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「鴎外忌」小説家,戯曲家、軍医の森鴎外 の忌日

2006-07-09 | 人物
今日(7月9)は、「鴎外忌」小説家・森鴎外(小説家、戯曲家、軍医) の1922(大正11)年の忌日。 <60歳> なお、森鴎外「鴎」の字は、正しくは、「鷗」が正字。
森 鴎外(もりおうがい)は、1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国(現・島根県)津和野に生まれる。本名林太郎。
代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、長男として期待され、幼い頃から医学が比較的発展していたオランダ語やドイツ語を習らわされたため、語学は極めて堪能で、ドイツ人学者にドイツ語で反駁をして打ち負かすほどまでに成長。(10歳にしてドイツ語習得のため進文学舎へ通学)1874年第一大学区医学校(現・東大医学部)予科に入学(13歳) 。1881年7月、東京大学医学部を卒業(20歳)。 そして、両親の意に従い陸軍軍医となる。1884(明治17)年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学ぶ。
『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』『ヰタ・セクスアリス』などに、そのドイツ時代の鴎外を見て取ることができる。その後、陸軍軍医総監へと地位を上り詰めるが、創作への意欲は衰えず、『高瀬舟』『阿部一族』などの代表作を発表する。鴎外は、一口に「紅露逍鴎」といわれる明治時代の4文豪の1人である。「紅露逍鴎」とは、前より、尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遥、それに森 鴎外をさす。当時、真実あるいは、事実を重視する坪内逍遙らの自然主義に飽き足らず、美や理想をこれに対置した反自然主義とも言うべき文学があったが、夏目漱石や森鴎外はこのような反自然主義傾向の支柱としての双璧にあった。だが、鴎外は、夏目漱石と並ぶ文豪ではあるが、どちらかと言うと軍医が本職で小説家は副業であったといえる。
小説家としては、ロマン主義から出発し『舞姫』『雁』などの小説を発表後、簡潔な文体での『阿部一族』、『山椒大夫』などの優れた歴史小説や『澀江抽齊』(しぶえちょうさい)などの史伝を著した。又、『ファウスト』『即興詩人』などを翻訳した業績でも名高い。しかし、鴎外は軍医として、軍籍に着いていながら活発な執筆活動をしていたため、小倉市(現・北九州市小倉北区)に左遷(1898年)されたことがある。そのことが原因か、左遷から2年後の日露戦争の出征(1904年4月)から帰ってきても、5年間はあまり筆を執らなかったことがある。
漱石は1905(明治38)年に「吾輩は猫である」を発表して、一躍国民的作家となるが、鴎外は、1907(明治40)年3月、歌壇の各派の代表者である佐々木信綱、与謝野鉄幹、伊藤左千夫とその弟子達との観潮桜歌会を始めて、後の新文学の盟主と仰がれる地盤を作ってはいたが、彼が、真に旺盛な活躍を再開するのは、1909年1月の雑誌「スバル」発刊を契機にしてである。文芸誌「スバル」は短歌誌「明星」が、通算100号で、1908年11月に終刊となるとこれを継いで創刊された。巻頭は森 鴎外の戯曲、小説は、木下杢太郎、石川啄木、小山内薫、上田敏、薄田泣菫らの短歌、詩、随筆などが掲載された。「スバル」は鴎外を指導者、「明星」の与謝野寛、晶子夫妻を顧問役にして、自然主義に対抗した文学活動の拠点となった。
1912(大正元)年、7月29日、明治天皇が心臓麻痺のために死去した。鴎外は9月13日、明治天皇の大葬に参列。その時の肩書きは陸軍軍医総監。帰宅途上の翌14日未明、彼は陸軍大将・乃木希典夫妻、自刃の報に接する。乃木希典と鴎外はドイツ留学の時期を共にした仲であった。5日後、鴎外は、乃木の死に促されたように小説『興津弥五右衛門の遺書』を一気に書き上げたという。藩主に殉じて切腹した武士の物語である。乃木大将の殉死に刺激された鴎外は殉死をどう感じていたのだろうか?以後、彼は、現代小説を去り歴史小説の執筆に打ち込む。
軍医としては、1907(明治40)年11月、陸軍軍医の頂点である陸軍軍医総監、陸軍省医務局長の地位にまで上り詰めている。
鴎外は文学・医学の分野を問わず論争が絶えない人物であったという。しかし鴎外が医学会に寄稿する論文の多くはドイツなどの論文の広範な引用が多く、文章のレトリックや学問的な裏付けに拘るばかりで、実質的な臨床医学からはかけ離れていたたと言われ、当時の医学界からは最初から相手にされてなかったとも言われている。
江戸時代には余り発生していなかった、脚気が、明治になると大流行する。日清戦争(1894~5年)、日露戦争(1904-5年)では、陸軍は多くの患者を出した。
1908(明治41)年、10月10日発行の医学雑誌『医海時報』には、日露戦争での陸軍の即死者約4万8000、傷病死3万7000余、うち脚気による死者2万7800余という。
