今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

パリ祭、フランス革命記念日

2006-07-14 | 記念日
今日(7月14日)は、「パリ祭、フランス革命記念日」
1789年7月14日、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃・占領し、多くの政治犯を解放した。これがフランス革命の始りとなった。
フランス革命(1789年7月14日 ~1794年7月27日)はフランスで起きた典型的な市民革命であり、近代市民社会の成立に影響を与えた大革命である。
18世紀に入った欧州各国では、啓蒙思想が広まって新しい社会の息吹が聞こえていた。「責任内閣制」を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先んじて近代国家への道を歩んでいた。
しかし絶対君主制を誇ったフランスでは、未だに旧体制(アンシャン・レジーム)による封建支配が維持されていた。このアンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分にわかれており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民(商人・農民・都市市民をさす)が2600万人いたという。そして第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。
しかし、一方でアンシャン・レジームに対する批判もヴォルテールルソーといった啓蒙思想家を中心に高まり始めていた。また、平等、自由を謳うアメリカ独立宣言も、アンシャン・レジーム批判に大きな影響をあたえていた。
フランスの絶対君主制の中で農民は苦しめられ、商工業者も自由な活動をさまたげられ、次第に不満は高まっていった。国王
ルイ16世は、なし崩しに近代化をくわだてたが、特権階級の反対でうまくいかず、財政は危機に陥っていった。そのため、国王は増税による財政立て直しを図るため三部会(各身分の代表から構成される身分制議会)を召集したが、第三身分(市民など)の代表は、一部の貴族や僧と合同して国民議会をつくり、憲法の制定を要求した。国王がこれを武力で抑えると、パリの民衆は1789年の今日(7月14日)バスティーユ牢獄を襲い革命が始まった。
このバスティーユ牢獄は、パリ市内にあり、牢獄という名前ではあるが、もともと要塞として使われていた建物で、ルイ14世時代から政治犯を収容するようになっていたので、専制政治の象徴でもあったようだ。そのことから、市民たちがバスティーユ牢獄を占領したのであるが、ただ、襲撃の時、監獄に当時収容されていた囚人はたったの7人だけで、政治犯は1人もいなかったという。そこには、僅かの傭兵と老兵100人余りが守っていたらしいが、そこに市民が攻め込み、流血騒ぎが起こり、地下牢から囚人が解放されたようだが、一説によれば、市民側の犠牲者数は死者100名、負傷者73名と伝えられているそうだ。ともかく、この襲撃より、 これ以後、市民たちが武器弾薬を手にすることができたのは成果であろう。
しかし、7月14日のこの日、国王ルイ16世はいつものように狩りを楽しんでいたらしく、その日の日記にはたった1行、"Rien"「何もなし」と書かれていたという。つまり、お膝元で大事件が起きているにもかかわらず、王様はこのような調子であり、このことは、王様と民衆との生活が、ことほどさように隔たっていたという証しでもある。
フランス革命の動きは、これ以前のヴェルサイユ宮殿のテニスコートでの球戯場の誓い(テニスコートの誓いともいう)辺りからもう事実上始まっていたが、一般には、この7月14日の象徴的な日が革命の始まりとされている。
この日が日本で「パリ祭」と呼ばれているのは、ルネ・クレール監督の1932(昭和7)年の映画"Le Quatorze Juillet"(7月14日)の邦訳名が『巴里祭』だったことに因む。この映画が日本で公開されたのは翌1933(昭和8)年のことである。
このバスティーユ牢獄襲撃から1年後の、1790年7月14日にシャン・ド・マルスで祝典(連盟祭)が大々的に行なわれたが、当日、この祝典には国王ルイ16世が参加しているそうだ。パリで行われたこの全国連盟祭は、それ以前にフランスの諸地方で始まっていた連盟祭を束ねる意味を持っていたようで、このとき、同時に、国民的な規模での連帯を創り出そうとしたもののようだ。 もともと、”連盟祭”と"パリ祭"とは、正確には同じものとは言えないようだが、第1回目の革命祭典にルイ16世が臨席したというのが面白い。このときには、まだ、民衆は王権を認めていたのである。 フランスではこの革命記念日を祝い、国民の祝日となっているものの、この日を「パリ祭」と呼ぶのは日本だけである。
