今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

俳優・川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場した日

2006-07-02 | 歴史
今日は何の日~毎日が記念日によると・・・1896明治29)年の今日(7月2日)は、俳優・川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場した日だそうだ。
川上音二郎は、1864年2月8日(文久4年1月1日)、現在の福岡市博多区対馬小路に生まれ、「オッペケペー節」で一世を風靡した俳優で、本名(幼名)は川上音吉。 1911(明治44)年11月11日没。
「オッペケペ節」は、明治中期、自由民権運動が弾圧されるなか、寄席で歌われた俗謡である。
権利幸福きらいな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい 
オッペケペー オツペケペッポー ペッポッポー
堅(かた)い上下角(かみしも)とれて マンテルズボンに人力車
いきな束髪(そくはつ)ボンネット
貴女(きじょ)に紳士の扮装(いでたち)で 
外部(うわべ)の飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない こころに自由のたねをまけ 
オッペケペー オッペケペッポーポー
(以下略)
川上音二郎の名前は知らない人でも、この有名な、「おっぺけぺ節」は知ってるだろう。
明治になって、福沢諭吉らが紹介した西洋の自由思想が、人々の間に広まっていた。板垣退助・後藤象二郎らが、1874(明治7)年に民選議院設立建白書を提出しこれが自由民権運動の口火となった。板垣退助らは土佐(高知県)で立志社を結成し、1875(明治8)年には全国的な組織をもつ愛国社を大阪で結成。はじめは不平士族が中心であったが、やがて商工業者・地主・知識人らが参加するようになり、各地に政治団体がうまれて、地租の軽減・条約改正・地方自治などの要求もかかげるようになった。1880(明治13)年、愛国社は国会期成同盟とあらため、運動はさらに発展したが、同年4月5日、政府が、警察の許可無く自由民権運動の集会や団体の結成を禁止するばかりか警察が集会を解散させる権限を有する集会条例を制定して弾圧に乗り出した。このような中、同月17日には、「国会ヲ開設スル允可(いんか=許可)ヲ上願スル書」を2府22県の請願人の代表97人が政府に提出。政府がこの受け取りを拒否したことを契機に民権運動は全国的に広まった。しかし、このような、民権運動もその後の政府の断固たる弾圧によって、下火になっていた。
明治政府の御雇外国人で、司法省法律顧問をしていたボアソナードは、フランス法に基づいて旧刑法・治罪法を起草、また民法編纂に関与していた。しかし、彼が力を入れた民法の内容が、天賦人権説に基づき日本社会の人倫をこわすとの反対がおこり、民法典論争の結果、民法は施行延期となった。1887(明治20)年、井上馨外相の、外国人判事任用などを内容とする条約改正案(英独案)に対し、ボアソナードは、外国人裁判官任用反対の意見を提出した。意見書は秘密出版にふされ、民権派に流布した。それに反対した井上馨は同年9月、辞職においこまれ、条約改正は失敗した。この井上馨外相の条約改正案をめぐって、屈辱的外交の打破をスローガンに反政府運動は再度活発になっていく。
後藤象二郎ら旧自由党・改進党幹部70余名は10月、東京芝公園の三縁亭で丁亥(ていがい)倶楽部を組織、民権運動は、大同団結した。そして、2府18県の有志者たちの手で政府に提出された三大事件建白書(言論集会の自由、条約改正中止、地租軽減)は、低迷していた民権運動に大きな活力を与え、各地方代表はぞくぞく上京し、元老院議官へ三大事件の採決を迫った。これを恐れた政府は、請願・建白運動・屋外集会・デモに対し厳しい制限を加え、1887(明治20)年12月、突然保安条例を発布して、26日から28日までに、570名の壮士を皇居外三里の地に追放したのである。土佐の片岡健吉ら16名は、条例の不当を唱え退去を拒んだことから禁錮3年に処せられた。また、これに合わせて、新聞紙条例・出版条例も改正され、政治言論活動は更に抑圧されていった。
こうした、政府の言論抑圧に対して、明治20年から21年にかけて、あの手この手で弾圧を潜り抜けたものに、「政治講談」「路傍演歌」「壮士芝居」があった。
これらは、民衆とじかにふれあう新しい動きであった。、「政治講談」の担い手となったのが、伊藤仁太郎(いとうにたろう、講談師としての名は伊藤痴遊)・奥宮健之(おくみやけんし)らであった。伊藤は保安条例で退去命令をうけた旧自由党の闘士であり、奥宮は自由党激化事件の名古屋事件に連座して無期徒刑(後に特赦)となった旧自由党員であった。彼らは民衆の中に伝統的な語りを持ってはいることで、政治意識の高揚をはかっていた。しかし、官憲の干渉と弾圧が激しく、中止の連続だった。このことがかえって演者の士気を高めることとなり、人気も上がった。
「路傍演歌」は「演説」を「演歌」にして自由民権を標榜しようとしたもので、新しい発想のもとに生まれた表現形態であった。演歌士は、ザラ紙・木版画に刷った一部一銭(金のないひとにはタダでくばった)の”楽譜”を手に、怒鳴り声にちかい声で歌ったという。正に「壮士節」であり、「ダイナマイト節」「ヤッツケロ節」は当時大流行したという。演歌の初期の「ダイナマイト節」や「ヤッツケロ節」の表紙には、木版画の、卒塔婆に「壮士 自由演歌」と記してあったといい、これが 演説 ならぬ歌をもって説くの意であり、「演歌 」とはこの時の新造語であった。このことから、後に、歌謡界でも演歌は大阪が本場となるのである。
川上音二郎・角藤定憲(すどうさだのり)は、壮士芝居の先駆者と言われている。民権運動高揚期の川上は、自らを自由童子と名乗り、自由党壮士として、政府攻撃の演説を行っている。その間、集会条例違反などで逮捕されること180回を超えたといわれる。