又、日本陸軍軍医学校の記録には「古来東西ノ戦役中殆ンド類例ヲ見ザル所ナリ」とあるという。だが同時期海軍の患者は、皆無に近かったという。海軍では英国留学を終えた軍医・高木兼寛(かねひろ・後の海軍軍医総監)がいち早く脚気の調査を始め、彼は兵食の食品成分に注目し、原因は含水炭素量に比べ蛋白質量が少ないことにあると結論づけた。こうして、海軍ではそれまでの白米食をパン、牛乳、肉、野菜などの「洋食」にし、さらに、その後は米麦混合食に切り替え、明治10年代後半には脚気全滅に目覚しい成果をあげたという。だが、海軍で脚気が撲滅された後も、陸軍では森林太郎(鴎外)、石黒忠悳等が科学的根拠がないとして麦飯の食用に強硬に反対し、日露戦争でも兵食に麦飯を給するのを拒んだ(自ら短編、 『妄想』で触れている)ため、陸軍が25万人もの脚気患者を出し、3万名近い兵士の命を犠牲にしたことに責任があるとされている。戦後、1908(明治41)年5月になって「臨時脚気病調査会」が陸軍の提唱で設立された。会長には陸軍省医務局長になっていた鴎外が任命されたが、その発足会で陸軍大臣の寺内正毅が陸軍では麦飯を支給すべしと宣言して陸軍の方針を決着した。その後、1912(大正元)年の鈴木梅太郎のオリザニンの発見などによって脚気問題は医学的にも解決した。鴎外は退役後も死の年の前まで脚気調査会の臨時委員を勤め、毎回欠かさず出席したが、反麦飯論の誤りについて公式に認めることはなかったという。これに対して石黒は晩年に誤りを認めた。鴎外の頑固さが伺える。
森鴎外が、『澀江抽齊』を発表したのは、1916(大正5)年だった。この作品を嚶外の最高の作に押す人も少なくないという。陸軍軍医総監だった鴎外は、この年、54歳で退職している。この退職と、『澀江抽齊』の執筆とは無縁ではないだろう。引退後筆1本で立つ決意だった鴎外は、執筆にも力がこもっただろう。軍医として最高の地位に昇進した鴎外は、長い間、官僚機構の制約、束縛、掟の中で、生きてきたが、そのような、束縛の中でも生の瞬間があることをしばしば描いている。たとえば、抽齊の妻五百(いほ)の生き生きとした姿に鴎外の美意識が見られる。五百は、入浴中、夫が武家姿の強盗に囲まれたのを知り、口に懐剣をくわえて、腰巻1枚で進み入り、手にした小桶の湯を賊に浴びせて退散させる。抽齊が自邸で何百両という金子に窮すると、五百は、「私におまかせなすってくださいまし・・・」といって、たちまち工面を成功させる。又、たとえば『山椒大夫』の中の安寿は、弟を逃すために身を滅するのだが、そのときの少女の決然とした姿の描写にも彼の美意識が見える。同年に書いた『寒山拾得』では、もったいぶってあらゆる肩書きを並べる「偉い人」を寒山、拾得が笑い飛ばす。鴎外は肩書きの束縛に飽き飽きしていたのだろう。
この森 鴎外が1922(大正11)年の今日(7月9日)逝った。死の2日前の7月6日、生涯の友であった賀古鶴所(かこ つるど。軍医・歌人)に遺言の代筆を頼んであった。遺言は三通残っていたといわれるが、その中の「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言は有名。その遺言により墓碑には一切の栄誉、称号を排して「森林太郎墓」とのみ刻されている。
(画像は、森鴎外。フリー百科事典Wikipediaより借用)
参考:
森鴎外 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96
森鴎外
http://www.horagai.com/www/who/65morio1.htm
電子図書館 書籍デジタル化委員会
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/
作家別作品リスト:森 鴎外(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person129.html
鴎外と殉死
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/4066/ougai/ougai1.html
130. 日清・日露戦争で勝利をもたらした暁の脚気菌
http://www.microbes.jp/aimai/kurashi/fl130.htm
神経学の歴史2 /78. 脚気の原因を求めてその1。高木兼寛
http://homepage3.nifty.com/sinkei/history2.htm#78
陸海軍における脚気の問題
http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/igaku02.html
史跡・森林太郎墓
http://www.education.ne.jp/kyoiku-center-mi/bunkazai/bunm8a.htm
ファウスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88
即興詩人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E8%88%88%E8%A9%A9%E4%BA%BA
脚気- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%9A%E6%B0%97
石黒忠悳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E5%BF%A0%E6%82%B3