バスティーユ牢獄を襲撃後、革命はその初期、穏健なミラボーラファイエットら(立憲君主制派)によって指導される。市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命した。そのとき、彼の提案により三色旗(現在のフランス国旗)を革命の旗にした。
その後、1791年に民衆との仲介者であったミラボーが死ぬと同年6月20日、過激化する革命を嫌った国王一家は、王妃マリー・アントワネットの愛人であるスウェーデン貴族フェルゼンの助けを借り、王妃の実家であるオーストリア・ウィーンへと逃亡を企てたが、ヴァレンヌで国民に見付かり、パリに連れ戻されるというヴァレンヌ事件が起き、この逃亡により国王は国民の信頼を失い。これを気に、国内的には右翼・中道派・左翼によるテロが続発、対外的には王党派や外国軍(オーストリアやプロイセン他)との戦いも熾烈化し、1792年4月、ついに、オーストリアに対して宣戦布告するが、フランス軍は各地で戦いに負ける。そして、プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で組織された義勇兵達がパリに集結し、ヴァルミーの戦いを期にプロイセン軍と戦う。パリ市民と義勇兵は、フランス軍が負ける原因は戦争に非協力的な国王にあると考えて1792年8月10日に王宮を攻撃し、国王の王権を停止して国王一家を全員タンプル塔に幽閉した(8月10日事件)。
このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌「ラ・マルセイエーズ」が後のフランス国歌となった。もともとは、「ライン軍のための軍歌」という名であったものが、やがて革命で王政が倒壊し、共和制へと移っていく間にいつしか国歌になったと言うもの。平和主義者の日本人からするとこれが国歌かと思うかもしれないが、今のフランスがどのようにして成立したかをよく表している。普通、どこの国でも、自由だとか平和だとか言うものは、口先だけのきれいごとではなく、戦いにより、多くの市民たちの犠牲を払って得ているものだ。その歌の歌詞と、曲が聴けるので覗いてみたら・・・。
~フランスの歌をあなたに~  → http://www.geocities.co.jp/Milkyway/7376/chansons002.htm
8月10日事件他、色々混乱はあったが、国民公会(フランス革命時に行われた初の男子普通選挙によって生まれた議会)は、王政を廃止し、1792年9月21日に共和政樹立を宣言した(フランス第一共和政)。そして国王ルイ16世を裁判にかける。戦争の際王がフランス政府と国民を裏切っていた証拠が数多く出てきた為、僅差で国民公会はルイ16世の処刑を議決する。国王が革命広場(現在のコンコルド広場)で断頭台の露と消えるたは翌1793年1月21日のことである(ギロチンによる処刑)。また、王妃マリー・アントワネットは同年10月16日に処刑された。
国王処刑の後、ロベスピエールの率いる急進派のジャコバン派が独裁的権力をにぎり、反対派を弾圧する恐怖政治をしき、農民に無償で土地をあたえるなど徹底した変革を行った。しかし、ロベスピエールは1794年に保守派の反撃にあって処刑された。
1795年国民公会は解散され、総裁政府が成立するが、政治や社会は安定しなかった。その後ナポレオンが1799年クーデターで政権をうばい、フランス革命は終結した。 1794年のテルミドールのクーデターによって革命は事実的には終了したが、革命の影響によって国内は混乱を極め、1799年のブリュメールのクーデタにまで至った。なお心理的な革命の影響は、1801年にナポレオンローマ教皇と結んだコンコルダートによってフランスに国教(カトリック)が復活するまで継続した。
(画像は、「バスティーユ襲撃」フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
フランス革命 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD
世界史講義録/第78回フランス革命1 ~4(第78回~第81回4頁あり)
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-78.html
フランス革命(1789年~1799年)年表
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/furannsukakumeinennpyou.htm
ルネ・クレール(巨匠の歴史)
http://cinema-magazine.com/old_page/kyosyo/runekureeru.htm
パリ祭
http://www.paris-sai.com/parictoha.html