しかし、政談演説がさらに厳しく取り締まられるようになると、大阪の落語家・桂文之助(かつらぶんのすけ。)の弟子となり、時局風刺の「オッペケペ節」を考案。芸名も浮世亭○○(まるまる)として、ザンギリ頭に鉢巻、筒袖に陣羽織といった出で立ちで、日の丸の扇子片手に「おっぺけぺ節」を講座で歌って人気を博した。(※桂文之助=明治中期の上方落語黄金時代を築いた四天王の一人といわれている。二代目文枝の兄弟子らしい。上方落語家 / 桂文枝師匠"わが人生を語る" より)。
1891(明治24)年には、中江兆民のアドバイスから「書生芝居」の一座をつくり、大阪・堺の「卯日座」で旗揚げをした。矢野文雄(龍渓)の「経国美談」や1882(明治15)年、岐阜で遭難した板垣退助の事件を素材とした「板垣君遭難実記」などを上演、大当たりをとった。川上一座の「壮士芝居」は、演技・内容とも拙劣・低俗であったというが、政治風刺や、体当たりの演技が民衆にうけ、大変な人気を呼んでいたようだ。川上に深い影響を与えた人物には角藤定憲がいる。角藤も川上と同じ様に自由民権の思想家の感化を受け、自由党員として活躍した。その後、中江兆民(なかえちょうみん)の門に入り「東雲(しののめ)新聞」の記者として活躍したが、1888(明治21)年、大阪で「大日本壮士改良演劇会」を結成。兆民は 自由民権運動の啓蒙策として 角藤の「大日本壮士改良演劇会」を後援した。角藤は、大阪・新町座で自作「豪胆之書生」を上演した。川上や角藤らのこの新しい芝居は総称して「新演劇」と呼ばれ, 歌舞伎の「旧派」と対比して「新派」と通称されるようになった。当時、演劇といえば歌舞伎に限られ 役者の一族ででもなければ役者になれない状況が一変し, 素人でも役者になれる時代が到来したのである。つまり、今日の『新派』劇の草分けとなったのである。※地下鉄・長堀鶴見緑地線の西大橋駅のすぐ北側。“新町南公園”の北東隅に, 「角藤定憲改良演劇創始之地」と書かれた大きな碑が建つている。
「壮士芝居」は、その後、政治臭を脱し、日清戦争期に入ると、「壮絶快絶日清戦争」と戦争で連れ帰った朝鮮人を出演させて話題となった日清戦争の「見聞日記」を上演するなど戦争を舞台にしたものを演じ大当たりさせた。しかし、川上は、次第に、このような、戦争賛美など時代に便乗し、民権精神を喪失していったが、近代演劇について新しい面をひらいた点では、評価されている。
川上は、新派の基礎を築いた後、才女の誉れが高く、美貌で諸芸に優れ伊藤博文や西園寺公望など明治の元勲の贔屓(ひいき)を受けていた東京・日本橋葭町(よしちょう)の美人芸者貞奴(さだやっこ)と結婚。1896(明治29)年1には神田に川上座を建設したが、衆議院議員選挙に立候補して落選、選挙資金返済のため川上座を売却している。その後、貞奴らと欧米を巡業し1900(明治33)年には、パリ万博でオッペケペ節を披露し、大好評を博したという。帰国後、『オセロ』『ハムレット』などを上演するなどして興行師として成功するが、病気のため大阪で没した。享年47歳であった。川上一座はその後、1917(大正6)年、沢田正二郎により、国民演劇の創造を目標として作った劇団「新国劇」として生まれ変わった。その後、島田正吾や辰巳柳太郎に引き継がれ、昭和期の代表的大衆劇団として人気を得ていたが、1970年代に入って中心俳優の高齢化、若手俳優の退団等で衰退、1979(昭和54)年株式会社新国劇は倒産した。
(画像は「オッペケケ節」川上音二郎が歌って一世を風靡した。早稲田大学演劇博物館蔵。週刊朝日百貨「日本の歴史」に掲載文より)
参考:
ボアソナード博士と「自由と民主」の精神
http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/boissonade.html
ボアソナード
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q290R200.HTM
自由民権運動- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95
三大事件建白運動
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H180R100.HTM
自由民権運動
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jiyuuminnkennunndou.htm
自由民権運動の展開
http://homepage2.nifty.com/nishitaya/intro2a.htm
二村一夫『高野房太郎とその時代』(19)「伊藤痴遊とその仲間たち」縦書き版
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/takanoden19-tate.html
新派劇- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B4%BE%E5%8A%87
日本現代舞踏の起源
http://www.i10x.com/planb/sp/murakami/01.html
演歌
http://www.blog-station69.com/top/entertainment/guide/enka.html
演歌とは
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/enkam1.htm
「ダイナマイト節」 「ヤッツケロ節」
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/enkam2.htm
明 治 年 表
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/meiji/meiji.htm
角藤定憲改良演劇創始の地
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/art/Engeki.htm
松岡正剛の千夜千冊『博徒と自由民権』長谷川昇
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0549.html
矢野龍渓
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yano_r.html