山鹿市菊鹿町にある「鞠智(くくち)城跡」に行ってきました。※熊本では、「きくちじょう」と呼んでいます。
7世紀の東アジアでは、朝鮮半島で唐の高句麗遠征などをきっかけに、高句麗・百済は、唐と敵対するようになります。その一方、新羅は、唐の制度を積極的に導入し、唐と親密になって行きます。
同じころ、日本では、中大兄皇子を中心とした「大化の改新」の最中で国内の政治体制を整備し始めたばかりでした。然しながら、日本は、百済と友好関係にあったため、まだ国内が十分に整わないうちに
この動乱に巻き込まれていきます。660年、百済が唐・新羅に滅ぼされると、日本は積極的にこの動きにかかわっていきます。663年、中大兄皇子は、百済遺臣の求めに応じ、百済復興のための軍勢を派遣します。
この日本軍と唐軍が、今の韓国忠清南道の錦江河口に遭った「白村江(はくすきのえ)」で激戦を繰り広げ、日本は、大敗を喫し、百済復興の道は閉ざされます。※「白村江の戦い」
この時、日本は、国家史上初めて、外敵からの脅威にさらされることになります。
そこで大和朝廷は、西日本を中心に防衛体制を形成します。対馬には、最前線基地として金田城を築城、太宰府の防衛には、大野城、基肄(きい)城、水城が築かれます。
その背後にあったのが、この「鞠智城」でした。九州南部に位置し、防衛施設であったと同時に、食料や武器を前線に供給する為の、兵站基地であると考えられます。
然し、唐・新羅による日本侵攻はありませんでした。鞠智城は、その後役所的な役割を持つ施設や食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで存続しました。(鞠智城跡パンフより抜粋)
平成6年(1994)「歴史公園鞠智城 温故創生館」として整備が開始され、米蔵や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元公開されています。
平成16年(2004)に国の史跡に指定されています。その規模は、東西1,6k、南北1,3k、外郭線の総延長5,3k、総面積120haです。
「鼓楼」 八角形という特別な形であることと、柱が多く配置されていることから、三層目に置かれた太鼓で合図したり、時を知らせたり、見張りをしたりするためのものでした。
韓国の二聖(イーソン)山城でも同じ建物跡が見つかっています。
「米蔵」 校倉造りの高床式の建物で米などの穀物を保管した所です。
「兵舎」 土間の床で大きな建物であったことから鞠智城の守りについた防人たちが暮らすための「兵舎」として復元しました。1棟あたり50人の防人たちが寝泊まりしていました。
「板蔵」 兵舎の近くにあったことから、武器や武具を置くための「武器庫」です。
5月5日までは、鼓楼の一般見学が行われていましたが、今日は、中に入ることができませんでした。
温故創生之碑は、中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に城づくりを指導したといわれる百済の貴族「憶礼福留」、東側に八方ヶ岳に祈りをささげる巫女、北側には伝説上の鳥「鳳凰」1対が立っています。
碑には、防人の歌が刻まれています。
父母が 頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ 忘れがねつる
意味 父母が頭を撫でながら達者でいなさいと言った言葉が忘れられない。
わが妻も畫にかきとらむ 暇もが旅行く吾は 見つつしのはむ
意味 私の妻を絵に描く暇があったらなあ 旅に出ていく私は、それを持って行っても思い慕うものを
防人に行くは誰が夫と問う人を見るが 羨しさ物見もせず
意味 防人に行くのは誰の夫ですかと聞いている人を見ると、羨ましくなりますよ 何の心配もしていないのだから
防人は、諸国から「難波津」に集められ、船で太宰府に送られ、防人司の統率下に置かれました。そして各地に配され、軍務に従事しつつ空き地を開墾し食料を自給していました。
一般に3年で交代されましたが、年限を過ぎても帰郷できない人もいたと言われます。(帰りの旅費などは、自腹だったそうです)
上の表を見ると、大和朝廷の古代山城は、九州北部から瀬戸内にかけて分布していることがわかります。これは、当時の都であった「難波津」や「「近江大津宮」に至るルートです。
大和朝廷が唐・新羅の連合軍による侵攻を想定し、防衛を固めようとしました。
7~8世紀頃に築城された西日本の山城を総称して「古代山城」といいます。尚、古代山城の中でも日本書紀や続日本紀などの歴史書に記載のある城を「朝鮮式山城」、記載のない城を「神籠石式山城」と呼びます。
日本書紀の中で日本に亡命してきた百済の達率である「憶礼福留」と「四比福夫」を派遣して築かせたとの記述があります。朝鮮式山城は、朝鮮半島の最新の土木技術が使用されていました。
短時間では、ありましたが、「鞠智城」の概略がだいたいわかりました。
今から、約1300年前のことです。唐・新羅の連合軍による日本侵攻はありませんでしたが、若し、攻めてきていれば日本はどうなったのでしょうね。
鞠智城跡がある山鹿市では、「鞠智城跡」を国営公園にしようという運動があります。国営公園になればいいですね。
尚、南北朝時代に活躍した、菊池一族の「菊池城」は、菊池市隈府(わいふ)にあり、この「鞠智城」とは、関係ありません。
めちゃかわいいです笑
でも私もまだ鞠智城は未踏の地ですよ笑
こないだのメロンドームの帰りに行ったのかな
八角形の鼓楼には興味が湧きますね。
近くに「水辺プラザ」があって、温泉つきの個室に家族みんなで泊まったこともあります。
七城に行った帰りに鞠智城に立ち寄りました。
鞠智城では、「ころう君」とクマモンのツーショットの写真がありましたよ。
鞠智城は、広大な敷地の中にあります。
ここに座っていれば約1300年前にタイムスリップするみたいです。
そうですか、お嬢様が菊鹿町にお住まいですか?
今は、合併して山鹿市になっています。
私も何十年ぶりにここに行きましたが、いい所ですね。
これからは、菊池渓谷も素晴らしいでしょうね。
お昼は、「だご汁定食」をいただきました。
玉名駅からバスで1時間かけて鞠智城へ。ここからのJRウォーキングコースもいいですよ。
熊本でも県南の人はこの城の存在すらまだ知らない人が多いかも知れません。。。
鞠智城は初めて行きました。
白村江の戦いのあと、唐・新羅の侵攻に合わせ、水城、、大野城、基肄(きい)城までは、知っていましたが、鞠智城があるのは知りませんでした。
広大な敷地ですね。
そうですね。ここのJRウオーキングもいいかもしれません。七城のメロンドームも入れたらいいのですが・・・・・