よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーク №26(その1)(袋井宿~掛川宿~日坂宿)袋井市~掛川市

2017-07-15 17:34:20 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

7/5(水) 昨日の台風3号は、夕方から雨、風が強くなりましたが、今日の明け方には、過ぎ去ってしまいました。

今回の東海道歩き3日目です。浜松のホテルから荷物を今日の宿舎 掛川のホテルに預け、袋井まで戻ってのスタートです。

袋井駅から前日ゴール地どまん中茶屋まで歩きます。(1km」ちょっとあったかな?)

新屋の秋葉山常夜灯

火伏の神様、秋葉山大権現への信仰は、江戸時代に盛んになり、秋葉神社参拝の道には、常夜灯がたてられるようになりました。やがて町を火事から守る象徴として

町の中にも立てられました。この新屋の常夜灯は、木製の屋台造りで、見事な彫刻で装飾が施されています。

   

七ツ森神社  七ツ森は、田圃の真ん中に残る七つの塚として尾張藩藩士高力猿猴庵が天明6年(1786)に東海道を自ら旅して記した「東街便覧図館」に描かれています。

その中で一番大きな塚の上に描かれているのが七ツ森神社です。この七ツ森には伝説があります。桓武天皇のころ、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するため、朝廷から派遣された七人の武士は、

退治できずに返り討に合い命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七ツ森だと伝えられています。

医王山 油山寺」 46代孝謙天皇が眼病平癒を祈願。全快したことから目の守護、眼病平癒に御利益のある寺です。

この油山寺を始め、「法多山 尊永寺」「萬松山 可睡斎」は、袋井市内にある遠州三山と呼ばれています

   

袋井東小学校の横には、「久津部一里塚」があります。江戸からちょうど60里。明治初期までは、老松が立っていました。

  

大和ハウス工場の近くには、「富士浅間宮赤鳥居」があります。この800mほど先に富士浅間宮があります。本殿との間に道路が横切り、工場が立っているため、神社を望むことは、出来ません。

平安初期に坂上田村麻呂が先勝祈願の成就として社殿を造り、太刀を奉納したのが始まりとされ、足利尊氏がこの地を富士宮市の富士山本宮浅間神社に寄進しています。

戦火で一度消失しましたが、天正18年(1590)に建設された本殿は国の重要文化財です。本殿へ行ってみたかったのですが、往復30分ぐらいかかりますのでやめました。

   

   

名栗の立場近くを通っていると、後ろから車が近づいてきました。よけようとすると車の中から一人の男性が降りてこられました。

昨日どまん中茶屋でお会いしたAさんです。私のリュックの後ろの風車で解られたのか、エールを送っていただきました。お仕事の途中だったみたいですが、有難うございました。

名栗の立場跡から同心橋を渡ります。右遠くには、「静岡スタジアムエコパ」が見えます。

  

同心橋を渡ると、「掛川市」です。掛川市は、人口約118,000人。掛川は、古くから交通・交易の要衝でした。東海道は、東西に、秋葉街道(塩の道)は、南東から北西に掛川で交差しています。

「原川」は、掛川宿へ1里18町(約6km)、袋井宿に33町(約3,6km)と両宿のほぼ中間に位置し、旅人相手の茶屋や酒屋が立ち並ぶ「間(あい)の宿」でした。

  

   

東名のガードを潜り、しばらく歩くと「大池一里塚跡」があります。

岡津の道標には、掛川へ1里、袋井へ1里と書いてます。

天竜浜名湖鉄道西掛川駅では、天浜線のラッピング電車に遭遇しました。ラッピング電車には、家康、信玄、井伊直虎が描かれています。

    

大池橋に来ました。ここには、「秋葉道道標」があります。東海道を旅する人々は、ここから秋葉道を通って秋葉総本山を目指しました。

秋葉信仰は、江戸中期に爆発的なブームとなり全国へ広がり、掛川宿から分岐して秋葉山へ入り、御油宿で東海道に戻って伊勢参りをしています。

秋葉信仰は火難・水難よけ,とくに火難よけ(火伏せ)の信仰として全国的に分布しているが,とくに関東・中部地方に濃厚である。この信仰の中心は遠州秋葉山で,

各地の秋葉山はここから分祀したものといえる。また関東・中部地方では秋葉講中あるいは代参・月参講中が結成され,秋葉山への参詣が盛んである。

秋葉山では秋葉神社・秋葉寺(三尺坊権現)ともに12月15,16日に火祭を行っている。秋葉神社では火之迦具土神をまつり,16日の大祭には弓・剣・火の舞が行われる。

 

   

  

広重の掛川の浮世絵は、大池橋から秋葉山を見ています。

   

大池橋から逆川橋に向かいます。東光寺近くに「平将門十九首塚」があります。

天慶3年(940)、藤原秀郷は、関東を制覇した平将門を討伐し、将門以下家臣19名の首を持って上洛、ここ掛川の地で朝廷の勅使と会い、後に「血洗川」と呼ばれる川で首を洗って検死を行いました。

その後、無残にも路傍に棄てさられようとするのを見て「その屍を鞭打つは非情なり」と19の首を埋葬し供養しました。掛川の地名は、橋の欄干に首を掛けたことからとも言われています。(さすが静岡東海道より)

また、掛川を歩いていると「井伊家ゆかりの地掛川」の幟を見かけます。

永禄5年、井伊直虎の許嫁「直親(亀之丞)」は今川の本拠「駿府」に向かいますが、途中の掛川城下で今川氏重臣、掛川城主の朝比奈泰朝に殺害されます。その場所が「十九首塚」であっただろうと

推測されています。また、万治2年(1659)、掛川藩の藩主が北条家から井伊家に代わり、それから4代、半世紀近く掛川城主を務めたそうです。

  

掛川宿に入ってきました。掛川宿は、家数960軒、本陣2軒、旅籠30軒、人口3443人(1843年資料より)でした。

清水銀行には、山内一豊・千代夫妻の像があります。天正18年(1590)掛川城主であった山内一豊が名馬を欲したところ、千代夫人がひそかに蓄えていた黄金をもって願いを叶えさせた

という内助の功が美談として伝えられています。後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで連綿として城主の家系を守りました。

  

掛川城跡

文明年間(1469~87)に今川義忠が重臣朝比奈泰煕に城を築かせ、その後秀吉の命で山内一豊が改修し、天守台を築きました。貴族的な外観の美しい城は、安政の地震(1854)で一部を除き

大半が損傷。再建されずに明治2年(1869)廃城となりました。損壊を免れた二の丸御殿は、江戸後期の建物で城郭御殿としては、京都二条城・川越城・高知城だけに残る貴重な建築物で

国の重要文化財です。平成6年(1994)、天守閣は掛川市民の手で140年ぶりに再建されています。(さすが静岡東海道より)

    

大日本報徳社

経済と道徳の調和により、精神的・経済的・に豊かになろうという二宮尊徳の「報徳思想」を伝えている全国に100以上ある報徳社の本社です。建物は、大行動が国の重要文化財、

正門、図書館は県の文化財、記念館、学舎は市の文化財です。(さすが静岡東海道より)

中庭には、二宮尊徳の鍬を持っている像がありました。

  

    

                                                                                                    

 その2に続く