7/3(月)、4ヵ月ぶりの「東海道道草ウオーク」です。
博多を6:08始発の新幹線のぞみに乗り、途中でひかりに乗り換え、浜松に着いたのが10:06。荷物をホテルに預け、前回ゴール地「連尺」を10:30から歩き出しました。
新町バス停のところに「夢告地蔵」があります。安政5年(1858)に流行ったコレラの犠牲者を供養するための延命地蔵でした。明治になって廃仏稀釈の波を受け土中に埋められてしまいましたが、
小柳丈之助の夢に「世上に出たい」と現れ、大正8年(1919)に町民たちの手で掘り出され、お堂に安置されました。これが「夢告(ゆめつげ)地蔵として人気を呼び、参拝客でにぎわったそうです。
松江町の馬込橋を渡り、しばらく歩くと「旧掛塚街道入口」の看板があります。その向かい側のホテルのところには、「旧笠井街道入口」の看板。
「旧掛塚街道」は、東海道に対し、南街道の道として重要な道でした。明治中ごろまで天竜川上流から運ばれてくる材木や鉱石、木炭を浜松市内へ運ぶ道として栄えました。
「旧笠井街道」は、当時の流通の中心地「笠井」を結ぶ唯一の街道でした。
馬込一里塚を過ぎ、「蒲神明宮」に来ました。この蒲神明宮は、浜松で一番古い神社です。大同元年(806)、伊勢神宮を勧請し、創建されました。
参道が1km以上あり、往時の規模を彷彿とさせます。鎌倉時代、室町時代の将軍の信仰を得ていました。
今日は、浜松でも日中の気温が30度を超え、現在33度ぐらいでしょうか、とにかく暑い。地図を見ながら、名所地よりもコンビニを探すほうが多くなってきます。
現代のコンビニは、今でいう、「お茶屋」さんですね。
天竜川駅近くの六所神社から入った所に「法橋の松」があるそうですが、なかなか見つけられません。近くの人に聞きやっと見つけました。
「法橋の松」は、三方原の戦で逃げた家康を匿ったことで有名な日蓮宗妙恩寺の開基、金原法橋の館のあった黒松と伝えられています。樹齢700年といわれ高さは約14m、幹回りは約5mあります。
国道1号線の下を通ると、「安間一里塚」があります。江戸から数えて64番目の一里塚です。この一里塚が、本坂通(姫街道)の分岐点で姫街道一里塚の最初の塚ともなっています。
歩いていると古い大きな家が見えてきました。これが「金原明善生誕地」です。
天保3年(1832)に豪農に生まれた明善は、水害で苦しむ住民のため自費で治水工事を行い、その治水の考え方は、のちの天竜川治水の基本方針ともなっています。
また、水源地の植林に力を入れ、杉や檜など292本の木がある森を作ったといわれ、これが天竜美林と呼ばれるようになりました。(さすが静岡東海道より)
今、歩いている「中野町」は、東海道江戸から60里、京から60里の位置に属し、東海道の中間点でした。かつてここを流れる小川には、土橋(東橋)が架かっていました。中野町では、一番東の橋で
東海道を往来する旅人は皆、この橋を渡りました。明治後期から、中野町は、天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。堤防沿いには、旅館、芸者置場、小料理屋、洋食屋、
玉突き(ビリヤードかな?)、カフェなどの店が軒を連ねていました。
天竜川橋紀功碑
浅野茂平は、明治元年(1867)の天皇東光行に際して、天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年(1874)には、舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の
活性化に大きく貢献しました。
中野町銀行跡
明治15年(1882)この場所で「竜西社」が結成され、2年後に中野町銀行が誕生しました。その後、西遠銀行と合併し遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収されました。
昭和49年まで建物があり、現在は地面に埋もれたレンガにかすかに当時の面影を見ることができます。
舟橋・木橋跡
江戸時代の天竜川は、江戸防衛の理由から橋が架けられてなかった。東海道の往来は、上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。
