋」の所で左折します。
先ほど舗装会社の工場で飲料水を仕入れたのですがもう無くなりかけています。
近くの人にコンビニの場所を聞くとここから1km離れた所にあるそうです。
 



2号線新庄の車屋さんの所にそのコンビニはありました。
そこで水分を補給しついでにアイスクリームもいただきました。
再びスタートしますが、どうも私の体が言うことを聞いてくれません。
上り坂に差し掛かると息切れして思うように歩けません。これからまた峠にさしかかるのに・・・・・
 
それでも「横大道」まで来ました。時間は3時を少し過ぎたころです。
しばらく休憩しますがそれでもよくなりません。軽い熱中症みたいです。


この道標は、東「大阪」、西「広島」と書いてあります。この道標を見ると歩き出したくなりますがすぐ息切れしてしまいます。
仕方がないので今日はここで終了することにします。

帰りはタクシーでJR山陽線入野駅へ行きそれからJR西条駅に戻りました。

今日のGPSです。











 













山陽道(西国街道)を歩く(瀬野~西条)

2013-07-23 22:15:04 | 山陽道(西国街道)を歩く
三連休の3日目(7/15)、前日ゴール地 瀬野駅に8時15分到着。


瀬野駅には、みどり口側にスカイレールがあります。
これは住宅団地「スカイレールみどり坂」の住民のために開発された新交通システムです。
総人口1万人を見込んで1998年8月に開業しました。
  
また瀬野駅には「瀬野機関区跡」も設置されています。
瀬野駅と次の八本松駅間10.6kmは勾配が22.6パーテル(1000m進む間に22.6m上がる)という難所。
従って貨物列車は重くてこの峠を登れないので後ろから別の機関車が押して登っていきます。
鉄道ファンでは「セノハチ」という名称で有名です。今日も私たちの目の前を機関車に後押しされた貨物列車がと通り過ぎていきました。
この峠が「大山峠」今日歩いて登る予定です。
  
駅前の2号線を渡ると旧山陽道があります。
先ずは榎山川に立つ『落合の一里塚』それと「道標」道標には、右 四日市(西条)、左 志和と書いてあります。
  
また、瀬野の町には、鏝絵の家やなめこ壁の旧家が残っています。
 
 
街道は山陽本線と並行しています。途中で踏切を渡り「一貫田宿」に着きます。
一貫田宿は、海田と西条四日市の間の宿として栄えました。
町を通っていると民家の前に「山頭火」の句があります。調べてみますと種田山頭火は昭和8年(1933)9/19~20まで一貫田に滞在し、俳句16句と日記を書いているそうです。
 

一貫田のバス停の近くに交差点があります。ここに道標が建っています。右:熊野跡、呉 左:八本松・西條。
熊野というとナデシコジャパンが国民栄誉賞をもらった時に副賞で贈られた「熊野筆」の産地です。
JR「とくとく広島きっぷ」を買うと熊野のリップ筆がいただけます。帰りにでも広島駅でもらってみよう。
  
