4/18(日)日田街道3日目。自宅から車で杷木町まで行き、杷木に車を置き、バスで前回ゴール地甘木宿まで行きました。バスで35分ですが、歩くとなるとさてどのくらいかかるのでしょうか?
9:00 前回ゴール地二日町よりスタート。
歩いていると商店街のお菓子屋さんのポスターに「為朝饅頭」があります。よく見てみると、「為朝伝承の地・朝倉」と書いてあります。
朝倉高校の史学部の生徒さんが、古文書を頼りに朝倉市上秋月で為朝の墓、朝倉郡東峰村で母の墓を見つけたとか・・・・
詳細はこちら⇒ 「源為朝の墓!?見~つけた!!」 朝倉高の史学部員 探索の様子を動画配信|【西日本新聞ニュース】 (nishinippon.co.jp)
実は、今日日田街道を歩くに先立って以前この街道を歩いた方のブログを読みました。それによると、甘木商店街にアーケードがあると書いてました。
然し、探してもアーケードは見当たりません。近くの人に聞いてみると、アーケードは撤去され、車も通れる道になったそうです。
商店街の名前も「甘木アーケード商店街」⇒「甘木本通り」になったそうです。
須賀神社の鳥居から右折します。左側には、「甘木発祥の地 安長寺」があります。
【安長寺】朝倉市の中心・甘木町は安長寺の門前町として発展しました。 甘木という地名も、甘木遠江守安長(あまぎやすなが)が建立した甘木山安長寺(かんぼくざんあんちょうじ)から由来すると言われています。 毎年1月4日、5日に開かれる初市(バタバタ市)が有名で、名物の豆太鼓(バタバタ)を求める参詣者で
賑わいます。「バタバタ」とは幼児の顔が描かれた縁起物の豆太鼓の事で、柄の先に平たい太鼓のついた郷土玩具です。柄を持って太鼓を回すと、
両脇にぶら下がった豆が太鼓を叩き「バタバタ」と音がします。これを買うと疱瘡にならず、 子供を守り好運をもたらすと言われています。
安長寺のご本尊である「延命地蔵菩薩」の申し子と言われています。
また、安長寺には、樹高31,5m、胸高周囲11,4m、樹齢1100年の大樟(女樟)があります。須賀神社の大樟(男樟)と共に夫婦樟と呼ばれています。
五軒屋交差点から県道に合流します。頓田の信号の所には、立石神社があります。ここには、芭蕉の句碑が。説明文もなくどんな句かわかりませんでした。
民家には、もうなんじゃもんじゃ(ひとつばだこ)が咲いています。月末ぐらいに咲くのですが、今年はお花はみんな早いですね。
古賀茶屋にやってきました。昔は、ここにお茶屋さんがあったのでしょうか?調べてもわかりませんでした。
この日田街道は、猿田彦の石碑が多いですね。先ほどの立石神社でもありました。
朝倉市には、中小の河川が多く存在しています。平成29年(2017)の北部九州豪雨では、このような河川が氾濫しました。
佐田川を過ぎ相窪の信号の所には、「幸神」(さえのかみ)があります。道祖伸の一つだと思いますが、夫婦和合、子宝の神の意味があるそうです。
一里塚の信号があります。このあたりに一里塚があるのかな?と思い付近を捜しますが、見つかりません。名前だけが残っているのでしょうね。
歩いていると、左側に銀杏並木があります。ここは、朝倉農業高校跡です。現在は、杷木の朝倉光陽高校に統合されています。
十文字醤油は、大正5年(1916)創業。
【三所神社】
三所神社を過ぎ、久保鳥という所から旧道に入ります。入るとすぐ右側に「豊竹若葉太夫」という記念碑が建っています。横を見ると「大坂二代目豊竹若太夫門人、上座郡大庭邨丸山善平」と書いてます。多分大坂浄瑠璃の義太夫の方でしょう。上座郡というのは朝倉郡のことです。朝倉郡が発足したのが明治29年ですのでその前の方だろうと思います。
旧道を歩くと荷原川(いないばるがわ)に来ます。確か地図ではここに橋がかかっているのですが・・・・・北部九州豪雨で流されたのかな?
国道の方の方に迂回し再び旧道に戻ります。
歩いていると民家の入り口に「道祖神」がありました。道祖神というのは、悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境、峠、辻などに祀られる神です。
新立川も工事中。
【幸神】は夫婦和合、子宝の神。
浄福寺を過ぎると桂川も橋梁工事中です。
比良松の交差点の所に「はとまめ屋」さんがあります。ここで最初の休憩をします。
比良松交差点の向こう側には、比良松中学校です。九州北部豪雨では、技術室が川にえぐられて傾きました。
※九州北部豪雨の詳細は、こちらから 平成29年7月九州北部豪雨 - Wikipedia
長文になってしまいましたので、(その3-2)に続きます。
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