明治元年(1867)、天皇御東幸の際には、舟を並べ板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられた。その後、同7年(1874)には、本流の舟橋と洲の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成して
街道の往来が格別に便利になった。然し、舟橋は洪水により度々流されたので、同9年(1876)に完全な木橋に架けられました。この天竜橋は昭和8年(1933)に現在の鉄橋ができるまで使用された。
天竜川が見えてきました。私、今年の4月に上流の長野県飯田で行われた「飯田ツーデーマーチ」で天竜川下りを体験しました。
橋を渡っていると何か、懐かしい感じがしてきました。この天竜川には、何本もの橋が架けられ、今渡っている天竜川橋は、全長約920mぐらいです。
橋を渡ると磐田市に入ります。磐田市は、2005年に磐田市、豊田町、竜洋町、福田町、豊岡村と合併し、人口約17万人で静岡県内で5番目に人口の多い都市です。
このあたりは、旧豊田町。マンホールには、旧豊田町の花「藤」が描かれています。また、行興寺の長藤は、県の天然記念物に指定されています。
天竜川橋から少し上流の所にある「池田の渡し跡」に向かいます。池田の渡しの前には、「歴史風景館」がありますが、今日は月曜日で休館でした。
天正元年(1573)、家康公は武田軍との戦の危機を救った東岸の池田と西岸の船越一色村に渡船の独占権を与えました。天竜川には瀬が二つあり、その中洲で船を乗り換えるシステムでしたが、
明治に有料の橋が架けられ、渡船は無くなりました。風景館では渡しの歴史等が紹介されています。
広重の浮世絵「見附」には、天竜川の渡しが描かれています。
再び街道に戻ります。長森の信号から入るのですが、どうも一つ手前の信号から入ったみたいです。若宮八幡宮のコンビニで地元の方に聞き、街道に戻りました。
宮之一色という所に秋葉神社の常夜灯がありました。この常夜灯(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政十一年【一八二八年】に建てられたものとわかりました。
竜の彫り物があるので「竜灯」とも呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。
「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。
宮之一色一里塚を過ぎると千寿酒造に向け、少し上り坂になっています。旧街道はここから斜め右に入ります。
「くろん坊様」 黒坊大権現は、旧東海道筋で現磐田化学正門の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。
インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので土地の人が手厚く葬ったものといわれており、毎年11月3日が縁日とされています。
「大乗院坂」 山伏の修行寺「大乗院」があった坂です。赤レンガ製作工場があったことから、磐田の建物には、赤レンガが多く使われています。
中泉の町に入ってきました。中泉交流センターには、江戸時代の中泉、大正時代の中泉の絵図がありました。
現磐田駅も昔は、「中泉駅」と呼ばれていたそうです。
15:28今日のゴール地「磐田駅」に到着しました。磐田駅では、昔のSNSの仲間「country walkerさん」と会う予定になっていて今日一番の楽しみでした。
country walkerさんは、以前、東海道を往復された方で、私たち東海道ウオーカーにとって大先輩です。
色々なアドバイスをいただいてとても有意義な時間を過ごすことができました。
初めてお会いするのですが、以前のSNSで交流があったからか、とても初対面とは思えませんでした。
そのあと、country walkerさんの車で明日歩く見附の町を案内してもらいました。
西願寺山門です。これは、「中泉御殿」の裏門を移設したものです。中泉御殿は、明日行きますのでその時に説明します。
サッカーJ1ジュビロ磐田の本拠地「ヤマハスタジアム」です。ジュビロという意味は、ポルトガル語の「歓喜」を意味しているそうです。
スタジアムの向かい側には、ヤマハ発動機の本社がありました。
country walkerさんからJR豊田町駅まで送っていただき、今晩の宿浜松まで戻りました。今日の歩行距離は20kmでした。
とにかく今日は暑かった。浜松の居酒屋で飲んだビールは本当においしかったです。