町並みを抜けると街道沿いに松が植えられています。標識を見ると山陽道三本松になっています。下には二代目となっていますので植え替えられたのでしょう。


古い橋を超え、鉄橋を近くで見ながら段々峠に近づいてきます。ここでちょっと休憩し藪蚊、ハチ対策に蚊取り線香、マムシ対策にポールを準備します。


※前方の高架橋は、海田からのバイパス工事を行っています。

さて、山陽道(西国街道)の中でも難所の『大山峠』に入ってきます。
この街道を歩かれた先輩たちのブログなどを見ているとこの峠は八本松からの方が登りやすいと書かれていますが、私たちはあえて瀬野の方から
登ることにしました。
 大山峠は、日本書紀崇神天皇(3世紀前半)の条に、西道(にしのみち)のことがあり、これは後の山陽道のことだと云われ、
 若しそうであればこの峠も弥生時代すでにあったことになります。その後、山陽道は京と筑紫大宰府を結ぶ官道となり
 当時の道路区分では大道でこの付近は延喜式にいう大山駅が置かれていました。
 この道は、明治17年(1884)2号国道が新設されるまで国の幹線道路としての役目を果たしました。その間九州へ派遣される防人もこの峠に
 立ってでしょうし元寇の急変を知らせる早馬も駆けすぎて行ったでしょう。また明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っていることを
 考えるときその時代時代の見てきた峠です。
 それに多くの人々が詩歌や紀行文を残している峠でもあります。万葉の詠み人知らずの歌もあれば、応安4年(1371)4月九州へ下向の
 今川了俊も軍の先頭に立ちながらものにしを「道ゆきふり」の中の大山峠を越える一文のようなものもある。
 西から上がってくる坂を「代官おろし」と呼ぶが、これは如何なる格式のある人でも駕籠から降りたという難所であったことを意味し
 峠より西10mの大山清水は旅人の喉を潤した名高い清水であった。
 この位置は江戸時代憩亭のあった所であるが平素は村人が旅人に草鞋やいり豆を売っていたという。
                             昭和58年東広島郷土史研究会案内板より
 
※米なら1石、1石五斗 馬に背負わせて運んだという。この馬は「きんつき」(去勢していない)でよく跳ね扱いが難しかったそうです。

  
頂上まで1.1km。約15分かな?お代官さんもここで籠から下りたそうです。

  
博多刀工の流れを汲む大山刀鍛冶初代守安の屋敷とお墓があったそうです。

  
標高340mの大山峠に到着。大山清水では、水が飲めるよう柄杓が用意されています。

  
下りは道幅も広く、下りやすかった。

八本松側の大山峠案内板。

大山峠を下りてくると急ににわか雨が降ってきました。
あわてて民家のガレージの軒先をお借りして雨宿りします。これが峠の途中でなくよかったです。
  
時刻も12時近くなり、雨も小降りになりましたので近くに食堂を探しました。ここでお昼にします。


雨も上がりお腹もいっぱいになりましたので再びスタート。


八本松八十八石仏
明治末期北海道開拓で富を得、八本松駅近くに帰ってきた堀岡熊次郎が中心となって一連の石仏群を建立した。
かつては参勤交代の西国大名も通った旧山陽道も通じていた八本松だが大正末期には人家もまばらな田舎であった。
人の集まるものを作りたいと四国八十八霊所になぞられて四国の各霊場の本尊と同じ如来、菩薩などの石仏を刻み
1番~88番までその順に設置したものである。大正15年に完成した。(八本松八十八石仏の会HPより抜粋)

『妙福寺』
 

『清水川神社』 『須久茂池跡』
  

街道を進みます。
前方にシャープの工場が見えてきました。シャープの運動場の先には大きな池があります。
地図には「池」という目印をしていました。ところがいくら進んでも次の溜池が出てこない。
携帯のナビを使って現在地を調べてみますと、本来左折すべき所を左折せずまっすぐ来ていた。戻ってみようか?と考えますが、もう5kmぐらい進んでいます。
ここには飢坂峠、一里塚などがあったのですが、戻ると帰りの新幹線の時間にも影響しますので、これから西条駅を目指して進んでいきます。
然し通行の方、あるいはご近所の方に聞こうと思っても誰とも会いません。確か西条駅は市街地の中だから大型の小売店があるはずだと思い
大型の小売店の看板の方に向かって歩き出しました。しばらく歩いていると寺家の交差点に出てきました。この奥が山陽道です。
 
 

西条といえば酒処ですね。
駅前の通りには「酒蔵通り」といって8軒の酒蔵があります。今や伏見、灘と並び日本三大銘醸酒に数えられます。(福岡の酒は4番目かな?)
その歴史は1650年ごろと言われています。西条は250m~300mの盆地にあり、仕込みの時の気温が4~5度、また龍王山からの伏流水が美酒の要因になっています。
また、各酒蔵には仕込み水の試飲もできます。

 
 


もう少し酒蔵を廻ってみたかったのですが、帰りの新幹線の時間もあり今回はここでゴールとします。
15時15分JR西条駅ゴール。

※西条駅は工事中でした。
次回は9月の連休を予定しています。今度は頑張って尾道まで行きたいですね。

7/15のGPSです。



7/13~7/153日間の歩いたコース